Quantcast
Channel: WebVANDA
Viewing all 633 articles
Browse latest View live

佐野邦彦氏との回想録10

$
0
0
この投稿も10回目となり、今回は20世紀最後の19996月に発行された「25」発行までの佐野さんとの回顧を紹介する。まずこの前年には、フィフス・ディメンションなど196070年代に活躍したポップ・スターのライヴを聴かせるスポット「六本木Sweet Bazil 139」(注1)がオープンするという、佐野さんにとって歓迎すべき出来事があった。ここではソフト・ロック系のライヴもコンスタントに行われており、オープン当時彼は頻繁に通っていたようだった。

かくいう私もたまたま上京していた折に、The Belmonts(「浮気なスー(Runaround Sue)」で知られるDionのバッキング)の単独ライヴに誘われ、佐野さんや松生さんと訪れる機会を持った。当日はGS出身の“ほたてマン“で知られるR氏も観覧に訪れており、演奏中にステージへ飛び入りしてギャラリーを楽しませてくれた。そんな319日には佐野さんが熱心に研究を続けていたGary Lewisの公演が行われている。テレビ中継(NHKBS)もあったので、ご覧になった方も多いと思う。

そしてこのライヴの翌日には、通訳に岩井信氏を帯同してインタビューに臨んでいる。その中では、山下達郎氏が「土曜日の恋人」のモチーフとした「We’ll Work It Out」(1965年サード・アルバム『Everybody Loves A Crown』収録)は「レコーディング以来一度も演奏していない」、1967年の傑作第7作『New Direction』で起用したGary Bonner=Alan Gordon(注2)について、「あれは失敗だった。自分には、Snaff GarrettLoon Russellのコンビがベストだった」など、興味深いリアルな本音を聞き出している。こんな貴重な話を引き出せたのは、熱心なファンとの交流で、Gary本人も大満足だったという証拠だろう。なおこの内容は「25」や、Web.VANDAでも報告されている。


では「25」の話に移るが、ここで佐野さんが熱心に発信していたものとして、「Rock & Pops In LD &DVD」と題したロックやポップスの映像ディスク・ガイドだった。当時、DVD再生可能なゲーム機「Playstation 2」の大ヒットで、それまでのビデオやLDから劣化しないDVDに切り替っていく流れをいち早く取り上げたものだった。当時、CDLPだけでなく音楽ソフトをビデオ(VHSBeta)やLDで大量に所持していた佐野さんは、全てをDVDに切り替えるべくハードを揃えていた。さらには「リージョン・フリーDVD再生機」も購入し、海外盤の貴重映像チェックも怠らなかった。そんな彼はどんな映像も永久保存にすべく、当時「VHSビデオ」「Betaビデオ」「LD」でコレクションしていた音楽ソフトを「DVD」(その後Blue Ray)やパソコンに接続して、貴重映像の保存に邁進していた。

またこの「25」では、「24」に続きサライター(サラリーマン・ライター)浅田さんの英国ポップスの研究文献「Roger Cook=Roger Greenaway」「John Cater」「Tony Burrows」の充実したWorksが三作掲載されている。そんな彼とは前年に開催された「VANDA Meeting」にて「Can’t Smile Without You」(Barry Manillow等)の話で意気投合し、それ以来電話やメールで交流するようになっていた。とくに彼のH.P.Too Many Golden Oldies』を通じて英国ポップスについての情報交換を頻繁に行っていた。この回の掲載分では、以前より佐野さんから聞いていた部分もあり、そんな三者でのトライアングルな関係を楽しんでいた。またこの話を彼にすると、数日中に音源を収録したカセットが送られてきた。佐野さんは思い立ったら即日タイプの方で、こんなやりとり以外でも彼のお奨め音源を入手すると即カセット(その後、MD~CD-R)が送られてきた。これは私がJigsawPilotなどを紹介して以来の慣例としてずっと続いていた。

ちなみにこの号へ、私が寄稿したのは連載コラム「Music Note」の1974年だけだが、この掲載分の出だしでふれた197421日のElton John日本武道館公演の話から、昔通った来日公演の話で盛り上がっていた。その件は本文でもふれているが、当日のEltonは当日に衣装が間に合わなかったためテンションが低く、また「Honky Cat」でのコール&レスポンスに会場の反応が鈍く、さらにむくれてしまった。来日公演のキャッチ・コピーが“クロコダイル・ロックンローラー”だったのにもかかわらず、肝心の「Crocodile Rock」も演奏せずに終演となり、一部来場者(私も含む)が深夜まで会場に居残り抗議をしたというものだった。そんな残念な話は佐野さんにもあり、彼は1973626日のDeep Purple日本武道館公演が中止になったことを会場に行って知らされたことだった。それは、前日の公演でバンドのコンビネーションが最悪で、アンコール無に終わった公演に一部の観客が暴徒化し、場内で破壊騒ぎが起こった結末だったという。

その流れで最悪から最高のライヴの話に移り、佐野さんイチオシは19741月のMoody Blues日本武道館(以下、B館)公演を挙げた。この公演にはメロトロンを操るMike Pinterが在籍しており、(一般の評判は芳しくなかったが)知的な雰囲気のライヴを体験し、待望にふさわしい公演だった位置付けていた。私といえば、197627日のEaglesと同年311日のNeil Young初来日B館公演だった。EaglesBernie Leadonが脱退しJoe Walshが加入したばかりの時期だったが、そこで披露された最高に美しいコーラスは生涯忘れる事のないものとして記憶に止まっている。また、Crazy Horseを率いてのNeilは、『Harvest』の裏ジャケでお馴染みのオルガンが設置されステージでの公演で、そこで披露された(当時、未発表曲)「Like A Harrican」「Lotta Love」の素晴らしさは身震いするほどだった。余談ながら、ここに同行した友人はこのコンサートで「自分の青春は終わった」と言い切るほど感動していた。

こんな話に夢中になっていくうちに、彼から「次回の特集はライヴ・アルバムを特集しましょう!」というところまで発展してしまったのだった。そのコメントは、「25」のP90VANDA Vol.26予告」に「ライブアルバム大特集(Live in Japan特集も含む)」と表記されている。

ここで、「Music Note ’74」に話を戻すが、前出の来日公演の話以外にもヒット曲に関連する話題をいくつか挟み込んでおり、この連載が単にヒット曲の羅列でなく、佐野さんに絶賛されたリアル・タイマーとしての手法がほぼ完成している。

そんな話題をいくつか紹介しておくと、まず業界ネタとして1973920日に飛行機事故で亡くなったJim Croce(享年30歳)が生前発売した3枚のアルバムの爆発的なセールスにより、1974年に発売元のabcは全米一の収益を上げて話題となった。ただ、その5年後の1979年には業績悪化により、MCA(現:Universal)に買収されて消滅してしまった。また、歌詞の話題としてサザン・ロックのLynyrd Skyntrdが発表した「Sweet Home Alabama」は、Neil Youngの「Southern Man」への返礼ソングだということで大きな反響を呼んでいだ。


さらに、“MarstroBarry White率いるLove Unlimited Orchestraの美しいストリングスの音が日本中に響き渡っていた。中でもKLM(オランダ航空)のCMや、伊勢丹の開店テーマに起用された「Love’s Theme」は新しい時代のインストとして広く愛聴された。また、テレビの情報番組『ウィークエンダー』(注3)のテーマとして起用された「Raphsody In White」も、土曜の夜の定番ソングとして長らくお茶の間に響き渡っていた。この話を聞いた佐野さんは「(ナレーションには)アイアンサイドもですよね!」と、話は泉ピン子さんをはじめとする当時のコメンテーターのことまで広がっていった。そんな時、「あんな昔の話がポンポンでてくるなんて凄い記憶力ですね。」と彼に感心された。それまで私自身は「お前は記憶力の活用を間違っている」と皮肉めいた言われ方をされており、佐野さんとの会話はその後のライター活動に自信を持つきっかけとなった。


そんな佐野さんはこの頃、CDのコンピや単行本の制作に邁進しており、この当時彼が手掛けた『The Beach Boys Complete』『All That Mods』などは大きな評判を呼び、外部から続々と研究本の依頼が舞い込んでいた。そんななか、『Pop Hit-Maker Data Book』の話があり、「今度は鈴木さんも参加してください」と誘いを受けた。初めてのギャラ設定の話でうれしい反面、そこに参加される方々の名前を聞いたとき、「私ごとき新参者が書いても大丈夫なんだろうか?」と一瞬不安に駆られた。ただ佐野さんから「鈴木さんのやり方で進めたら大丈夫!」と励まされ、これまで以上に慎重に考えたうえで、9組(Pop Group2組、SongwriterProducer7組)を担当させていただくことにした。正直なところ、Pop groupで「The Grass Roots」、Producerの「Steve Barri」もまとめたかったが、文面はともかくリスト制作に不安があり、この2組は見送ることにした。とはいえ、この続きは佐野さんの代名詞となった『Soft Rock A To Z』の全面改定版『SOFT ROCK The Ultimate!』(2002年)でまとめさせていただくことが出来た。


このように「25」の制作過程では、佐野さんとのやりとりを通して自分の手法に自信を持つことが出来た。ただ今回も余計なことに首を突っ込みすぎていたため、依頼されたコラムは1つだったのにもかかわらず、「3月末締め切り」を大きくオーバーし、GWが終わった56日になってしまった。その完成した25」が届けられた際、その表紙の裏には、『The Beach Boys Complete』『All That Mods』の紹介はもちろんのこと、現在進行中の『Pop Hit-Maker Data Book』や、話を聞いたばかりの『Harmony pop』の紹介も掲載されていた。このように「25」発行以降は、佐野さんのみならず私も彼から受けたVANDA以外の仕事にも大きくかかわっていくことになる。


こんな私が多忙となっていったのは、佐野さんが翌20005月よりスカパーで「Radio VANDA」をスタートさせ、さらにメジャーな存在となっていったことも影響している。またそれ以外の要因として、これまでのように海外物のレヴューばかりでなく、日本物についても手を広げていったからだった。当時の佐野さんは日本物について(一部を除き)未知の分野で、以後のVANDAには日本物のコアな書き手が登場している。ただ何事にもこだわる佐野さんは、1970年から日本の音楽情報に精通し、全般的な情報を持っていた私に白羽の矢を立ててくれたのだと思う。ゆえに「25」発行以降は、佐野さん並みとはいかないが、私もそこそこ表舞台に登場するようになった。次回はそんな26」の発効までについての多忙な日々についてお届けすることとする。

(注1199812月、六本木にオープンした最大250人収容のライブ・ハウス(レストラン兼用)。初期では199961日~6日に毎夜2回、全12回公演を開催したフレンチ・ポップスの歌姫シルヴィ・ヴァルタン公演が連日大賑わいで話題となった。その後、15年間で5,164公演、約100万人弱を動員し、20145月に建造物の老朽化から閉店。

(注2The TurtlesHappy Together」等の作者をはじめ、Bobby Darlin’Petula Clarkなどへの曲提供を通じ、1960年代にソングライター・チームとしての地位を築く。また1970年代に入ってもThree Dog NightBarbra Streisandが彼等(BarbraAlan単独)の曲を取り上げ大ヒットさせている。

(注3)1975年4月放送開始(1984年5月終了)の「テレビ三面記事 ウィークエンダー」。加藤芳郎氏が司会のNTV系ワイドショーで放送時間は毎週土曜日22:00~。オープニング・テーマはLove Unlimited Orchestraの「Raphsody In White」、コメンテーターが登場する「新聞によりますと~」のナレーション部分のBGMはQuincy Jonesの「鬼刑部アイアンサイド(Ironside)(米NBC:ドラマ)」のテーマ曲が使用されていた。
20183141300

『Garden Of The Pen Friend Club』(ペンパル・レコード/PPRD-0003)The Pen Friend Clubインタビュー

$
0
0

弊サイトWebVANDAの執筆者としてもお馴染みの平川雄一率いるザ・ペンフレンドクラブが、3月21日に5thアルバム『Garden Of The Pen Friend Club』をリリースする。
前作『Wonderful World Of The Pen Friend Club』から1年余りだが、同年の9月には初のベスト・アルバム『Best Of The Pen Friend Club 2012-2017』もリリースしており、彼等の創作ペースとリリース・ラッシュ振りには頭が下がってしまう。
既にアルバム試聴トレーラーで耳にした音楽ファンは気付いていると思うが、本作はザ・ペンフレンドクラブが初めて本格的な60年代ソフトロック・サウンドに挑んだ意欲作である。
収録曲11曲の内9曲にストリングスのオーバーダビングが施されており、その演奏を夜長オーケストラ、アレンジャーとして同リーダーの中村康隆が全面参加しているのだ。
プロデューサーとしての平川の飽くなき制作意欲により導かれたバンドが、新たな次元に乗り出していく姿が実に頼もしくもある。

実はある経緯により本作のライナーノーツ解説は筆者が担当しており、このアルバム作りの過程は平川から聞いていたのだが、そんな立ち位置を抜きにしても、本作サウンドの構築力とトータリティーには一音楽リスナーとして敬服している。
彼等に出会って3年半という短い年月だがここまで成長したことに一抹の寂しさもあるが、更なる意欲作を期待しているのは言うまでも無い。
ここでは恒例の平川氏への単独インタビューを掲載しようと考えていたが、昨年から2ヶ月超の期間彼とのやりとりで意見交換していたこともあり、今回は趣向を変えて平川氏以外のメンバーを主にアンケート形式でテキスト・インタビューをおこなったので紹介したい。


※写真左から 祥雲貴行 (Dr, Per)/平川雄一 (Vo, Cho, Gt, Per) 
大谷英紗子 (Sax, Cho)/藤本有華 (Main Vo, Cho)/西岡利恵 (Ba, Cho)
中川ユミ (Glocken. Per)/ヨーコ (Organ, Piano, Cho, Flute)


●本作レコーディングで最も印象に残っている曲を挙げ、その時のエピソードを語って下さい。
(平川以外のメンバー50音順・以下同様)

大谷英紗子:サックスのレコーディングとしては、「My little red book」と、「水彩画の街」が一番「今、録っているな〜」という感覚があったように記憶しています。他の録り終えている音源に音を重ねていく過程や、今回は全体的に「ここ」というベストなタイミングに音を当てはめていくことを意識したレコーディングでした。
コーラスのレコーディングは、「僕と君のメロディ」を録っているときが、歌を歌うって楽しいことだなと思い、好きな歌ですので世界観の中でコーラスができたような気がしています。

祥雲貴行:「飛翔する日常」。最初にデモ音源を聴いた時のイメージと、平川が曲作りの参考にしたという曲のイメージに結構違いがあったので、どちらに寄せるべきか迷ったり、いまいちピンとくるフレーズが浮かばなかったりで、個人練習のときは一番時間をかけました。
結局迷いを払拭できないままレコーディングに臨んだのですが、本番の緊張感がいい方向に働いたのか、全部事前に決めていたら出てこなかっただろうなっていうフレーズが出てきたりして、自分で聴いても意外性のある面白いものが録れたんじゃないかと思います。
これまでは、レコーディングでもその場のフィールを大切にしたいと思いつつも、技術面や性格的に無難なことしかできないもどかしさがあったんですが、この曲をやったことでどの辺りまで決めてどこを決めずにおくべきかのバランス感覚が少し掴めたような気がします。

●あくまで僕の推測ですが、♪物語はいつか・・・から始まるブリッジ・パートは特にフィルというかフレーズの組立が難しかったんじゃないですか? 

祥雲:そうですね、その部分は特に尺の感じを掴むのが難しかったのでかなり試行錯誤しました。



●本作レコーディングで最も印象に残っている曲を挙げ、その時のエピソードを語って下さい。(続き)

中川ユミ:「Good Lovin’」の出だしの「1,2,3」の録音を流して確認している時に、だんだん2と3が戦っているみたいに聞こえてきて、全員でしばらく爆笑していました。

西岡利恵:「Melt Away」。最初に聴いたときよりも、レコーディングする中でだんだんと好きになっていった曲です。ちょっと変わったリズムのベースラインも弾いていて心地よかったです。

藤本有華:今回のレコーディングもそれぞれ印象に残っていることはあるのですが、一つ選ぶとすると、「飛翔する日常」でしょうか。実際の仕上がりと同じ様にリーダーの声に合わせて歌ったのですが、初めはリーダーの声と音やタイミングを合わせることに集中してしまいとても無機質な仕上がりになってしまい…歌を確認したときに愕然としました。時間がない中で、初めから全部録り直しをお願いし、次はしっかり感情を込めて歌う様に心がけたことで良い仕上がりに出来たと思っています。

ヨーコ:最も印象に残っているのは「Good Lovin’」です。
イントロのかけ声の録音が面白すぎて、横で見ているだけで死ぬ程笑って、みんな笑い過ぎたせいで痰がからんでその後のコーラスのレコーディングに支障をきたす程でした(笑)。
オルガンレコーディングでは、曲の後半で原曲のようにオルガンソロのフレーズを入れたいと言って先生(平川)とハモリのパートも考えたりもしました。ライブでやっている曲ということもあり印象に残っています。



●リスナー目線で本作収録曲の中で最も好きな曲を挙げて下さい。

大谷:「僕と君のメロディ」

祥雲:「Our Place (Reprise)」

中川:「飛翔する日常」
これからの爽やかな時期にぴったりな軽やかさが気に入っています。

西岡:「My Little Red Book」

藤本:「Don't take your time」
一番好きな曲は"Don't take your time"です。音の重なりとかテンポ感が一番華やかでノリが良い気がします。ドラムの感じも東京スカパラダイスオーケストラさんみたいでイントロがかかるだけでワクワクします。

ヨーコ:「飛翔する日常」
最も好きな曲は「飛翔する日常」です。
この後に続く曲たちにも期待ができると確信できる胸踊るイントロ、藤本さんと先生(平川)のボーカル、曲全体のまとまり、全てが聴いていて心地が良いです。
リスナー目線からは外れますが、私、この曲のデモ音源が送られてきた時、暫くこの曲はオリジナルではなくカバー曲だと思っていました(笑)それくらいこの曲にはデモの時点で貫禄がありました。


●西岡さんはペンフレンドクラブ(以下ペンクラ)のメンバーとして最も長く所属している訳ですが、これまでのアルバムと本作との大きな変化点はなんでしょうか?
また今作を含めこれまでのアルバム作り通して、プロデューサーである平川さんの拘りの姿勢をどう感じていましたか?

西岡:特に4thアルバムから雰囲気が変わってきた感じがしたんですけど、今回の5thでは選曲や、オーケストラが入ったことも影響してボーカル藤本有華の透き通った歌声がより活かされた内容になっているように思いました。
ペンクラのアルバムは、1stから一貫してリーダー平川雄一の世界観が表現されていますが、本来バンドという形態で一人の音楽性を表現することは難しいことだと思うんです。
ここはこうでなければならない、という強い拘りに合わせていくことは大変さもあるんですが、平川のアルバム作りの姿勢が多くの人の共感を得て、期待されているのは、その並外れた拘りと実行力があるからだとも感じています。

●これまでのアルバム作りを通して、平川さんの並外れた拘りを象徴するレコーディングの中のエピソードを教えて下さい。本作はもちろんですが、過去のアルバムでも記憶の限りで構いませんので。

西岡:ベースに関してだと例えば "C"の音を出すとして、この曲のこの部分の"C"は、この弦のこのポジションを使った"C"の響きであるべき、みたいなこととか、レコーディングだと細部のニュアンスについての指示も多くあります。

●藤本さんはボーカリストとしてペンクラに参加して2作目ですが、このバンドの魅力はなんでしょうか?

藤本:バンドの魅力というより根元というべきかもしれませんが、一番はリーダーのプロデュース力ですよね。選曲、作詞作曲、ジャケのデザインなど全てこなしてしまうのですから凄いなといつも思います。だからこそ、ボーカルが変わっても、メンバーが変わっても、ここまでぶれずに続いているのだと思います。それに加えて、ボーカルやその他メンバーが変わる度にスッと対応してしまうメンバーの存在。
私がボーカルになった時も三代目ボーカルのジュンさんからかなりキーを上げてしまったのですが、皆さんほんの数週間でサクッと対応していて驚きました。この柔軟性と対応力の高い今のメンバーだからこそ、同じメンバーで二枚目のアルバムが作れたのだと思います。

●では参加したアルバム収録曲とライヴ・レパートリーを通して、ボーカル・テクニック的にやり遂げたと感じた曲を挙げ、その曲について語って下さい。

藤本:これまでを通して一番やり遂げたと思う曲は・・・ダントツ「Love's Lines, Angles and Rhymes (愛のロンド)」です!
あれはオリジナルを聴いたときに「私に歌えるのかしら??」と不安に襲われ、自主練を相当繰り返して歌い方を作り上げました。こういう歌い方も出来るのね、という新しい発見をさせて頂いた曲でもあります。完成音源聴いた時は今までに聞いたことのない声だったので恥ずかしくもあり、嬉しくもありました。ライブでもこの曲が一番緊張しますし気合が入ります!


●メンバーの皆さんから本作の魅力を挙げてアピールして下さい。

大谷:このアルバムのデモや、レコーディングの過程で、ペンクラの音はしているけど、ペンクラのCDっぽくなく聴こえるなとも思っていました。もちろんマイナスなイメージではありません。なぜそう思ったのかはわかりませんが、今まで聴いていただいていた方には明らかに今までと違う感情を持っていただけるのかなと思うと楽しみです。
私はいつもペンクラのアルバムは、絶対に人それぞれお気に入りを見つけていただきやすいだろうなと思っています。今作も、曲の持つ力を最大限に引き出しているアルバムだと思います。

祥雲:アルバム制作を重ねるたびに洗練されていく平川雄一のコーラスワークとディレクションセンス。加えて今回は夜長オーケストラの参加などもあって前回よりもさらに贅を尽くした内容になり、耳の肥えたマニアの方々にも満足頂けるものになっていると思います。
また平川の躍進に呼応するように藤本有華のボーカルも確実に進化を遂げ、メロディの美しさをよりプリミティブなレベルで訴えかける表現力が以前よりも増したことで、格式高さを感じさせつつも、いつ誰が聴いても楽しめるようなカジュアルさをも内包することに成功していると感じました。
他にも、じっくり聴いているとメンバーそれぞれの個性が端々で光っていて、実はけっこう趣味の違う人たちが集まっているペンクラならではの良さも楽しむことができると思います。

中川:なんといってもペンクラ初のストリングスが入ったアルバムという所です。個人的にストリングスの入ったロックの曲が好きなので、完成した音源を聴いた時はニヤリとしてしまいました。

西岡:変わらないペンクラらしさと同時に、これまでになく洗練された魅力を感じられるアルバムだと思います。ぜひ聴いてみてください。

藤本:今回のアルバムは、とにかく音圧が凄いです!夜長オーケストラさんが参加されたことで、今までとは一味違ったペンクラ作品になっていると思います。ペンクラは多幸感が高いと良く言われている様ですけど、5枚目のアルバムはまさに多幸感満載です!ぜひ一枚お買い上げ頂いて、良いスピーカーで聴いてみて頂きたいです!

ヨーコ:このアルバムの魅力は、エンドレスリピートが止まらない中毒性です。最初と最後にバージョン違いの同じ曲が入っているということで単純にエンドレスリピートしやすい、ということもありますが、入り口である「Our Place」を通るとそこにはアルバムタイトル通り「Garden」が広がっています。「僕と君のメロディ」を聴き終わる頃には出口である「Our Place(Reprise)」が見えてきます。最初に通った道と同じはずなのに出口として通ると全く違う景色に見えます。そうなるとまた入り口から入ってみたくなり…そうやって繰り返し聴いているうちにどんどんと「Garden」の深みにハマっていきます。


●では最後にプロデューサーでありバンド・リーダーとして、平川さんからもこのアルバムの魅力をお願いします。

平川雄一:メンバーのインタビューの方が僕のより面白いですね・・・。僕だといつも「好きな曲だからやりました」くらいしか回答できていないので(笑)。
今は次の6thアルバムのことで頭がいっぱいで今回の5thのことは若干忘れかけているんですが、このアルバム制作においてペンフレンドクラブが音楽というものに真正面から取り組んだことは確かで、夜長オーケストラのストリングスを初めて導入した意欲作でもあります。
因みに僕が一番好きなオリジナル曲は「笑顔笑顔」です。独特でキャッチーなメロディが気に入っています。
褒められがちなリード曲「飛翔する日常」は割と簡単に出来ました。サビのグロッケンのフレーズがいいですね。
「My Little Red Book」のスネア一発の音の良さや、オルガンソロの格好良さとか、美味しい瞬間が沢山あるアルバムですね。
あんなにも自信作だった4thアルバム『Wonderful World Of〜』を凌駕する作品集が出来て嬉しい限りです。
アルバムCD発売の1ヶ月後には7インチ・アナログ盤も出ますので是非!

【Add Some Music To Your Day Vol,17
  Garden Of The Pen Friend Club Release Party】
◎2018年4月1日(日)
◎江古田BUDDY
◎出演
The Pen Friend Club

RYUTist
so nice with 村松邦男
The Laundries
DJ:aco

◎前売:3000円+1d
◎当日:3500円+1d
◎開場&開演:18:00


(インタビュー設問作成/文:ウチタカヒデ)

☆宮治淳一:『茅ヶ崎音楽物語』(ポプラ社)

$
0
0

宮治淳一さんから「茅ヶ崎音楽物語」が届いた。これは嬉しい。いつ買おうかと思っていたが、最近は本を買っても体調で読み切る気力がなく、10冊以上読んでない本が積んであり本の購入は全て止めていたのだ。しかしこの宮治さんの本には格別な思い入れがあり、実際に届くと一気に読んでしまった。ただこの土日は体調が悪くパソコンを開く気にもなれない有様、でも気分が良くなった時に一気に読了した。加山雄三、加瀬邦彦、喜多嶋修、そして桑田佳祐を生んだ茅ヶ崎という奇跡の町の存在は知ってはいたが、それだけでなく、古くは中村八大、そして平尾昌晃、尾崎紀世彦も茅ヶ崎に住んでいたと知ってさらに驚いた。今でこそ、茅ケ崎の名は知られているが、小さな漁村で、古くは別荘街として売り出されたこの場所に、日本のポップス史上の最重要ミュージシャンがこんなに生み出されたなんて奇跡としか言いようがない。茅ヶ崎の人口は現在でも24万、ここにこれだけの才能が集まることはなぜなのか?生まれてから茅ヶ崎を離れたことがない生粋の茅ヶ崎人である宮治ささんはその事をさらに深く知ろうとし、こうして本にしてまとめ、映画にもなってしまった。この作業は音楽を愛し、何よりも茅ケ崎を愛する、宮治さん以外できない仕事だった。勤めは都心で通勤時間はかかるが、川を越えると自分の頭は会社から離れ、好きな音楽の世界の切り替わると宮治さんから聞いたことがあるが、このスイッチングがいいのだろう。自宅の一部はBrandinとレコード&カフェ(夜はお酒も)で、膨大な「宮治コレクション」を聴き、お客さんが持ちよって聴こともあり、音楽好きの楽園のような店を勤め人の傍らで作り上げた。これも今思えば、「音楽のまち」茅ケ崎への宮治さんの貢献だったのだろう。

明治時代に市川團十郎が広大な別荘を作ったことから茅ヶ崎は別荘地として知られていったらしい。山田耕筰や中村八大も住んでいたという。しかし本書の前半で最も思い入れを持って書かれているのは、加山雄三である。還暦を少し超えた宮治さんはほぼ私と同じ音楽体験をしてきているので、宮治さんが受けた衝撃は、自分とほぼ直結している。宮治さんの幼少期、茅ヶ崎の有名人といえば上原謙で、その息子が加山雄三として俳優デビュー、俳優でありながらシンガーソングライターという前例のない才能を持つ加山は1966年には「君といつまでも」が350万枚という大ヒット加山に夢中になった。しかし宮治さんがより好きだったのは同時発売されたエレキインストの「ブラックサンドビーチ」のシングルの方で、まだ小学生だった宮治さんはさすがに上原邸の玄関のベルを押すことはできなかったが、庭から加山とランチャーズが演奏するエレキインストが聴こえてきて、これが初めて生で聴くエレキコンボの演奏でずっと聴いていたという。なんと羨ましい想い出だろう。田園調布から2歳の時に環境の良さを考えて茅ヶ崎に引っ越してきた加山だが、有名俳優の息子ということもあって町中では遊べず、自作の手漕ぎ船で烏帽子岩まで行ってサザエなどを取っては夏休みを過ごしていたというワイルドなエピソードもあるほど。慶応高校に入学すると周りは政財界や文化人の有名人の子息が集まるセレブ校だったので、加山は特別視されず過ごしやすかった。この慶応高校時代には、裕福な家庭に育った平尾昌晃は湘南中学から家族や親戚がみな通った慶応高校に進学、加山を電車の中ではよく見かけたそうだが、高校時代は一度も会話したことはなかったいう。平尾はその当時、熱狂的に盛り上がったロカビリーに魅かれ歌手としての実力も評価されていたので、思い切って慶応高校を中退し、プロ歌手の道を選んだ。しかしロカビリーの大ブームはほどなく消えてしまうが、作曲ができる平尾は作曲家の道を選ぶ。布施明に書いた「霧の摩周湖」でレコード大賞作曲賞を受賞した平尾はヒットメイカーとなり、五木ひろしに書いた「夜空」がレコード大賞になるなど見事な転身を遂げた。話は戻って加山は、大学時代はカントリーバンドを作って進駐軍のキャンプなどで歌っていたが卒業で進路選択しなくてはいけなくなり、造船技師の夢はあったが就職すると俳優にはなれない、上原謙の息子という恵まれた立場を生かすべきという進言を受けて、東宝のニューフェースとして入社することを選ぶ。慶応幼稚舎出身の加瀬邦彦も田園調布に住んでいたセレブで、茅ケ崎へ引っ越してきたが、慶応高校時代に加山の妹に恋心をいだき、ボーイフレンドとなって加山の家へ足繁く通うようになり、エレキギターの魅力に魅かれて、バンド活動を開始する。「ワイルド・ワンズ」の名前は加山が名付けたものだった。そして作曲ができる加瀬は自信作の「想い出の渚」でデビュー、大ヒットになったのは存知のとおり。加瀬は加山の下にいるのでなく、最初はスパイダースに加入するものの意見が合わずに3カ月で脱退、その後寺内タケシとブルージーンズに加入し、またそこも辞めて自分のバンドのワイルド・ワンズを作る…という積極性がGSの人脈を増やしたのではないか。GSブームは3年ほどで収束してしまうが、加瀬は作曲家に転身し、沢田研二のヒット曲の多くを書き、「危険なふたり」で日本歌謡大賞を受賞するなど、後の活躍は見事の一語。そして茅ヶ崎には岩倉具視の子孫である喜多嶋修も住んでいて、母方の親戚でもあった。喜多嶋がギターを弾けるのを見た加山は茅ヶ崎に来る時は、まだ湘南学園の1年生だった喜多嶋とセッションを重ね、メンバー4人でバンドを作り、加山が茅ヶ崎に入る時はセッションに励んだ。そして19662月には加山は喜多嶋のランチャーズをバックに、全曲加山の英語の作詞作曲のアルバム『Exciting Sounds Of Yozo Kayama And The Launchers』をリリース、洋楽扱いで発売されたこのアルバムは。日本のポップス史に残る画期的かつ唯一無二の傑作となった。ちなみに驚く事に高校生の喜多嶋はフェンダーのジャズマスターのギターを持っていて、今の価格では200万くらい。こんなギターを買えたのはさすが岩倉一族としか言いようがない。しかしこの後のGSブームからエレキ=不良という「エレキ排斥運動」が全国の高校に吹き荒れ。湘南高校も禁止に。慶応大学に進学した喜多嶋は、加山にランチャーズとして単独で活動したいと告げ、喜多嶋の書いた「真冬の帰り道」がヒット、GS史上に残る傑作となった。GSブーム終了後、喜多嶋はロスに移住し海外での音楽活動に拠点を移す。そして尾崎紀世彦がいた。尾崎もGSブームの中ワンダースというグループにいたがヒットは無く解散する。しかし同じレコード会社でズーニーヴ―というGSのシングルの「ひとりの悲しみ」の可能性を信じていたプロデューサーが、阿久悠宇に歌詞を変えさせ、ソロになった尾崎に持ち前の声量を目いっぱい生かした「また逢う日まで」に変えてシングルにすると大ヒットになり1971年のレコード大賞まで獲得してしまう。尾崎はプロシンガーの道を極め、ローカル色を一切出さなかったので、茅ケ崎との関係は知られずじまいだったが、茅ケ崎の祭りの神輿かつぎに毎年来るなど茅ヶ崎愛は深かったという。

そして最後はもちろん桑田佳祐だ。宮治さんとは小中で同級生、中学では同じ野球部で、ビートルズのレコードを全部持っている桑田の家に放課後によく通ったという。高校は別の高校へ進学したが、自分の高校の文化祭に桑田のバンドを呼ぶなど交流は続いた。大学受験は現役で青山学院に合格していた桑田はバンド活動を開始していて、一年遅れて早稲田に合格した宮治さんに、ある日、名前の無かったバンド名に名前を付けてくれと依頼され、その時夢中で聴いていたニールヤングの「サザン・マン」と、ラジオで宣伝が流れていたファニア・オールスターズ来日のニュースを組み合わせて「サザン・オールスターズ」と名付けた。以降40年も使っているわけだが。宮治さんと桑田さんの細かいエピソードは本で読むのが一番。それまで尾崎紀世彦の家庭は分からないが、加山雄三から喜多嶋修までまあみな絵にかいたような裕福な家庭で、慶応つながりというセレブな関係がまぶしい。一般の家庭が出てくるのは桑田佳祐からだ。ただ裕福でセレブというだけでは音楽の才能など現れない。やはり茅ヶ崎のという場所が育んだとしか思えない。(佐野邦彦)

桶田知道が新曲「トラッカーズ・ハイ」のMVを公開、そして無料配信!

$
0
0

















昨年531日にファースト・ソロ・アルバム『丁酉目録(ていゆうもくろく) 』をリリースした元ウワノソラの桶田知道が、新曲「トラッカーズ・ハイ」のMVを本日公開した。
しかもその新曲を下記URLにてmp3音源を無料配信するのである。
ダウンロードページ→https://www.kouhando.com/n-free




作詞:岩本孝太
作曲 編曲:桶田知道
Vocal & All Instruments:桶田知道

Cast:Tomomichi Oketa

   Kota Iwamoto 
   Kazuyuki Nakagaki 
Director:Kota Iwamoto
Presented by kouhando-JPN


ウワノソラでデビュー以来桶田と交流を持つ筆者は、今月頭に完成されたばかりの新曲「トラッカーズ・ハイ」のWAV音源を聴かせてもらい、直後にこのMVも観させてもらった。

前作のリード・トラック「チャンネルNo.1」よりスムーズなシーケンス・パートと、昭和文学が醸し出す詩世界との奇妙な融合が独特のグルーヴをもたらしてる。 このシーケンスのリズム・パターンはこれらテクノポップでは王道であるが、ルーツを辿ればエンニオ・モリコーネが映画『荒野の用心棒』(64年)のテーマ曲で使ったのが知られ、その後もビートルズのジョージ・ハリスン作「While My Guitar Gently Weeps」(『The Beatles / White Album 』収録 68年)の左チャンネルで鳴っていたりする。 AORファンにはドナルド・フェイゲンの「New Frontier(『The Nightfly』収録・82年)を彷彿とさせるかも知れないが、一般的に知られるようになったのはやはりYMOの「Rydeen(雷電)」(79年)だろう。作者の高橋幸宏氏によれば黒澤明監督の『七人の侍』(54年)にインスピレーションを受けたというから、既出の『荒野の用心棒』がオーバーラップしたのかも知れない。



ともあれこの桶田知道の「トラッカーズ・ハイ」のMVも極めて映画的であり楽しめた。前作「チャンネルNo.1」ではスタンリー・キューブリック監督を彷彿とさせるカメラワークとシンメトリーなコンポジションが非常に鮮烈であったが、ここでは粒子の粗い8ミリ風映像のオフビートなフィルム・ノワール調テンポで、昭和初期のエノケン映画を彷彿とさせるとぼけたセンスが混入され化学反応を起こしていて、なんとも言えないテイストに仕上がっている。
(MVなのにホンダの軽トラ、アクティでぶっ飛ばすかね 笑)

さてこの新曲「トラッカーズ・ハイ」を聴きつつ、次なるアルバムを待ちわびるファンもいるだろう。なんとそのセカンド・アルバムは5月23日にリリースを予定しているので、下記のオフィシャルサイトで情報を得て欲しい。
【考槃堂商店】https://www.kouhando.com/

佐野邦彦氏との回想録11・鈴木英之

$
0
0

今回紹介する「VANDA26」が発行された2000年は、ネットの「WebVANDA」に続き、5月からは放送メディアであるラジオ番組「Radio VANDA」をスタートさせるという、佐野さんの存在が大きくクローズ・アップされた時期だった。

 そんな佐野さんではあったが、彼はきわめて自然体なスタンスだった。ある時、「サンデー・ソング・ブック」(以下:サンソン)で山下達郎さんが彼のことを絶賛するコメントをいれたことがあった。その放送を聞いた私は、即座に彼へ連絡を取り「すごいじゃないですか!」と伝えるも、彼は聞き逃しており、「なんとかその放送音源手に入れてくれませんか?」と頼まれてしまった。当時はまだ「ラジコ」もなく、録音した方にダビングしてもらうしかなく、かなり苦労して入手した。それを収録したカセットを送ると彼は無邪気に喜んでくれた。そんなことがあり、それ以来「サンソン」はチェックするだけでなく、ダビングをするのが常となった。

 話は「26」に戻るが前回でもふれたように、ここでは私と佐野さんのノリで決めた「ライブ・アルバム特集」がトップを飾っている。このコラムは当初佐野さんと二人でまとめる予定だったが、せっかくやるなら何人かで取り組んだ方が面白くなるはずということになり、中原さんと松生さんにも参加していただくことにした。その役割分担はそれまでの経歴から自然に決った。


まず佐野さんは当然ながらSoft Rock系を中心にThe BeatlesやBeach Boysなどのビッグ・ネームを中心に、中原さんには彼の専売特許であるソウル系、Cliffマニアの松生さんには1960年代のヴォーカリストをメインということになった。そして雑食系の私は三人から外れたリユニオンものやアイドル、それにニュー・ウェーブ系など、あまり語られることのないものについてジャンルを問わず万遍なくということになった。また佐野さんは音源のみだけでなく、「25」に引き続き映像作品を取り上げた「Rock & in LD & DVD Part 2」を7Pにも及ぶボリュームで気合のこもったレビューをまとめている。

さてこの特集だが、それまでのVANDAとは一線を駕するような企画だったが、4人4様の視点での持論を展開し、かなり興味深い読み物になった気がする。その内容は多くの音楽ファンに好意的に受け入れられたようだった。それはしばらくしてRC誌が「ロック・ライブ・アルバム1960-1979」(2004年1月)の特集を組んだことでも、その注目の度合いが高かったことように感じられた。ただ個人的には、佐野さんが担当した『Four Seasons Reunion(Curb)』『Beach Boys I Concert(Brother)』『Association(Warner Bros.)』や、中原さんの『Four Tops(Dunhill)』『Spinners(Atlantic)』については思い入れが強く、いつか何らかの形でまとめてみたいという想いは残った。


なおこの「26」で私は恒例の「Music Note」も寄稿しているが、この「1975年」ともなると、まとめていく過程で当初スタートした時期とは違う方向に向いているのが気になった。元々、ラジオ番組のヒット・チャートのチェックから当時の音楽傾向を探るということから始めた連載だったが、この頃になるとあらゆる情報網から得た音楽シーンの傾向をまとめているように感じた。それはこの年に私が夢中になっていたものは、Three Dog Nightの「You」のように日本独自ヒットもあったが、ほとんどは英米でのヒット曲が中心で、日本のチャートでは下位に属していたものが多かった。


このようになったのは、1974年から大学生として東京での生活が始まり、静岡時代よりも数段に情報を収集できる環境になっていたからだった。1975年当時の私は、気になる曲を耳にするとパチンコ屋の景品棚をチェックして、お目当てが見つかればそのレコードを手に入れるために台に向かうことがよくあった。さらに、(今は亡き)Hunter(特に大井町店と都立大店)やDisk Unionなどで中古レコード店の探索巡回といった生活もパターン化していた。ゆえに内容がラジオ番組のヒット・チャートをチェックしたものをまとめるというものではなくなりつつあった。タイトルにしている「Note」は「チャートのチェック記録」でなく、「レコードの購入記録」というマニアックな音楽シーンを語るものに変化していた。


また洋楽中心だった内容も、1971年の『GARO』や1974年に『Take Off(離陸)/チューリップ』を聴いて以来、日本の音楽にも慣れ親しんでいた。また当時の友人でアグネス・チャンの熱狂的ファンに彼女のレコードを聴かされ、そこに参加していたMoonridersやキャラメル・ママなどバック・ミュージシャンに興味を持つようにもなっていた。さらに神保町のササキレコード社の店内に偶然流れていたSuger Babeの『Songs』を耳にして、山下達郎というミュージシャンに衝撃を受け、その後は彼が参加していた作品のチェックを始めた。その中で『MISSLIM/荒井由実』に聴かれる、クリアな美声に強く惹かれ、完全にはまってしまった。そして気がつけば、テレビでは「ナショナルまきまきカール」「不二家ハートチョコレート」などCMで彼の声が頻繁に流れていた。ちなみに、私はSuger Babeのライヴ・スケジュールは「ぴあ」でまめにチェックしていたが、残念ながら参戦は出来ずに終わっている。ただ、当時FM番組でオンエアされたライヴ放送を聴くことが出来たのが、バンドの生体験だった。このように和物についても洋楽並にコアな聴き方をするようになっており、タイトルから内容が逸脱しそうな時期になってきたので、この連載は1975年で封印することにした。


余談になるが、この1975年には元Four SeasonsFrankie Varriが「My Eyes Adored You(瞳の面影)」で全米1位にカム・バックしているが、日本ではさほど話題にはならなかった。そんな中、西城秀樹はこの年に行われたツアーのセット・リストにこの曲を加えていた。なお、この公演はテレビ中継もあり、その歌唱シーン(『オン・ツアー』に収録)も放映されている。このことは、その後「VANDA 30」でまとめることになる「1970年代アイドルのライヴ・アルバム」の元ネタとなった。ちなみに、それにもっとも興味を持ってくれたのは、バリバリのジュリー(沢田研二)・ファンの佐野さんだった。


そしてこの1975年を振り返ると、「我が巨人軍は永久に不滅です。」で現役を引退した長嶋茂雄選手が監督となってジャイアンツが断トツの最下位となり、広島カープが球団創設以来初優勝を遂げ、「赤ヘル旋風」が吹き荒れていた。こんな世情を反映して、「がんばれ!ジャイアンツ」(アラジン・スペシャル)なるナンセンス・ソングが一部で大盛り上がりしている。また、私と佐野さんとの最後の共同作業となったJigsawが「Sky High」で大ブレイクを遂げ、彼らが初来日を果たした年でもある。とはいえ、この曲の日本でのブレイクは、ミル・マスカラスが登場テーマに使用するようになった翌1976年だった。


ところで前回の投稿でもふれたが「26」が発売される前の199912月には私がはじめて関わった商業本『Pop Hit-Maker Data Book』(バーン)が発刊されている。そして、20003月にはVANDA監修として5冊目となる『ハーモニー・ポップ』(音楽之友社)も発刊している。この本を監修したのは佐野さんだが、ジャンルを「US」「UK」「Jazz」「Soul」「Folk」「Psychedelic」「In Japan」と7つに分け、その巻頭には佐野さんや中原さんなどが序文を書いている。なお、「In Japan」では恐れ多くも私が担当させていただいた。そして、ここでコメントを担当したことが、この年に発刊する『Soft Rock In Japan』や『林哲司全仕事』に繋がっていくことになったのだった。ただ、その話をここでふれるとかなり長くなってしまうので次回に回すことにする。またこの本では、当時佐野さんが「和製ソフト・ロックの最高峰」と断言していたスプリングスのリーダー、ヒロ渡辺氏に「ハーモニーの音楽的解析」という専門分野での解説を寄稿いただいている。


なお、この「26」が発行されたのは20008月と、通常よりも2ヶ月遅れている。これは、彼が超多忙だったからでも、私の原稿提出が遅れたということでもなく、創刊号以来それまで編集に携わっていた近藤恵さんが出産のために引退されるというアクシデントが発生したためだった。この大ピンチを救ってくれたのが、当時音楽之友社に勤務していた(『Soft Rock A To Z』の担当)木村元さんだった。当時、佐野さんの窮地を耳にした彼が自ら仕事の傍ら編集の業務を買ってくれたおかげで、無事VANDA26は発行出来る運びとなった。これまでの付き合いからとはいえ、本業をかかえながらも好意で引き受けてくれた木村さんに佐野さんは心より感謝していた。とはいえ、この作業は木村さん自身も相当きつかったようで、発行後「今回だけにしてほしい」と佐野さんに伝えたようだった。

最後になるが、「25」発行からこの「26」までは、私も木村さんの担当で3冊の単行本発刊に関わっていただいており、この時期のVANDAは彼なしには成立しなかったともいえる。次回は、「27」の経緯と並行して木村さんとの連携で完成させた本についての経緯についてもふれていくことにする。
2018432200

45 Rpm Bruce & Terry - GIRL IT'S ALRIGHT NOW/DON'T RUN AWAY-Columbia 43582

$
0
0

詳細なディスコグラフィは別稿にてご覧いただくとして、本誌ではおなじみのBruce JohnstonとTerry Melcherの大傑作である。
Don't Run Awayは実はB面扱いだったのはあまり知られていない。


本作は1966年4月上旬前後にリリースされたがチャートインしなかったものの、1966年4月9日号のBillboard誌にてPop spotlightコーナー(これからチャートインしそうな有力曲紹介コーナー)でChris MontezやSam Cookeと並んで好意的にレビューされていた。
このレビューの記事においてはGirl  It's Alright Nowが最初に取り上げられており、Don't Run Awayは一言"Flip"としか言及されていない。
ちなみにこの週は、我らがThe Beach BoysのSloop John B.がTop40以内に急上昇し、Brian WilsonのCaroline NOがTop60になんとかチャートインしている。




TerryことTerry MelcherはBruce & Terry の所属していたColumbiaでは売れっ子プロデューサーで、本盤と同時期にTerryの手がけたシングル盤はPaul Rever and RaidersのKicks、若き日のTaj MahalにRy Cooderを擁したRising Sons、デビューで関わったByrdsは楽曲の権利やマスタリングの音質でTerryとは冷戦状態となったので、他のプロデューサーを迎えEight MilesHighをリリースしていた。

本盤の画像をご覧いただくと、プロデュースはTerry Melcher音楽出版はDaywin Musicとクレジットされている。Terry Melcherは有名な話であるが、歌手のDoris Dayの実子である。
Doris自身は結婚を数度しており、当時マネージャー兼プロデューサーだったMarty Melcherと結婚した。その後Terryは父の籍に入りMelcherの氏を名乗ることとなった。
MartyはDoris関連の楽曲管理のためにArwin Productionを設立する、Martyは既にArtists MusicとDaywin Musicという二つの音楽出版社を立ち上げており、両者の名前を組み合わせたArwin Production及びレコードレーベルのArwinを設立する。
Martyは1968年急逝するが、後年このArwinを通じてDorisの多額の収益が怪しい投資先に流れ一部Martyに還流されていたことが判明している。
そういった背景があるもののArwinからはナショナルヒットがそこそこ出ており、一番の稼ぎ頭はJan and Arnieで、Jenny Leeは全米8位を記録する大ヒットとなる。
Janは後にJan and DeanとなるJan Berryのことで、当時Bel Air地区にあった自宅のガレージで高校の友人とコーラスの録音に興じていた。
時々Bruce Johnstonは誘われてピアノで参加していた。その頃Terryは少し離れたガソリンスタンドで放課後アルバイトしており、Janを介してTerryと知り合いとなり、親交はこの後も続くこととなる。
Janのサウンドは仲間内では好評だったので、パーティーで使うためにアセテート盤を作成するため出向いたスタジオで、当時ArwinのA&RだったJoe Lubinがたまたまテープの編集で入ったスタジオの隣から聞こえてきた楽曲が評価され、Arwinからデビューとなった。Joe Lubinは英国人で黒人音楽好きが高じて米国に移住したという異色の経歴を持っており、音楽ビジネスの関わりではLittle RichardのTutti Fruttiの作曲者にも名を連ねたり、西海岸でR&B系のレーベルを設立して積極的に黒人ミュージシャンを登用して楽曲制作を行っていた。
その中にはPlas JohnsonやEarl Palmerなどがおり、後のWrecking Crewのメンバーが西海岸のスタジオに結集する先駆けとなった。
Janに知己があったBruceは、友人のSandy Nelsonの録音や制作に関わりヒットを生むという結果を出す。同時に友人のKim Fowleyの紹介で次第にJoeを通じ音楽ビジネスへと本格的に参入していき、Arwinとは作家契約を結実しBruce and Jerryの名前でデビューしてプロデュースワークも身につけた。後にDel-Fi,Donnaなどで制作畑に移り、Rock'n Roll時代に乗り遅れたColumbiaは若い才能を欲していたのでBruceは入社後先にA&Rで入社していたTerryとともに活躍していく。
彼らの活躍に反比例するかのごとくArwinのレコードリリースは減少していった。


これらの詳細は別稿を参照されたい、再び本盤に話は戻るが、多くの再発盤ではクレジットにはBruce Johnston-Mike Loveとの記述が見られる、レコード盤にはB.Johnstonしか表記がなく事の真相は明らかではないが、Daywin Musicを手がかりに実演権団体であるBMIのデータベースではBruceとMikeの名が登記されていることが確認できた、しかしMikeは近年BMIからASCAPへ楽曲の預託を変更しており、当時の状況は不明ではあるがBMIに所属する音楽出版社にあったものと予想される。
似たような表記は実はThe Beach Boysのアルバム、Sunflower収録のSlip On Through,Got To Know The Womanにも見られる。Dennis単独の作曲となっているがDaywin Music/Brother Publishing Companyとなっておりデータベース上ではGregg Jacbsonが共作者と登記されている。
Daywin MusicはBruce Johnston,Terry MelcherやDoris Day関連の楽曲管理を行いながら存続する。Arwin Productionの相方のArtists MusicはBruceの作曲したI Write The SongsがBarry Manilowの大ヒットで70年代脚光を浴びることとなる。
そして80年代以降Daywin MusicとMikeが再び関わっていくことになる、The Beach BoysによるKokomoやSummer In Paradise,Rock'n Roll To The Rescueの作曲にMikeとTerryが参画したからだ、ここでやっとDaywin MusicとMikeの名前が一緒にクレジットされることとなった。

(text by -Masked Flopper- / 編集:ウチタカヒデ)


Nao☆:『菜の花』(T-Palette Records/TPRC–0199)

$
0
0

新潟在住のアイドル・ユニットNegiccoのリーダー、Nao☆の生誕を記念したソロ・シングル『菜の花』が4月11日にリリースされる。 16年5月にここでNegiccoのサード・アルバム『ティー・フォー・スリー』を取り上げた際も同様だったが、シングルとはいえ強力なカップリングなので、WebVANDA読者をはじめとする音楽通も満足させる内容となっているので紹介したい。

   
タイトル曲「菜の花」は、作詞をNao☆自身、作曲・編曲をROUND TABLEの北川勝利が担当し、カップリング曲「ハッピーエンドをちょうだい」は、作詞を岩里祐穂、作曲・編曲をNegiccoのサウンド・プロダクションではお馴染みのユメトコスメの長谷泰宏が担当している。
09年にROUND TABLEの『FRIDAY I'M IN LOVE』リリース時に長谷アレンジャーとして参加しており、ここでもインタビュー記事を掲載したので読者も記憶にあるかも知れない。
早くからシティポップ系サウンドをクリエイトしている北川と、ソフトロック・サウンドを研究し尽くしている長谷による楽曲提供は正しく強力なカップリングといえよう。
また80年代から作詞家としてキャリアのある岩里祐穂(いわさと ゆうほ)にも触れておこう。 80年に“いわさきゆうこ”としてシンガーソングライター・デビュー後、女優として活躍していた今井美樹への作詞提供で一躍知られるようになり多くの作品を残している。
特に「地上に降りるまでの夜」(『MOCHA』収録・89年)や「瞳がほほえむから」(89年)は日本のニュー・ミュージック(シティポップ)史において後世に残る名作ではないだろうか。
推測ではあるが、Nao☆自身もウワノソラの「Umbrella Walking」(後に『陽だまり』収録・17年)をフェイバリット・ソングの1曲に挙げており、Negiccoでは「土曜の夜は」(シングル及び『ティー・フォー・スリー』収録)をウワノソラの角谷博栄にオファーするなど、この手のサウンドを好んでいるのは間違いない。


では収録曲を解説しよう。タイトル曲の「菜の花」は、北川自身による複数のアコースティック・ギターのカッティングが有機的に絡むファースト・テンポのカントリー・ポップで、流線形にも参加する山之内俊夫のエレキギターのフレーズが随所にちりばめられている。そしてこの曲のパンチラインは2ndフックの「♪伝えきれない想いを 歌に乗せ届け 君のもとへ」にある。この甘美なメロディのたたみ掛けは、ニック・デカロもカバーしたスティーヴィ-・ワンダーの「Happier Than The Morning Sun」(『Music Of My Mind』収録・72年)のそれを彷彿とさせる多幸感を生んでいる。またユーミン(荒井由実時代)の「やさしさに包まれたなら」(『MISSLIM』収録・74年)が好きなシティポップ・ファンは是非聴くべきだろう。

『ティー・フォー・スリー』で「カナールの窓辺」を提供した長谷作の「ハッピーエンドをちょうだい」は、彼が主宰するユメトコスメの「嘘だよ、過去形じゃなくて...!」(14年)に通じるチェンバロの刻みにヴォブラフォンとピチカットのオブリが印象的なソフトロックだ。目眩く縦横無尽な動きをするストリングスのマジックは長谷の得意とするところだが、この曲でも遺憾なく発揮されている。
筆者は彼がストリング・アレンジを手掛けたNegiccoの「おやすみ」のアルバムVer(『ティー・フォー・スリー』収録)がいたく好きであり、こっそり16年のベストソングの1曲に挙げた程だった。
そして何より重要なのは、神様からのギフトと言っても過言ではない、Nao☆のちょっとハスキーでスウィートな声質にある。80年代アイドルシンガーを彷彿とさせる所謂“聖子声”に男達は虜になることは間違いない。
そんな訳で興味を持ったシティポップ及びソフトロック・ファン、そして80年代アイドル・ファンは是非入手して聴くべきだ。
 (ウチタカヒデ)


THE LAKE MATTHEWS:『Gimme Five!!』 (Happiness Records/HRBR- 006)

$
0
0


今回紹介する“THE LAKE MATTHEWS”(ザ・レイク・マシューズ)の『Gimme Five!!』は、過去筆者によるレビューで評価が高かった女性シンガーソングライターの杉瀬陽子が、自身のイベント企画のために結成した“一夜限りのミステリーバンド"のファースト(ラスト?)・ミニアルバムで、今月の6日にリリースされる。 

メンバーは杉瀬のサポート・バンドからは、ベーシストの伊賀航(細野晴臣バックバンド等に参加)、ドラマーの北山ゆう子(曽我部恵一のバックや流線形等の参加で知られる)がピックアップされ、加えてゆずやキリンジ(KIRINJI)など多くのメジャー・アーティストのセッションやライヴ・サポートからアレンジャーとして活躍するキーボーディストの伊藤隆博が参加している。
そして何より特筆すべきは、元キリンジからソロに転向した堀込泰行が、杉瀬と共にフロント・メンバーとしてヴォーカルとギターを担当していることだろう。
杉瀬のアルバム『肖像』(15年)収録の「五月雨二鳥」を2人で共作したことで、彼女のライヴにもゲスト出演した機会があり筆者も聴いたのだが、2人のハーモニーのブレンドは実に調和していて味わい深かった。

このTHE LAKE MATTHEWSの活動としてはライヴの他、今年9月に7インチ・シングル「Pegasus」をリリースし既に完売状態だという。その後押しもあり、このミニ・アルバムに至ったという見方も出来る。
収録曲はこの「Pegasus」以外は各メンバーが選んだ昭和時代の楽曲カバーということで、各々のルーツや趣向が垣間見られて興味深い。
楽曲と選曲者は下記の一覧を参照してほしい。

1. 氷の世界 <井上陽水カバー>(選曲:杉瀬陽子)
2. 星くず <久保田真琴と夕焼け楽団カバー>( 選曲:北山ゆう子)
3. 水に挿した花 <中森明菜カバー>(選曲:伊藤隆博)
4. 渚・モデラート <高中正義カバー>(選曲・伊賀航)
5. Pegasus  <THE LAKE MATTHEWSオリジナル>
6. 地球はメリーゴーランド <GAROカバー>(選曲:堀込泰行)

 

ここでは筆者が気になった主要な曲を解説したい。 
冒頭の「氷の世界」は説明不要と思うが、国内初のミニオンセラー(100万枚)となった井上陽水の同名アルバム(73年)のタイトル曲である。アルバム『氷の世界』は、当時の日本における『狂気(The Dark Side of the Moon)』(ピンクフロイド 73年)のようなロングセラー・モンスター・アルバムだった。
この曲はロンドンのソーホーにある、かのトライデント・スタジオで全面的にレコーディングされており、当時としては非常にファンキーなアレンジが施されているのが特徴的だ。現地のセッション・ミュージシャンは、後にロキシー・ミュージックに関わるベーシストのジョン・ガスタフソンや彼と同じくクォーターマスのメンバーだったピート・ロビンソンがクラヴィネットをはじめキーボードを弾いており、コーラスには後にグリース・バンド(ジョー・コッカーのバックバンド)と合流してココモの母体となったアライヴァルのヴォーカリスト3名も参加している。なんでも当時陽水達はスティーヴィー・ワンダーの「迷信 (Superstition)」 (73年)にインスパイアされたサウンドを目指していたという。
前置きが長くなったが、THE LAKE MATTHEWSのヴァージョンでは、べースラインにデオダートの「摩天楼(Skyscrapers)」(『Deodato 2』収録 73年)のそれをモチーフにしており、原曲以上にバックビートを強調している。数々のセッションをこなしている伊賀と北山のリズム隊のコンビネーションは完璧と言える演奏でたまらない。また肝心のヴォーカルだが、1番と2番でワンコーラスずつ堀込と杉瀬で分け合い、間奏後に2人のツイン・ヴォーカルとなり曲を盛り上げている。

先行のオリジナル・シングル「Pegasus」は、杉瀬1人によるソングライティングだが、堀込とのヴォーカルを想定したようなミディアム・メロウな曲調であり、嘗て堀込がキリンジ時代に残した稀代の名曲(最近CMに起用されている)「エイリアンズ」(『3』収録 00年)に通じる、心情風景を背景とした不毛の愛がテーマとなっている。
堀込の荒削りなギター・ソロに続き、アレンジにも貢献したと思しき伊藤隆博が自らプレイするトロンボーン・ソロのコントラストも非常に効果的だ。
そしてラストはガロの「地球はメリーゴーランド」であるが、原曲が和製ソフトロックとしてエヴァーグリーンな存在であることは、古くからのVANDA誌読者なら言わずもがなだろう。自らもその読者だったらしい堀込ならではの趣味性と言え、前曲「Pegasus」からの流れからもこのミニ・アルバムの着地点としてこれ以上相応しい選曲はないかも知れない。
ニール・ヤングの「Out on the weekend」(『Harvest』収録 72年)を彷彿とさせるダウントゥアースなビートをバックにして、堀込の叙情的なヴォーカルに寄り添う杉瀬の無垢なハーモニーは慈愛に満ちあふれている。この曲を歌うために組んだのではないかと思わせる必然性に感動するばかりだ。
興味を持った音楽ファンは入手して是非聴いてほしい。
(ウチタカヒデ)


佐野邦彦氏との回想録12・鈴木英之

$
0
0

前回は「VANDA26」が発行された2000年の中ごろまでについての記憶を回想してみた。この「26」の裏表紙には、この時点で発刊されていた6冊が写真付きで掲載され、近日発刊予定の「ソフト・ロックA To Z:日本編(正式題:Soft Rock In Japan)」と「ビーチ・ボーイズ・コンプリート:New Edition(正式題:ザ・ビーチ・ボーイズ・コンプリート:revised edition」)も紹介されていた。前者は私がほぼ主導的なポジションで関わらせてもらったが、後者については佐野さんのLife Workという認識でいたため、執筆するには恐れ多い気がして情報提供者としては協力を惜しまなかったが、メンバーからは外させていただいた。


このようにこの頃は佐野さんだけでなく、私をはじめVANDAに関わっていたメンバーも課外授業が盛んだった。ただ、彼には本誌を発行していくために絶対に解決しなければならない重要課題があった。それは本誌の編集作業をどのようにしていくかということだった。そんな折、本誌「26」の編集に尽力いただいた(当時)音楽之友社(以下:音友)に勤務されていた木村さんより「音友への売り込み話」があったようだった。佐野さんにとって費用負担の軽減という願ってもない誘いではあったが、スポンサーを持つことで、これまでポリシーとしていた「自由なスタンスでの活動が制約されるのではないか?」と考え、積極的には行動に出なかったようだった。そんな悶々とした時期が続いていたが、ある時これまでVANDAが発刊する単行本の表紙を手掛けていたデザイナーのO氏から「格安で協力する」という申し出があり、佐野さんとしてはその方向で進めたいという気持ちが高まっていた。とはいえ、この好意を受け入れるための費用をどのように捻出するかという壁にぶち当たっていた。

そんな悩みを耳にした松生さんから私に「二人で費用を協力しませんか?」という連絡が入った。要するに、編集費を三等分して負担するという持ちかけだった。正直なところ、医師をされている松生さんと私とでは経済状況が違うので即答は出来なかったが、これまでの佐野さんへの恩返しにという気持ちから、「27」以降の編集代金を負担することを承諾した。この申し出に佐野さんは大変喜んでくれ、「負担分として本誌のページを提供するので、自由に書いて下さい」という話を頂いた。

こんなありがたい提案をいただいたが、この時期はSoft Rock In Japan」の内容吟味や割り振りなどに追われていたため、その時点では「Three Dog Night(以下、TDN)」くらいしか思いつかなかった。本音は高校時代から長らく聴き続けていた(特に日本では)軽視傾向にあるポップ系バンドについてまとめてみたい願望は持っていた。ただこの多忙状態ではVANDAとして発表できるレベルでまとめる自信がなかったので、その他の掲載については追々お願いすることにした。



少々話はそれるが、この当時一番はまっていたのは、子供の影響でテレビ番組「Hatch Potch Station」だった。ご存知の方も多いと思うが、この番組はグッチ祐三さんを中心にしたマペット・バラエティ番組で、NHKEテレ(旧NHK教育)で歴代最高視聴率を記録したことでも話題となっていたプログラムだ。内容は架空の駅で繰り広げられるコント番組だが、音楽ファンには「What’s Entertaiment」なるベタな洋楽を本人のコスプレをしてなりきりで歌う童謡替え歌に熱い視線が集まっていた。

ただ放映時間が、朝や夕刻でリアルでは見る事はほとんどなく、録画予約して週末にまとめて聴くのが常だった。その映像は佐野さんにも定期的に送っていたが、彼から「Oさんもあの番組のファンみたいで、全部チェック出来ないと嘆いてましたよ!」と伺い、Oさんと連絡を取りお互いに収録した録画ソフトを交換するようになった。余談ついでながら私のイチオシは「マホービン・ゲイ/山口さんちのツトム君」だった。この中味はMarvin Gayeが「Let’s Get It On」リリース時期に出演した「Soul Train」出演時のコスプレで、「What’s Goin’ On」のフレーズを「It’s Got Too Go E No(いつが都合良いの)」と歌うところが大のお気に入りだった。なおこの番組は大好評につき、番組終了後も数年間「ハッチポッチあんこーる」として継続されていた。私はそれらも含め必死でチェックしていたが、ずっと気になっていた「しってる・ポルナレフ/雀の学校(シェリーに口づけ)」「グランド・ファン・クラブ・レイルロード/かもめの水兵さん(ロコ・モーション)」は、You Tubeが普及した現在でも残念ながらお目にかかった事がない。

 話がだいぶ脱線してしまったのでVANDAに話は戻すが、「27」に向けて佐野さんが熱中していたものは、Radio VANDA20007月で放送した「富田勲ミニ特集」が評判となったのに気を良くした「劇伴奏時代の富田勲」だった。それが証拠に、当時Radio VANDAの音源と一緒に「富田勲テレビ主題歌」テープを必ず同封してくれた。私も幼少より『手塚アニメ』『円谷プロ特撮作品』は、生活の必需品として慣れ親しんでおり、「ソノシート」「ビデオ・ソフト」もかなり所持していたので、盛り上がらないはずはなかった。まず『特撮』では、プラモデル絡みで「キャプテン・ウルトラ」「マイティジャック」、これは電話口で映像が再現するほど熱い会話に及んだ。そして、『アニメ』では「ジャングル大帝」「リボンの騎士」が中心となった。特に後者は、主題歌が「前半」「後半」「インスト」と3パターンあり、それがそれぞれ微妙に違う事や、新進ギタリスト押尾コータローさんのインディーズ時代のセカンド『LOVE STRINGS』(20013月)に絶妙なカヴァーが収録されていたこともあって、こちらもかなり大盛り上がり状態だった。


次にこの「27」で私が自信を持ってまとめたのはTDNだった。彼等はVANDAに初めて寄稿したGrass Roos同様、ポップスにはまり込んだ1970年前半に聴きまくっていたバンドのひとつだった。ちなみに彼らのファンになったのは、ギターとキーボードの絡みが絶妙なソフト・ロック「Out In The Country」(1970年全米15位)を聴いた事がきっかけだった。そして初めて手にしたLPは大ヒット「喜びの世界(Joy To The World)」(1971年全米1位)を収録した『Naturally』、この中で一番のお気に入りはBreadを彷彿させるように清々しい「Sunlight」だった。なお、このLPの国内盤購入後しばらくして米国初回盤は特殊仕様と気がつき、あわてて買い直した。とはいえ、この事実は2013年に紙ジャケCDが発売になるまでそのジャケットの存在を知る方は少なかったようだった。



 ちなみに、TDN197319741975年そして1993年と4回来日しているが、私は再結成後のラスト来日しか行くことは叶わなかった。ただ、2回目のマジシャン・キーボードSkip Konteが加入して8人組公演となった来日は、弟が静岡公演での演奏を録音してくれたので、ほぼ全盛期のライヴを疑似体験することができた。また、私が行った1993年のステージではCSNY風に椅子腰かけで「Sunlight」「Out In The Country」のメドレーを披露し、(来場客は少なかったが)大喝采を浴びていたのが印象的だった。ある時、この話を佐野さんにすると「それは是非聴きたかった」と残念がったのが忘れられない。



このように、「VANDA27」の原稿もやらなければならない状態にはあったが、優先事項は年末までに発刊しなければならない「Soft Rock In Japan」だった。この割り振りについては、「大瀧詠一」「山下達郎」「Garo」などビッグ・ネームは佐野さん、「オメガトライブ関連」「村田和人」「Piper」「ハルオフォン」といったバンド系は後輩のK君、そして私は作曲家としての「林哲司」「小田裕一郎」などのポップな作曲家と松生さんやSKさんが見送ったものを万遍なく手掛けることにした。

そんな折、編集担当の木村さんから「どなたかのインタビューを取ろうと思うのですが、希望はありますか?」という連絡が入った。私は間髪を置かず、「林哲司さんと話がしてみたい!」とリクエストをした。他の候補としては、松生さんから「杉真理さん」と挙っていたが、結果として私の希望が通った。

このインタビューはこの年の秋、東京駅の近郊にある喫茶店で、木村さん立ち合いの中で私と松生さんK君そしてSKさんの4人で実現した。なお佐野さんは「餅は餅屋」ということで、今回参加したメンバーに預ける形となった。特に当日の私はかなり興奮気味で、約25年前に購入したお気に入りのLPBack Millor(:1)を持参して、その場に臨んだ。当初は、1時間程度という約束であったが、かなりコアな質問の応酬に、林さんもかなり熱心に対応いただき、倍以上の時間を共有させていただいた。帰りには持参したLPにサインをいただき、忘れられない一日となった。ここでの内容はかなり充実したものだったが、これを文面に起こすという面倒な作業が残った。誰も作業に手を挙げないので、木村さんから「鈴木さんやってくれない?」と頼まれ、仕方なく引き受けた。そこで、休日返上でまとめ上げたものの、紙面の関係でわずかP4しか掲載できなかった。ただ、この時の対応が林さんご本人に好印象を持っていだけたようで、翌年の『林哲司全仕事』オファーに繋がっていくのだが、その話は長くなるので次回にまわすことにする。


インタビューを終えた後、「Soft Rock In Japan」での担当パートをまとめ、着々と完成に向かって進んでいった。このように、この本の「企画・構成」は佐野さんになっているが、最終的にかなりの面で私も関わっていた。当時このようなテーマの本は珍しいチャレンジで、発刊された際のMM誌でも、「『Harmony Pop』の亜流」と切り捨てられている。とはいえ、一般にはかなり好評に受け入れられ、最終的には完売することが出来きた。さらには、K君にまとめてもらった山本圭右さん(Piper)から「我々のことにこれだけのページさくの大変だっただろうな」(注:2)という感謝の弁をいただくという話もあり、やって良かったと胸をなでおろした。そして、発売から半年を経過した20016月には『Soft Rock』(シンコーミュージック)なるタイトルの類似本が発刊されている。この事実からも、我々の着目点に間違いはなかったと感じた。



その後、発刊直後に佐野さんから「Radio VANDAでプロモーションをしましょう!」という話になり、10回目の放送となる20012月の第2特集で「日本のソフト・ロック」をオンエアすることになった。ただ、当時の私は滋賀在住だったので、テープ編集したものを制作して流すことにした。その作業に協力してくれたのは金沢工業大学PMCで、年末に資料探索で出かけた際に、館内スタジオの録音機材を借りて収録した。そのカセットを佐野さんに送付し、オンエアする運びとなった。なおその音源は、林さんの自演曲「Rainy Saturday And Coffee Break」、それに以前私が佐野さんへチョイスして送った音源から、「これこそがソフト・ロックのきわめつけ!」と太鼓判を押してくれたカルロス・トシキ&オメガトライブ『be yourself(1989)のトップに収録されている「失恋するための500のマニュアル」だった。


こんな流れで、単行本の作業は完了した。あとは、20013月に迫っていた「27」の寄稿分をまとめなければならなかったが、時間の関係でTDN以外には「Soft Rock In Japan」の書き残し、「一発屋」といった安易なものしか書きあげられなかった。しかし、音楽以外にアニメにも造詣の深い佐野さんは、新婚旅行で向かった「冒険ガボテン島」によく似たタヒチにある「ボラボラ島」旅行記を一気にまとめている。これは彼のポリシーである「人生は家族と趣味のためにある」の実践記録で、こんな自作自演の旅行記は彼が病に倒れるまでずっと継続している。また、その手記は病床にあっても、旅立つ数日前まで懸命に綴り続けていた。

このような経過を経て「27」は20016月に、O氏の手によるセンス・アップされたパッケージに新装され、無事発行の運びとなった。このサンプル本にはいつものように、彼からの手紙が送付されており、そこには「音友への売り込みは慎重に考えたいので、次回も費用負担のご協力お願いします」とあり、「その負担分として8Pと、鈴木さんから依頼されたKさんにも4P、計12Pを提供します。」と書かれていた。ただ編集を受けてくれているOさんから、「より良い誌面に仕上げたいので、十分な時間が欲しい」との要望があったとのことで、「次回「28」の締め切りは1ケ月早めて20022月にします。」とあった。それはその時点で、私主導となる本格的なオファーが入っていたので、遅延癖のある私に早めの準備をするようにと、VANDA編集長として佐野さんからの苦言だった。

次回は、「28」発行までの経緯と、1年がかりで完成させた林哲司さんの本についての悪戦苦闘の日々について紹介することにする。ところで今朝方、Facebookより「今日は佐野邦彦さんの誕生日です。誕生日のメッセージを投稿しよう」というメッセージが届いた。彼が存命であれば、61歳の誕生日だった。思えば彼が亡くなる三週間前に、彼から誕生日の祝福メッセージが届いた。本来であれはば、本日私がメッセージ送信しなければならないのだが、それも叶わぬことになってしまったので、この投稿を亡き彼への祝福メッセージとしたい。

(注11977年に発売されたセカンド・ソロ・アルバム。ここには大橋純子&美乃屋セントラル・ステーションが1976年に発表した『Rainbow』で取り上げた名曲「Rainy Saturday And Coffee Break」の自演ヴァージョンが収録されている。なお、林氏は(この時点でインスト除き)6枚のソロ作品を発表しているが、このアルバムは2012年にタワーレコード限定販売にて待望の初CD化されている。

(注2)「Soft Rock In Japan」では大御所「山下達郎」「大瀧詠一」でも2P枠ながら、Piperには1.5Pを割り振っており、この扱いにリーダーの山本圭右さんが感激してくれた時の話。なお、当時所属していたユピテルの撤退で、長らく廃盤状態となり中古市場で高騰していたPiper4作品が、20183月に(K君の解説付)待望の初CD化の運びとなった。

20184242200

Lamp『彼女の時計』(Botanical House/BHRD-008)リリース・インタビュー前編

$
0
0

















Lampが8作目のオリジナル・アルバムとなる『彼女の時計』を5月15日にリリースする。 前作『ゆめ』(2014年)の完成度から本作にも当然期待していた訳だが、3月初頭に入手した音源を聴いてみて、ほぼ全編がミッドテンポのメロウなサウンドで統一されているのにまず驚いた。
鍵盤類は80年代のデジタル・シンセサイザーの実機や音源モジュール、またシンセサイザー・ベースを多用しているが、当時のシティポップ及び現代のフォロワーとは一線を画す、彼等ならではの唯一無二のサウンドを構築しているので聴き飽きない。『ランプ幻想』(08年)以来リーダーの染谷がグループに本格的に持ち込んだミナス・サウンドを初めとする良質なブラジリアン・ポップのエッセンスがメンバー全員のソングライティングにも浸透しているのが聴き取れるのだ。
ここではファースト・アルバムに推薦コメントを寄せ、デビュー前から交流のある筆者が、『木洩陽通りにて』(05年)リリースから13年振りに彼等におこなったインタビューを前編と後編に分けて掲載する。


(左より染谷太陽、永井祐介、榊原香保里)

●前作『ゆめ』から4年余りの歳月を経てのニューアルバムですが、本作の元々のコンセプト「小さなバラード集を作ろう」という発想はどこから?

染谷:なぜ「バラード集」かという部分についてはあんまりよく覚えていないんですが、最初は、4曲入りで考えていました。たしか、収録候補曲は、「Fantasy」「1998」「車窓」「夜会にて」みたいな感じだったと思います。
でも、やっている内に時間も経っちゃって、数年振りに出す作品が4曲入りだと、待ってくれている人にちょっと申し訳ない気もしたし。永井と僕とで1曲ずつ増やして6曲入り、さらにもう1曲ずつ増やして8曲入りと段々増やして、この形になりました。

●『ゆめ』収録の「さち子」に創作のヒントを得た曲が中心ということですが、具体的に聞かせて下さい。

染谷:僕の曲は4曲とも全部そうですね。最近の僕の曲は、転調はしませんし、作曲の際には、テンションコードというよりはオンコードに考え方がシフトしていたり、ギターの開放弦を活かした曲作りやキーの設定、とか。曲の展開もシンプルにしています。

●これまで染谷さんが作る楽曲にはメロディーやコード進行の難解な曲があり、Lampの一つの特徴になっていたのですが、このアルバムではそれがあまり感じられなかった。 曲作りがシンプルになったのは、音楽に対する姿勢や心境の変化があったからですか?

染谷:音楽に対する姿勢や心境の変化というよりは、ストレートに言うと、今こういうのが作りたかったというのが一番近い気がします。
今の僕が、より良いと感じる音楽を求めた結果、と捉えていただけたらって感じです。


●サウンド的にはこれまでのアルバムよりデジタル系エレピの音を多く聴けますね。ローランドのMKS-20(音源モジュール)やヤマハのCP-80、そしてDX7のエレピなど80年代の名器が全体的に使われていて本作のサウンドの要となっています。これはバラードというかムーディーでメロウな曲が多いから必然的にそうなったんでしょうか?
 Lampの自主レーベルBotanical Houseからリリースした新川忠氏の『Paintings of Lights』(15年)にも通じるサウンドだと感じました。90年代のプリファブ・スプラウト的というか。

染谷:こういうサウンドのアルバムを作ることは10年以上前からアイディアとして温めていました。この時代のブラジル音楽を沢山聴いていて、すごく感化されていたので、そういう音でやりたいなと思ったんです。僕は時間的にも距離的にも遠いものに憧れるタイプなので、新川さんのアルバムからの影響は全然なかったです。
YAMAHAのDX7やCP-80は当時の名機として有名ですよね。ローランドのMKS-20はFlavio Venturiniの作品のクレジットに書いてあって、購入しました。JX-8PはToninho Hortaの『Diamond Land』(88年)に書いてありました。その他、80年代に使われていたリバーブやディレイなども購入したりもしました。

永井:プリファブは新川さんが好きらしいということで割と最近聴くようになったんですけど、新川さんのアルバムにも通じるロマンチックでキラキラした感じの音像に本作の僕の曲は影響を受けていると思います。プリファブに限らず10年前なら敬遠していた80年代の音楽を今はむしろ良い感じで聴けていて楽しいです。

●ローランドの80年代最後のアナログ・シンセであるJX-8Pは、本作中「夢の国」でのみ使用していますが、Toninhoの「Sunflower」(『Diamond Land』収録)でのヴォイス・パッドを意識しましたか? Toninhoファンである染谷さんだから聴き込んでいるのでその他にも影響されている点はあると思いますが。

染谷:まさにそうです。 このテイクの暗く冷たく濡れた響きが大好きでしたし、間奏のヴォイス・パッドの部分は昇天しますよね。こういう感じにしたかったのですが、いざ実機を鳴らしてみると中域がとても強く、イコライジングしましたが、結局思っていたように上手くは行きませんでした。

●一方で『ランプ幻想』(08年)から前作まで大胆に取り入れていた生のストリングスが本作では聴けません。当初からアルバムのコンセプトによってオミットしたのでしょうか?

染谷:そうです。 生のストリングスで満足する音が得られたことってほとんどなくて、逆にシンセストリングスでも良いものは本当に良いというか。敢えてシンセストリングスを多用しました。シンセストリングスは、過去作だと「さち子」や「恋人と雨雲」(『東京ユウトピア通信』収録・11年)の大サビなんかですごく上手くいっていましたので、その経験を活かしました。
 

●その他レコーディング中特出するようなエピソードはありませんでしたか? 

染谷:うーん、毎回地味な作業の繰り返しで、特に言いたくなるようなエピソードは思い出せません。ただ、毎回そうなんですが、変わったサウンドを得る為に、制作では色んなことを試していますね。

永井:本作のレコーディングから自分たちで機材を買い揃えて、自宅である程度の録音作業ができるような環境を整えました。そういう意味で今までより自由度の高いレコーディングができたと思います。
今までも割とそうでしたけど、より試行錯誤を繰り返しながらより良い結果が得られたと思います。ただ、もっと良い音にしたいという欲求もあるので今後はもっと録音環境や機材の知識を増やしたいなとは思っています。 

●ソングライティング的には、バンド内シンガーソングライター的ポジションだった永井さんの曲に榊原さんが詞をつけた曲の比率が増えたように感じますね、前作収録の「ため息の行方」の組み合わせのように。
中でも永井さんによる『続「さち子」』と呼べそうな「ラブレター」は完成度が高いと思います。

永井:そうですね、年を重ねるにつれて歌詞を書くことのハードルがだんだん高くなっていて、結果的にこのような形になりました。歌詞をカオリさんが書いている2曲は僕が書けなかったということです。

榊原:この2曲は制作の終盤あたりで私が書くことになったので、あまり時間がかけられなかったんです。多分永井も自分で書くつもりで最後の方まで考えていたと思うので、台無しにしてしまわないよう頑張りました。

●そうなんですね。短い時間で曲に歌詞をつけるのは大変だったと思いますが、この「ラブレター」と「スローモーション」以外で、染谷さんの曲への作詞では苦労はなかったですか? 
曲先が多いと思いますが、複雑なメロディ・ラインに歌詞を当てはめるのは大変な作業だと思います。

榊原:染谷曲の作詞のほとんどは2014年から2016年の間に完成していて、ライブでも演奏してきました。けれど、レコーディングに入って音を重ねていくうちに構成が変わるんです。
例えば2番のメロディーがまるごと削られたり、繰り返しがなくなったり。わりと削ぎ落とす方向で変化した曲がいくつかありました。そうなると歌詞の場合、1番と2番で音感を揃えたり、場面を相対させたりした箇所の意味がなくなってしまう・・・。ちょっと悲しいですが、曲が一番大切ですから、すぐに切り替えて修正します。
二人の曲が大好きなので歌詞を考えるのはいつも楽しいです。できたての曲を聴きながら色々イメージする時間がとても好きです。 

 後編へ続く


(インタビュー設問作成/文:ウチタカヒデ)


ジェフリー・フォスケット:『LOVE CAN GO THE DISTANCE / TRUE LOVE WAYS:VSEP-830』7インチ・アナログ盤:平川雄一

$
0
0


現在、マイク・ラヴとブルース・ジョンストン率いる「ザ・ビーチ・ボーイズ」で活動中のジェフリー・フォスケット。2017年から日本国内で7インチ・アナログ盤を精力的にリリースしている。

【2017年】
『FISH! / THIS COULD BE THE NIGHT』VSEP-822

【2017年】
『JODY / YOU REMIND ME OF THE SUN』VSEP-826

【2018年】
『ONLY WITH YOU / FEELING JUST THE WAY I DO』VSEP-829

【2018年】
『LOVE CAN GO THE DISTANCE / TRUE LOVE WAYS』VSEP-830


ジャケットをジミー益子のイラストで統一しているのが一貫性があって小気味良い。
そしてご覧のようにA面は全て山下達郎楽曲のカヴァーで、いかにも日本市場(の中でも、ある一定層のヒトビト)向けと言える。
何より今年2018年の選曲はなかなか攻めていて(というか私好みで)良い。

今年のレコードストアデイ2018に2作発表しているが、今回は『LOVE CAN GO THE DISTANCE / TRUE LOVE WAYS』を取り上げる。

A面は山下達郎の『LOVE CAN GO THE DISTANCE』をカヴァー。
山下達郎が1999年にシングルとしてリリース、当時NTTコミュニケーションズのTVCMソングとなっており、私はリアルタイムでそのCMを観て、この曲を知った。
初めてブラウン管から流れるア・カペラを聴いた時、あまりの素晴らしさに度肝を抜かれた。当時19歳の私は、これほどまでに桁違いに最高な曲を作れる日本人が存在するのか、と驚き感銘を受けた。それ以来、今の今までこの曲は山下達郎楽曲中で私の一番好きなものとなっている。

さて今回のジェフリー版だが、原曲よりもサラッとした印象。
ジェフリーの歌いっぷりも、山下達郎の様に溜めずに歌い流している。
歌の情感も比較的込めずに、やはり「サラリ」と歌っている。
山下達郎の原曲では静寂から始まり徐々に厚みと広がり、深みが増してゆき、最後に大きく上空へ昇華する「流れ」があるが、このジェフリーのカヴァーバージョンでは、あえてなのか、最初から最後まで一様に平坦な道を歩んでゆく。そんなアプローチの仕方。
原曲の「荘厳で物憂げ、しっとりとした」風合いとはまた違った、言わば「カリフォルニア風のカラッとした」手触りだ。
それが「らしさ」といえば「らしさ」なのかもしれない。

B面はバディ・ホリーのバラード『TRUE LOVE WAYS』。
ホリーが死の4か月前に録音し妻に奉げた美しくも悲しいラヴ・ソングだ。
このB面でのジェフリーの歌唱が本当に素晴らしい。
彼の美声が十二分に発揮された、ジェフリーのこの曲への思い入れがひしひしと伝わる丁寧で愛のある歌いっぷりに、聴いていて嬉しくなってしまった。
演奏もシンプルではあるが的確で丁寧。歌の良さを引き立てる好プレイである。

レコードストアデイ用の数量限定盤との事なので、気になる方は早めのご入手を。
オススメです。


平川雄一

Lamp『彼女の時計』(Botanical House/BHRD-008)リリース・インタビュー後編

$
0
0
5月15日に8作目『彼女の時計』をリリースするLampのインタビューを前編に続き、後編をお送りする。
ここでは過去作品についても振り返り語ってもらったので、最近作から彼等のサウンドに触れたファンには興味を持って聴いて欲しい。


(左より榊原香保里、永井祐介、染谷太陽)

●先行で「Fantasy」のMVが公開されていますが、80年代前半の映像を元に榊原さんが編集を担当されていますが、曲の世界観にも絶妙に合っていると思います。
このMV制作はどのようなイメージで作られましたか?

 

榊原:80年代前半に大学生だった方の「自主制作フィルム」をお借りして作りました。 撮影後、未編集のまま頓挫してしまった映画だそうです。長回しの映像素材を少しずつ切り貼りして、凡庸な青春のイメージで全体の流れを作りました。
当時の街の雰囲気や若者がすごく良くて、今回の音色にもぴったりですよね。貴重な素材を提供していただきました。

●画質から推測するとマスターは16か8ミリフィルムのようですが、当然デジタルに変換してから編集したんですよね?

榊原:これは8ミリですね。デジタル変換はその方がやってくれました。 自分たちでデジタル変換する場合は両国に専門店があって、いつもそこにお願いしています。


●自分が手掛けた曲はなかなか選べないと思うので、自作曲以外でこのアルバムで印象に残っている曲を各々挙げて、その理由を語って下さい。

染谷:永井の曲は4曲とも初めて聴いた時のキラキラ輝いている感じがどれも等しく印象的です。「あ、すごく良い感じ。早く進めよう」っていう気持ちになりました。

榊原:「Fantasy」です。すごく好きな曲だからです。今回のアルバムの中で一番早くかたちになって、サウンドのイメージも纏まっていた。この曲に連れられてここにいる、という感じがしています。

永井:「車窓」ですかね。理由はLampでしか聴けない音楽になっている、気がするからです。

   

●確かに「車窓」は不思議なムードの曲でLamp以外では聴けないですよね。この曲の着想は? 

染谷:この曲は、シコ・ブアルキ、タヴィーニョ・モウラ、フランシス・ハイミ、ミルトン・ナシメントあたりの影響があります。あまり言うとつまらなくなるので、ミュージシャンの名前までに留めておきます。

●以前のライブでも演奏されていた「Fantasy」と「1998」の完成度は甲乙付けがたいです。ところでクレジットを見ると、本作中永井さんの全ての曲で染谷さんはプレイしていませんが、俯瞰的立場でディレクションをしていたのでしょうか?


   

永井:基本的には僕一人の作業ですけど、途中の音源は共有しているので、その都度アドバイスはもらっていました。一人の作業というのは往々にして視野が狭くなりがちなので、アレンジやプレイ内容など、色んな部分で助けてもらっていますね。

染谷:永井の曲を聴かせてもらえるのは、制作終了まで残り2~3ヶ月という時期なんですけどね...

●また本作では前作での北園みなみさんのようなバーサタイルなアレンジャー兼ミュージシャンが参加していませんが、当初からレギュラー・メンバーだけでレコーディングしようというプランだったですか? 

染谷:意図があったわけではないですが、そうなります。だいたい僕らのアルバムを振り返ると分かりますが、アレンジャーが入る方が珍しいですから。


●WebVANDAという音楽研究サイトの性質上からの質問なのですが、このアルバムの曲作り、またレコーディング中に愛聴していたアルバムを何枚でも挙げて下さい。

染谷:Dori Caymmiの88年のセルフタイトルのアルバム、Marcos Valleの83年のセルフタイトルのアルバム、Beto Guedesの84年の『Viagem Das Mãos』、Chico Buarqueの1987年の『Francisco』、Ivan Linsの87年の『Mãos』、Francis Himeの73年のセルフタイトルのアルバム、Rosa Passosの1stアルバム、Milton Nascimentoの『Notícias do Brasil』です。

永井:期間が長いので難しいですけど、ここ数年好きで聴いているのはマイケル・フランクスの80年代の諸作ですかね。80年の「One Bad Habit」くらいまでは今までも好きでよく聴いていましたが、最近はむしろそれ以降のタイトルの方を好んで聴いています。あと80年代のマルコス・ヴァーリも好きですね。特に83年の「Marcos Valle」はかなりお気に入りのアルバムです。

榊原: Flavio Venturini『Nascente』『O Andarilho』、Prefab Sprout『Steve McQueen』『Swoon』、may.e『私生活』、Sunset Rollercoaster『Jinji Kikko (EP)』、あと、ヴォーカル録音の前にElsa LunghiniとGlenn Medeirosのデュエット「Un Roman d'Amitié」を聴いたりしていました。


●僕は『そよ風アパートメント201』(2003年)のデビューからLampの歩みを見てきたのですが、アルバム毎にそのサウンド・スタイルは進化しているけど、Lampならではの美学があったからこそ、唯一無二の存在になりえたのだと思います。
そこで過去の作品を振り返って、当時を思い出しながら各アルバムについて一言お願いします。(タイトルのリンク先に当時のインタビューまたはレビューを掲載)

1.『そよ風アパートメント201』(03年)
染谷:今となっては、そんなに人にお薦めしたいアルバムではないですけど、当時はとにかく無我夢中で作りました。 メンバー以外の人が関わる初めての共同作業はかなり困難なものでした。

永井:色々と苦い思い出の多いアルバムですね。なぜこんなにも思い通りの音楽が出来ないのか、というその後もずっと続く苦悩の始まりのアルバムです。


2.『恋人へ』(04年)
染谷:永井が一番自己表現にこだわったアルバムかと思います。今でこそ名盤と言う人も多いですが、リリース当時の評判は良くなかった印象です。永井の「ひろがるなみだ」を軸に構成したアルバムでした。

永井:「ひろがるなみだ」を作ることができたのが大きかったと思います。初めて作曲に満足できた曲ですね。

   
染谷:究体音像製作所3部作、最後の作品。制作の終盤はやりこみすぎて、リリースした時はあまりこれに自信が持てていなかった思い出があります。永井の「冷たい夜の光」を中心に据えて作ったアルバムでした。

永井:『恋人へ』のセールスが良くなかったこともあり、気合いを入れて作り始めましたが、最後の方は疲れ果て、投げ出してしまったような記憶があります。あと、このアルバムあたりからベースを弾くことの面白さを分かり始めたような気がします。その感じがプレイに出ているように思います。


 4.『ランプ幻想』(08年)
染谷:誰かに「どんな音楽をやっているの?」と言われて、まず初めにこれを差し出すことはないと思います。ただ、これはこれで色んなところに良さがあると思ってます。

永井:このアルバムで僕がやりたかったことは、冒頭3曲の流れがほぼ全てです。今聴くとそんなに完成度は高くないですけど、初めて自分の思い通りのことができた感じがして満足しました。
あとは完成した「雨降る夜の向こう」を聴いた時に、やっとバンドのオリジナリティが出来てきたような気がしました。

榊原:ファーストからお世話になってきた究体音像製作所を離れ、スタジオで録音をするようになりました。この『ランプ幻想』を出したことで、自分たちは変わっていったと思います。また、このアルバム以降、聴いてくださる方との結びつきが強くなった気がしています。

   

 5.『八月の詩情』(10年)
染谷:これはリリース以来ずっと好きな作品ですね。後悔といえば、最終的な仕上げの部分で音圧を上げすぎたので、やり直せるならそこだけやり直したいです。

永井:アルバムの最後に収録されている「八月の詩情」は録音やアレンジに後悔があるんですけど、自分が作った中では特に気に入っている曲です。ジャケット写真は僕が伊豆の方に旅行に行った時に撮影したものです。

榊原:アルバムの為に録音していた数曲から、夏という季節をテーマに急遽まとめたアルバムですけれど、いい意味でコンパクト、統一感のある良い作品になりました。


6.『東京ユウトピア通信』(11年)
染谷:ちょっと力みすぎたかなと思いますが、僕のピークがここにあると言っても過言ではないかなと思います。作曲家として乗りに乗った時期の作品です。こちらも前作の経験を活かせず、最終的に音圧を上げすぎました。そういう点でこれはレコードの方が良い音で聴けるのではないでしょうか。夢中で作業をしていると段々冷静さを失っていくんですね。

 永井:ジャケット含め完成度の高い作品だと思います。

   

7.『ゆめ』(14年)
染谷:『東京ユウトピア通信』を出し終えて、何を作ろうというほぼゼロの状態から作ったアルバムでした。その分、時間もかかりました。

永井:なんと言っても「さち子」に尽きると思います。この曲は良過ぎて自分のバンドの曲という感覚があまりありません。

榊原:永井の言うとおり、「さち子」は自分たちの曲ではないみたい。それまでの作品から漂う、「これでもかー!」という自我を感じないからでしょうかね。そこは、『彼女の時計』にも繋がっていると思います。

   


●最後に本作『彼女の時計』の魅力を挙げてアピールして下さい。 

染谷:なんでしょうね。Lampの作品が悪いわけがない。良いかどうかは別としてって感じでしょうか。

永井: 今までLampを好きだった人には新鮮に響く音楽だと思いますし、本作から初めて聴いたという人にも良いと思ってもらえる内容になっていると思います。派手さはありませんが間口の広い作品だと思うので是非聴いてもらいたいです。

榊原:メロディーも今までよりずっとシンプルになって、少しもの足りないかもしれませんが、これまでの作品を聴き続けてくださった方には、かえって新鮮に、純粋に、良いと思っていただけるものになったような気がしています。


 (インタビュー設問作成/文:ウチタカヒデ)

 
 

佐野邦彦氏との回想録13・鈴木英之

$
0
0

この回想録も「VANDA27」まで進み、今回紹介する「28」の製作期間となった2001年の中ごろから2002年の春頃になるのだが、この頃佐野さんは本誌以外の課外授業がさらに加速していた。そんな佐野さんの主たるスケジュールは、月1回のRadio VANDA、そしてWebVANDAへの日々情報発信に勤しんでいた。
まずRadio VANDA、ここでは彼にしかできない“佐野ワールド”が全開だった。例えば第21回のPat Upton(注1)特集など、「世界広しといえどここでしか聴けないプログラム!」と独自の視点のプログラムが組まれていた。さらに、VANDAスタート以前から探求している富田勲関連のアニメ・サウンド・トラックの特集も第15回に放送しているが、さらに本誌「28」に連動した特集も第23回で放送している。

またWeb.には続々リイシューされるCDや、1960年代の貴重DVDを入手しては、投稿を続けていた。その活動状況はサラリーマンの片手間で出来る範囲を逸脱しており、その多忙ぶりに、VANDA28の入稿を終えたのちに体調を崩して寝込んだと聞いた。
とはいえ彼のもう一つのLife Workとしていた沖縄離島への家族旅行(1999年より開始)もきっちりとこなしている。この2001年は6/2225にかけて34日で敢行した八重山諸島旅行記は「28」に6Pに渡って詳細に記されている。私自身もスキューバーダイビングのライセンスを取得した直後は、沖縄離島(慶良間諸島にある会社所有保養施設)に通っており、離島には馴染みがあったので、興味深く読ませてもらった。
そんな私にも音友の木村さんから「先日対談した林先生からオファーがありました。」という課外授業のメールが届いた。内容は彼の音楽作家生活30周年を記念したHistory本の制作依頼で、コピレーションCD(注2)と連動した企画と伺った。個人的に同郷出身(注3.)で、また清水エスパルスのファン(注4.)という話題で、より親近感を持ったので舞い上がるような気分だった。余談ながら、前回のインタビュー直前に林さんが音楽を手掛けたテーマ・パークのひとつ「レオマワールド」(注5)に、事前調査と家族旅行を兼ねて出向いている。そのインタビューではほとんどふれることはなかったが、こんな形で役に立つとは思わなかった。

2001年の春に初の打ち合わせで上京することになったが、彼の書下ろし曲が(その時点で)1,500曲はあるという話を聞き、打ち合わせまでにそのリストをまとめねばとあせっていた。そこで金沢工業大学PMCスタッフに協力いただき、書庫に籠って、所蔵レコードをチェックさせてもらった。とはいえ限られた時間ゆえ、500曲程度しか調査出来ず、不安交じりで打ち合わせに臨んだ。
当日、開口一番「リストが完璧になっていない」ことを告げると、「大丈夫、私の方にありますから」と本人の持参リストが渡された。そこにまとめられていたのは200曲程で、私のリストを見た林さんは大変驚かれ、その場で「全権依頼」の信頼を得た。そんな流れで当日の打ち合わせはすんなりと進んだ。なおここに佐野さん不参加だったので、その日のことを連絡すると、「鈴木さんらしいね!」と笑っていた。
その日から年末に向けて『林哲司全仕事』の制作がスタートした。項目については「History」「Works」「Disc Selection」以外に、三島にある林さんのスタジオ訪問と、著名人とのインタビューのラインナップも(ここのみ敬称略)萩田光雄、竹内まりや、杉山清貴、新川博、朝妻一郎、奥山和由、藤田浩一の7名がリスト・アップされた。すべてを一人でこなすのは厳しいと判断し、割り振りを決めた。まずスタジオ訪問は、ミュージシャンでオメガトライブのフリークでもある後輩K君と共同作業、彼には杉山さんのインタビューも依頼。また「まりやさんをどうしてもやりたい!」と手を挙げた松生さん、以外の5名を私が担当することにした。
この日から製作開始となったが、まず手を付けたのが、彼が手掛けた映画やテレビ・ドラマのサントラのチェックだった。幸いにもほぼ既発ビデオがほぼ揃ったので、しばらく映画鑑賞の日々が続いた。またインタビュー取材用資料として萩田光雄さん、新川博さんに関する編曲ワークス・リストつくりにも精を出した。
そして、いよいよ木村さん同行でインタビューを開始した。トップは林さんのYAMAHA時代の先輩であり、1970年代の日本の音楽シーンには欠く事の出来なかった重鎮で私の高校時代からの憧れ、作・編曲家萩田光雄さんになった。場所は品川プリンス・ホテルで、ここでは、「天国に一番近い島/原田知世」と「入れ江にて/郷ひろみ」(注6)にポイントをしぼっていた。当日は林さんに関わったリストに加え、これまで手掛けた編曲リスト300曲程の作品を作成して臨んだ。対面時、そのリストに目を通された萩田さんはその内容に感心され、和んだ雰囲気の取材となった。おかげで林さん関連以外の音楽談話にもお付き合いいただくことができた。そんな流れで初取材は充実度200%といえるほどだった。帰り際に萩田さんから「このリスト頂いていい?」との申し出に、私は「どうぞ、どうぞ」と即座にお渡しした。

幸先の良いスタートで、続いてはユーミンのバックなどで著名なキーボード・プレーヤで2000年には自身のレーベルを設立していた新川博さんとなった。場所は彼のスタジオで、ここにも本人のワークス200曲程度のリストを持参し、同行を希望したK君にも帯同してもらった。この取材も、リスト制作が功を奏し本論以外に大変興味深い裏話なども飛び出し、こちらも順調に終了した。その帰りには、新川さんの新作CDをお土産に頂き、「今回のリストをH.P.に使用したい」との要請を受け、帰宅後データ送信した。

この重鎮おふたりに続いては、林さんの存在無しには語れない杉山清貴さんとなった。当時は古巣Vapレコードに復帰(注7)で多忙中ながら、林さんのためにと快く協力していただいた。当初はK君単独予定だったが、原稿起こしのため私も同行した。取材はVap本社で、K君の満足げな表情に象徴されるように順調に進んだ。終了後、今回の本でも新作の告知協力する運びとなった。なお、このインタビューをきっかけに杉山さんは林さんに新曲のオファーを入れ、翌年リリースしている。またこの時期には『杉山清貴&オメガトライブBox/Ever Lasting Summer』を制作中で、その後この取材をきっかけにK君は『1986&カルロス・トシキ&オメガトライブBox/Our Graduation』のオファーを受けた。
このようにインタビューは順調に進行していったが、竹内まりやさんは新作(注8)キャンペーンで大忙しの中、体調を崩されてダウンされ、しばらく保留となってしまった。そんな訳で、他の対談相手(朝妻一郎、奥山和由、藤田浩一)は予定が決められず、「電話インタビュー」に切り替え、音友の応接室に出向いた。
まずは朝妻一郎さん(注9)からスタート。ここでは私がFM雑誌で彼の存在を知ったまだ無名時代を中心に伺った。電話ながら、デビュー当時の興味深い情報を聞きだし、実りの多い取材となった。そして、映画プロデューサーの奥山和由さん。こちらは林さんが担当した映画のサントラ(注10)の話題に終始した。そこでは現在進行中の作品の話まで広がり、林さんの最新作(注11)の話にふれると、「その音源を是非聴きたい!」とかなり本気モードに及んだ。終了後即この話を林さんにお伝えすると、彼は感激してサントラCDを送付している。最後に音楽プロデューサー藤田浩一さん(注12)、彼には作曲家林さんと黄金コンビで大活躍したVap時代の活動を聞かせていただいた

このようにインタビューはほぼ完了し、次は林さんのスタジオ(三島の自宅併設)取材を敢行することになった。ここには、私とK君に木村さんの三人で23日のスケジュールで現場に出向いた。そこに向かう途中でK君と「林さんはどんな車乗っているんだろうね?」という話題になり「もしかして「真っ赤なロードスター」?」(注13)と身内ネタで盛り上がっていた。ここでの3日間は林さんに「音楽の監査官に家宅捜査を受けているみたいだ!」とコメントされるほど、徹底した取材に徹した。

その後、体調が回復したまりやさんとの予定が決定した。ただ、肝心の松生さんが学会の都合でキャンセルとなり、急遽私が呼び出された。しかし、その前日は台風の襲来で新幹線も空路も運休、唯一の交通手段となった各駅停車に飛び乗り、10時間以上かけてやっとの思いで上京。当日の会場は所属ワーナーの応接室で私と林さんそれにご本人の三者対談となった。会場に「こんにちは。」と現れた彼女はまだ咳き込んでおり回復途中のように写った。そこでは私がまとめたかなりコアな質問集で進行したが、気持ちよく懇切丁寧に対応いただけた。余談ながら、この取材で私はまりやさんから風邪をプレゼントしていただいたようで、帰宅後高熱で寝込んでしまった。この事を佐野さんに伝えると「それが一番の収穫でしたね!」、知人たちからは「せっかくならもう少し温存して寝込んでいたら良かったのに、もったいない!」といじられる始末だった。

このように春から秋まで、仕事以外のすべての時間を使い全精力を費やした『林哲司全仕事』は、年末の発売に間に合わせることが出来た。この作業の最終チェック終了後、私は過労が原因でダウンしてしまった。この時は激痛で身動きできないほどで、病院で診察を受けた。医師からは、「ヘルペス(帯状疱疹)ですね。薬出しておきましょう。」と言われ、窓口で受け取った薬の値段(保険提示で)「1万円」には仰天した。ただ、服用後漫画のように完治して「スゲー薬!」と感動した。
なおこの発売告知として、発売日1210日「読売新聞(関東版)」第1面に広告掲載。発売の週末には、林さんの新ユニットGRUNIONのインストア・イヴェント(新宿タワレコ)を実施するなど賑々しくプロモーション活動が行われていった。また佐野さんにお願いしてRadio VANDAでも、第20回の第二特集で私の収録したテープ音源を放送した。ちなみにこの本はVANDA名義で出版しているが佐野さんは直接参加していない。とはいえ発売後多くの読者から賞賛のコメントを頂き、胸をなでおろした。このように2001年はめまぐるしく過ぎていった。

このプロモーションが終了すると、「28」に掲載するコラムに取り掛かっている。ただ、課外事業の紹介がだいぶ長くなってしまったので、2002年々初から春にかけてのやりとりは次回にまわすことにさせていただく。

(注11969年全米12位のヒット「More Today Than Yesterday」を持つThe Spiral Staircaseのリード・ヴォーカリスト兼ソング・ライター。
(注2)『林哲司ソングブック~Hit&Rare Track~』『林哲司ヴォーカル・コレクション~ナイン・ストーリーズ~』『林哲司ヴォーカル・コレクション~タイム・フライズ~』『林哲司サウンドトラックス~Movie&TV Tracks~』の4作品。
(注3)出身は富士市、鈴木は清水市(現:静岡市清水区)。

(注41999124J1チャンピオン・シップ第2戦(清水vs磐田)を日本平スタジアムで観戦。林さんは「清水エスパルス」の公式応援歌「王者の旗」の作曲者。

(注5香川県丸亀市に1991開業したテーマ・パーク。私は無期限休園(20009月)に入る直前に来園。なお、この施設は2004年に「ニューレオマワールド」として再開。

(注6「天国に~」は林さんの初1位獲得曲。「入り江にて」は1979年『SUPER DRIVE』(24丁目バンド参加の「マイ・レディー」別ヴァージョン収録)への提供曲。

(注71983年オメガトライブでのデビューからソロとなった1990年までVap、その後Warnerに移籍。20017月にVapへ復帰し(第17作)『ZAMPA』を発表。

(注820018月発表の第9作(復帰4作)『Bon Appetit !』。

(注9フジパシフィック音楽出版社長(当時;現代表取締役会長)。Jigsawへ林哲司作の「If I Have To Go Away」を売込。この曲は全米93位、全英36位のヒットを記録。

(注10)『ハチ公物語』(1987年松竹富士)、『遠き落日』(1992年松竹)、『大統領のクリスマスツリー』(1996年松竹)など。特に1996年作の音楽を絶賛されている。

(注112000年フジ系で放送された今井美樹主演のテレビ・ドラマ『ブランド』。

(注12GSアウトキャスト~The Loveのメンバー。1975年「トライアングル・プロダクション」を設立し、プロデューサーとして、角松敏生、杉山清貴&オメガトライブ、菊地桃子を輩出。20091011日没。

(注13Tinker Bell/松田聖子』(1984年第9作)への提供曲。

20185152000

桶田知道:『秉燭譚』(考槃堂商店/ KHDR-001)

$
0
0





















昨年5月に『丁酉目録』をリリースし、その後ソロ・アーティストに転じた桶田知道が、1年というインターバルでセカンド・アルバム『秉燭譚(ヘイショクタン)』を5月23日にリリースする。
 最早元ウワノソラという経歴は要らないかも知れないが、彼のサウンド・スタイルは多くの著名人をも虜にしている。最近約7年ぶりにニュー・アルバムをリリースしたTHE BEATNIKSで高橋幸宏氏とタッグを組む鈴木慶一氏(ムーンライダーズのリーダーとしても知られる)や、筆者と交流がある漫画家でイラストレーターとしても高名な江口寿史氏など音に拘りを持つクリエイターからも評価が高いのだ。
また昨年ソロ・アーティストとして独り立ちしたのを機に、自ら立ち上げたレーベル、“考槃堂商店”からの第一弾リリースという記念碑的作品となるので彼自身も感慨深いだろう。

   
 アルバムに先行して3月23日にはリード・トラックの「トラッカーズ・ハイ」のMVを公開し、mp3音源を無料配信して多くの音楽通を唸らせ、期待は高まるばかりだった。
前作『丁酉目録』より明らかに進化したサウンドの緻密さと詩情溢れる歌詞の世界観の融合は、やはり唯一無二の存在であることは間違いない。
また本作での新たな特徴としては、ソングライティングのパートナーとして桶田の友人である岩本孝太が加わったことだろう。彼は全10曲中8曲で作詞を手掛けているが、これが作詞家デビューとは思えない言葉のセレクトを持ち、スクリプト・ドクターとして本作には欠かせない存在となっている。
 
     
では本作の主な曲を紹介していこう。 
冒頭の「凄日(せいじつ)」は、木琴系シンセのミニマルなフレーズとフレットレス・ベースのラインが印象的なやや早いテンポの曲である。桶田自身の作詞で、古風な言葉選びがモザイクのように配置され前作『丁酉目録』からの世界観を踏襲している。
続く先行発表されたリード・トラックの「トラッカーズ・ハイ」は、循環コード・テクノの傑作として聴けば聴き込むほど耳に残る曲調とサウンドである。この曲に限らずだが、彼をはじめウワノソラの角谷やLampの染谷と永井など筋金入りの音楽通が作る曲は、リード・ヴォーカルの主旋律に対する間奏部の旋律、またオブリガートが非常に巧みに構築されていて、聴き終えた後のサブリミナル効果が高く、リピートさせる中毒性がある。
ともあれ江口寿史氏も絶賛したこの曲は本作を代表する1曲といえよう。

本作中筆者が最も好むのは、次の「逢いの唄」である。
4月初頭に本作のラフミックスが送られてきて、イントロもなくいきなり始まるこの曲の持つポテンシャルの高さに一聴して惚れ込んでしまったのだ。
岩本が描く刹那的青春のロマンティシズムな歌詞と、ハッシュ系ミッド・テンポのリズム・トラックのグルーヴが渾然一体となった美しさがここにある。
本当に多くを語りたくないが、今年のベストソングの第一候補と称すれば分かってもらえるだろう。

本作中盤となるインストの「篝」から「コッペリア」の流れは、ポップスの範疇では収まらないプログレッシブ・ロック的展開が非常に面白い。アナログ系シンセのフレーズが印象的なスローなミニマル・リズムを持つ前者から一転、緊張感のあるストリングス系シンセの刻みと鮮烈な変拍子が特徴的な後者のドラマティックな構成には脱帽する。
この曲では岩本によるレトロなSFテイストの歌詞がジブリ・アニメにも通じる。この感覚は「高原のフラウ」にも言えるが、歌詞そのものが映画のスクリプト的広がりを持っているのだ。
 
   
終盤の「船は漕いでゆけ」は2ビートの軽快な曲調に、ティンパニーの響きやバンジョーのフレーズがプリティーで牧歌的なサウンドになっていて、XTCの『The Big Express』(84年)にも通じる英国感が楽しい。
そしてラストの「砂の城と薊の花」は8分を超える大作バラードで、ほぼオーケストレーションとスネア・ロールのみをバックに歌われる。
映画的視覚を持つ歌詞とサウンドを誇る本作のエンドロールに相応しい感動的な曲と言えよう。  

なお本作は自主製作盤というスタイルのため扱う店舗も限られるが、桶田が主宰する“考槃堂商店”のオンラインストアでは予約を始めており、早い購入者には既に発送されているという。
筆者のレビューを読んで興味をもった音楽ファンは、是非入手して聴いて欲しい。

【考槃堂商店】特設ページ:https://www.kouhando.com/heisyokutan

 

(ウチタカヒデ)

追悼 西城秀樹

$
0
0

去る2018516日に1970年代一世を風靡したビッグ・スター西城秀樹さん(以下、ヒデキ)が急性心不全で亡くなった。その報道は「NHKニュース」や「報道ステーション」でもトップ扱いで、また号外が発行されるなど、ビッグ・ニュースとして日本中を駆け巡り、あらためて彼の存在の大きさが立証されている。なお彼は私と同年齢の63歳だった。



 実は私がこのWeb.VANDAへの投稿要請を受けたのには少なからず彼と縁がある。というのも、VANDA30に寄稿した70年代アイドルのライヴ>はヒデキさんのパフォーマンスに触発されてまとめたものだ。それは彼が75年のツアーで歌うMy Eyes Adored You(邦題:瞳の面影)」に衝撃を受けたことがきっかけだった。この曲を取り上げた彼の選曲センスに興味を持ち、生前の佐野さんに話したところ、「鈴木さんしかできないテーマだから、絶対にやってみるべき!」と興味を持ってくれたので、勢い任せで始めたコラムだった


現在Web.VANDAでは「佐野邦彦氏との回想録」を投稿しているが、これを済ませた後にはこのコラム完全なものに再構築してまとめる準備をしています。そこで今回はその予告とヒデキさんの追悼を兼ねて、彼が残したライヴ・アルバムを簡単に振り返ってみたいと思います。

ちなみに彼は1972年<恋する季節>でデビューし、同年に『ワイルドな17歳』でアルバム・デビュー、そして翌年には初ライヴ・アルバム『西城秀樹オン・ステージ』を発表している。以後、1985年までほぼ毎年(1982年除く)トータル15作のライヴ・アルバムをリリースしている。このコラムはその中で、1970年代にリリースした(ミュージカル除)10作について検証をしている。


今回はこの10作の中で、長年愛聴している1975『ヒデキ・オン・ツアー』、1978年『バレンタインコンサート・スペシャル/西條秀樹愛を歌う』、1979BIG GAME’79 HIDEKI』の3作を紹介する。なお曲の後の()内はオリジナル・タイトルと、オリジナル(とカヴァー)・アーティストと発表年になっている。


『ヒデキ・オン・ツアー』(1975.9.25.) <JRX-8017-18
①オープニング、②ブロー・アップ・マン、③愛を求めて、④恋の暴走、⑤Get Dancing(ディスコ・テック&セックス・オー・レターズ1974)、⑥瞳の面影(My Eyes Adored You)(フランキー・ヴァリ:1976)⑦港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ(ダウン・タウン・ブギウギ・バンド:1975)、⑧激しい恋⑨ケニーのバンプ(The Bump)(ケニー:1975)、⑩青春に賭けよう、⑪情熱の嵐、⑫ダイアナ(ポール・アンカ:1959)、⑬Blue Suede Shoes(カール・パーキンス:1961)、⑭朝日のあたる家(The House of The Rising Sun)(ボブ・ディラン:1962/アニマルズ:1965/フリジド・ピンク:1971/ジョーディー:1973)、⑮S.O.S.(エアロスミス:1974)、⑯Heartbreaker(グランド・ファンク・レイルロード:1971)、⑰この愛のときめき、⑱傷だらけのローラ(フランス語)、⑲この愛の終るとき(Comme Si Je Devais Mourir Demain)(ジョニー・アリディ:1972)、⑳明日への愛〜グッド・バイ・ガールズ

1975年に敢行されたヒデキ初の全国縦断コンサートを収録。演奏はふじ丸バンド(後のShogun)とザ・ダーツ、編曲は惣領泰則が担当している。
ハイライトは、吉野藤丸とのデュエットで歌い上げる②だ。個人的見解だがこの曲は⑤とソングライターが共通(注1)というところからのチョイスかもしれない。
さらにファンをステージに上げダンス大会⑨、続くヒデキのライヴ定番⑩ではそのステージ上のファンと会場内の大合唱で一体感が伝わってくる。そしてジョーディーに触発されたとおぼしき⑮、ほとばしるエネルギーが発散するエアロスミスの初期ナンバー⑮のチョイスはいかにも彼らしい。
ちなみにこのライヴは『BLOW UP! HIDEKI~ヒデキ・オン・ツアー』としてテレビ放映され、後にビデオも発売されている。


『バレンタインコンサート・スペシャル/西條秀樹愛を歌う』(1978.6.25.<RVL-2053-4>
①オーバーチュア、②マイ・ファニー・バレンタイン(1937/ジュディー・ガーランド:1939/フランク・シナトラ:1945/チェット・ベイカー:1954)、③夜のストレンジャー(フランク・シナトラ:1966/ベット・ミドラー:1973)、④カタログ、⑤ロマンス(ナレーション)、⑥ラストシーン、⑦この愛のときめき⑧ナタリー(Umberto Balsamo1975)、⑨愛は限りなく(Dio Come Ti Amo)(ドメニコ・モドゥーニョとジリオラ・チンクエッティ;1965⑩ユー・キープ・ミー・ハンギン・オン(ダイアナ・ロス&ザ・シュープリームス:1967/ヴァニラ・ファッジ:1968)、⑪心のラヴ・ソング(Silly Love Song)(ポール・マッカートニー&ザ・ウィングス:1976)、⑫ヘイ・ジュテーム(Mon Cinema(アダモ:1969) ⑬ブーツをぬいで朝食を、⑭青春に賭けよう、⑮君よ抱かれて熱くなれ、⑯傷だらけのローラ、⑰セイル・アウェイ(ランディ・ニューマン:1971)、⑱若き獅子たち、⑲お休み(井上陽水:1973

1978214日「新日本フィルハーモニー」初共演の日比谷公会堂でのライヴ。夏の野外コンサートから一転し、オーケストラをバックに渋めのレパートリーで固められているところに注目したい。
それを象徴するのがシナトラのスタンダードをべッド・ミドラ風(注2にアレンジした③、フルオーケストラでよりに洗練されたナンバーに仕上げている。またシュープリームスのテイクをベースにした⑩は、もしこの年にロッド・スチュワートが発表する新作(注3)収録のカヴァーを聴いていたとしたら、彼がどのように仕上げたのか気になるところだ。また⑰のような渋いチョイスにも好感が持てる。
こんな贅沢なライヴの中でファンとの一体感を強く感じさせてくれるのは、やはりファンの大合唱が始まる⑭だろう。補足ながら、この曲は後にアカペラでも録音されるヒデキのお気に入りで、彼のライヴには欠く事の出来ないナンバーだ。


BIG GAME’79 HIDEKI』(1979.10.9.)<RVL-2077-8
①オープニング、②ウィー・ウィル・ロック・ユー(クイーン:1976)、③ラヴィング・ユー・ベイビー(I Was Made for Lovin' You)(キッス:1978)、④オネスティ(ビリー・ジョエル:1976)、⑤ホット・スタッフ(ドナ・サマー:1978)、⑥いとしのエリー(サザンオールスターズ:1978)、⑦ブルースカイブルー、⑧ドント・ストップ・ミー・ナウ(クイーン:1976)、⑨エピタフ(キング・クリムゾン:1971)、⑩シェイク・ユア・ハンド(I Wanna Shake Your Hand)(ヴィレッジ・ピープル:1979)、⑪ゴー・ウエスト(ヴィレッジ・ピープル:1978)、⑫愛する君に(I'll Supply The Love)(トト:1979)、⑬勇気があれば、⑭ホップ・ステップ・ジャンプ、⑮この愛の終る時(Comme si je devais mourir demain)(ジョニー・アルディ:1972)、⑯ヤングマン(Y.M.C.A.)、⑰セイリング

⑯が空前の大ヒット直後1979824日に開催された後楽園球場コンサート。当日は1971年に開催された風雨のGFRコンサート再現のような悪天候で、収録不能でスタジオ録音と差し替え(⑦⑬)もあるほどだった。
ここではヴィレッジ・ピープルの曲が3曲もチョイスされ、⑪は人形劇「飛べ!孫悟空」(注4の挿入歌でなければ、シングルにしても良いほどの出来ばえだ。ディスコ・ヒット③⑤はありがちな選曲だが、最新曲⑫のチョイスは流行に敏感な彼らしい選曲だ。
さらにここでの最大の聴きどころは雷鳴が効果的なSEとなって響き渡る中で歌うプログレの名曲⑨。そこにはヒデキらしい情念に満ちた幻想的な世界が感じられる。


 以後1985年までコンスタントに充実したライヴ・アルバムを発表しているが残念ながら、その膨大なリリース数のゆえ、コンプリートのCD化が遅れている。なおこの中で完璧な形でCD化されているのは、BIG GAME’79 HIDEKI』(1990RCA CD名盤選書/BVCK-380245>)のみで、その他には1999年に発売された6枚組 CDボックスとして、デビューから1985年までにリリースされたライヴ・アルバムのセレクション集があるにすぎない。
 今回の逝去により、ヒデキ関連のアイテムにオーダーが舞い込んでいるようだが、ライヴ・アルバムについては相変わらず置き去りにされたままだ。近年は岩崎宏美や桜田淳子など1970年代アイドルのライヴ・アルバムがオリジナルな形での復刻が進んでいる。この機会にヒデキのリアルな姿を体感できるライヴ・アルバムのコンプリートな形での復刻を願って止まない。

(注1)フォーシーズンズのプロデューサー、ボブ・クリューと1977年の全米1位「I Like Dreamin’」のヒットを持つケニー・ノーラン作。
(注21976年にベット・ドラーがサード・アルバム『ベット・ミドラー3Songs for the New Depression)』に収録したディスコ・ヴァージョン。
(注31978年のソロ第8作『明日へのキック・オフ(Foot Loose And Fancy Free)』。
(注4197779年に放送されたテレビ人形劇。声優はザ・ドリフターズで、主題歌「スーパーモンキー孫悟空」はピンク・レディーが歌っていた。
201853016


佐野邦彦氏との回想録14・鈴木英之

$
0
0


2001年末に『林哲司全仕事』の作業が終了後、「28」への掲載内容について佐野さんへ連絡することになっていた。そこでポップスを聴きはじめた頃からのファンだった「Bread」と「America」を挙げた。この2グループは日本でも根強い人気がありながら、これまできっちりとまとめられた特集が組まれたことがなかった。彼も「リアルタイマーの視点で是非やるべき」と言ってくれたので、自分の体験をベースにとことん追求してみることにした。




そんなやる気満々で取り掛かろうとしていた折、松生さんから連絡が入った。内容は作詞家・精神科医の北山修さん監修で『POP HEALING MUSIC~ポップスでリラクゼーション』をまとめているので、そこに掲載する<ディスク・コレクション>を頼まれた。それは佐野さんにも入っていたので、お互いの得意分野を優先してダブらないように各自2030枚程度まとめた。その後、この本が発売された20021月に、京都で北山さん主催する「言葉の力」コンサートがあり、松生さんと音友の木村さんがかけつけている。その当日、私はそのコンサートの打ち上げに呼び出され、京都まで出向いた。会場には北山さんはじめ、杉田次郎さんなど当日の出演者も参加されていた。私は単なる飛び入りだったので隅でおとなしくしていたが、主賓の北山さんの配慮でとても楽しい場を共有させていただいた。

  こんな寄り道をしてしまったので、佐野さんから指定された2月の締め切りは厳しくなってしまった。慌てて佐野さんに連絡をとると、今回の事情を理解してくれ、「6月発売なので、3月いっぱいにはお願いします」ということになった。ただ、K君が希望していた「Edger Winter」は私経由となるので、「2月中に」とくぎを刺されてしまった。とはいえ、このコラムはEdger大ファンであるK君が傑作ソロ『Jasmin Nightdreams(ジャスミンの香り)』を力説したいというものだったので、こちらが請求する前に、即原稿を送ってくれた。

 このように心配事がすんなり片付き、まずBreadに取り掛かった。一般にはDavid Gatesをメインに語られており、軽視されがちなGemes Griffinも対等に扱い、加えて優れたプレーヤーであるMike BottsLarry Knecktelにもきっちりとスポットを当てられるよう資料集めに奔走した。ただ絶対に書きたかったのは、あまり知られていない、サード『Manna(神の糧)』の初回観音開きジャケ(CD化でも紙ジャケは未発売)の紹介だった。

またElectraレーベルのEPは「幼虫」LPは「アゲハ蝶」がプリントされていた仕様にも触れておきたかった。ちなみにこの仕様はいつごろからスタートしたかは定かでないが、1970年頃からは採用されていたようだった。ただ日本では当時の発売元Victor時代は(1972年まで)、「ギターおじさん」のブルー・レーベルで、配給元がPionnerに移動した1973年以降米国にあわせて採用となっている。




そして、彼らのセカンド・ヒット「It’s Don’t Matter To Me」はVictorでの邦題は「関係ないね」だったが、Pionnerに移って「気にしないで」にチェンジしている。まともに研究をされている方からすればどうでもいい話題かもしれないが、このこだわりが自分らしいという想いで一気にまとめた。この「新発見」については佐野さんも「その観察力は鈴木さんらしいね」と評してくれた。

ところでこのコラムを発表後、VANDA読者のとあるブレッド・ファンがH.P.を開設(注1)されている。ある時に彼から「鈴木さんの記事を読んで、立ち上げを決意した」と伺い、やって良かったと実感した。そして彼とはしばらく交流を持ち、1996年に発売されたコンプリート・ベスト『Retrospective』は極東を含むワールド・ツアーにあわせたものだと聞いた。ちなみにこのツアーには日本公演の予定があったらしいが見送りとなり、公演のあった台湾まで遠征したファンもいたという事だった。

その後、200610月に私が近隣のコミュニティFMBread特集(80分前後)組んだ際に、ファン代表として電話インタビューに登場していただいた。補足ながら、番組での彼からのリクエストは「Don’t Tell Me No」(『The Guiter Man』収録)だった。なおこのプログラムは企画・構成・音源調達・DJまで全て私一人で担当したもので、限られたエリアでしか受信できなかった。にもかかわらず、聴取者から大きな反響をよび、放送したFM局自体が評判となったと聞き、誇らしい気分を味わった。
そしてAmericaに移るが、彼等は日本でレコード発売前からその存在を知っており、また「Musrat Love」などではBreadにも通じる雰囲気があり今回まとめるのがベストだと思っていた。また全盛期の1976年武道館公演、それにDan Peek脱退後二人組となった1994年の再来日の大阪公演も見ているので、その軌跡をまとめながら感慨深いものが込み上げてきた。なお1976年の公演ではGerry Beckleyが観客席にOvationのギターを投げ込んでいる。私はその奪い合いになっていたギターの至近距離にいたので、ずっと残念な思いでいたが、今回終演後スタッフが回収に来たという話を聞き、興醒めしてしまった。

 さらに1980年中ごろから新作が途絶えた時期の話題では、Janet Jacksonが彼らのお気に入りであることを強調しておきたかった。それは「Someone To Call My Lover」(注2)は「Ventura Highway」をサンプリングしていることは有名だが、「Let's Wait Awhile(急がせないで)」(注3)も「Daisy Jane」によく似たフレーズが使用されている事実からも伺える。またこのコラムをまとめるにあたり、当時しっかり聴けていなかったDan Peekのソロも、K君を通じその音源が入手出来、自分ながら満足いく仕上りになった気がする。

 ちなみにこのAmericaBread同様、コミュニティFM20072月に特集番組を放送している。勿論このプログラムもVANDAに掲載した内容をベースに企画したもので、この特集ではJanet Jacksonとの関連に興味を持たれた方が多かった。




このような経過を経て「28」に寄稿するコラムは、約束の期日を半月ほど経過した414日にやっと完成にこぎつけた。何故、遅延常習犯の私が、鬼のような催促請求を逃れたかといえば、この時期の佐野さんは、Radio VANDA初の公開録音ひかえBrandin(注4)での収録作業準備で、余裕がなかったからだった。ちなみにこの収録は、ゲストに浅田洋さん、濱田高志を迎えた1回を2002310日、ゲストに佐々木雄三さん、宮治淳一を迎えた2回が2002419日に放送されている。
次回は、「29」発行までの経緯と、佐野さんが数年に渡ってすすめていた企画「Soft Rock A To Z」の大改訂版(仮題は「Soft Rock A To Z 2002」)、それに最終的に棚上げとなってしまった「リスナーのための音楽用語辞典」のやりとりなど、曲折の日々について紹介する予定だ

(注1)福岡在住のN氏による、H.P.Sound Of Bread”。
(注22001年の第8作『All For You』収録曲。アルバムから2枚目(通算44作)のシングルで全米3位、R&B.15位。全英でも11位を記録。
(注31996年のサード『Control』収録曲。アルバムから5枚目(通算15作)のシングルで全米2位、R&B.1位。全英でも2位を記録。
(注4)茅ヶ崎辻堂にあるGood Musicを楽しむ音楽カフェ。オーナーはVANDAでもお馴染みの宮治淳一氏。

フレスプ「あなたに会えたら」

$
0
0
















フレスプは、石上嵩大(いしがみ たかひろ)による宅録ソロ・ユニット「Friendly Spoon」を母体にして今年正式結成されたばかりのバンドである。
Friendly Spoonは13年に7インチ・アナログ盤『夢の風船旅行』を自主制作で発表後、翌年にはファースト・アルバム『フレスプのファースト・アルバム』(14年)をウルトラ・ヴァイヴよりリリースしている。その後石上は音楽活動から一時離れていたが、フレスプとしてその活動を再開させた。
バンド・メンバーには、石上がかつて在籍したポップス・バンド「マンタ・レイ・バレエ」の同僚で、スカートのサポート・ベーシストとしても知られる清水瑶志郎、また「ポートレイツ」のドラマーでその他アーティストのサポートも多い井上拓己が参加している。
そしてヴォーカルにはFriendly Spoonにも参加し、十代の頃から地下アイドルとして活動している、姫乃たまが加わってバンドに花を添えている。因みに姫乃の父親は80年代中期にデビューした「ASYLUM」という伝説のロックバンドのメンバーらしく、才能のDNAは確実に引き継がれているのだろう。

フレスプとして初音源となるのが、今年5月に自主制作で発表した3曲入りシングルで、音源はDLコード付きの「巾着」というユニークな形態でリリースされた。
先日某SNSを通じて石上よりコンタクトがあり、筆者に音源が送られてきたので聴いてみたという訳だ。
収録されているのは、「未来予測」、「あなたに会えたら」、「水たまり」の3曲で、リードトラックと思しき「未来予測」はトニー・マコウレイのソングライティングにも通じるソフトサイケ感が漂うポップスで悪くない。アコースティック・ギターのみをバックに歌う「水たまり」は、姫乃のコケティッシュさがファンを魅了するだろう。
 
   
 
そんな中、筆者が初めて耳にした瞬間から最も注目したが、「あなたに会えたら」である。
エバーグリーンと表するのは簡単であるが、シャッフルのリズムで進行する無垢なメロディに、牧歌的なオブリガートと対位法のモダンなリフが有機的に絡むサウンドに、少女性のある姫乃の歌声との相乗効果で、WebVANDA読者をはじめとするソフトロック・ファンが惹かれるのは間違いない。
過去筆者が高評価したroly poly rag bear(ローリーポリーラグベア)の「The Melody Goes On」(『ryan's favorite』収録 03年)を彷彿とさせる、懐かしくもあり、誰もが惹かれるサムシングな魅力が慈愛に満ちた歌詞の世界にも投影しているのだ。

興味をもあったソフトロック・ファンは、石上が主宰するレーベル「フレンドリー工房」のサイトか、ライブ会場の物販で手にして欲しい。
フレンドリー工房・直売所 http://friendlykobo.theshop.jp/items/11550641 

 (ウチタカヒデ)

 

Graduation Day 〜 When I grow up

$
0
0
今月(6月20日)はBrianの誕生日だ。
同時に今月はアメリカでは卒業シーズンに当たり、毎年9月から新学期が始まるのが常となっている、そのためか、9月にちなんだ歌も多い。
ご多分に漏れずBrianも卒業式を迎えており日付は1960年6月16日、学生時代の終焉は同時に大きなキャリアの入口を意味し、卒業後同窓生のAlとの邂逅がThe Beach Boysの結成に繋がっていく。
BrianとAlが在籍していた高校はHawthorne High Schoolといい、愛称は近在が農業地帯であったことにちなむ-El Molino-”粉引き小屋”であった。
開校は1951年という新設校で、戦中からHawthorne地区周辺に米国空軍及び民間企業の研究開発が盛んになった背景があり、これを契機に雇用の拡大と労働者の流入が全国からあったために戦後人口増大で児童数が増えたことに起因する。同校出身者のミュージシャンは本誌おなじみChris Montez(Brianとは同窓生)に、こちらもおなじみEmitt Rhodesというソフトロック勢がいる。
AlとBrianの学生生活はどのようなものだったのか?それらは多くのインタビューで明らかだ、筆者の手元にある高校の卒業アルバムからも様々なことがうかがわれる。
 
 
The Beach Boysの伝記でよく語られる、Dennis以外はサーフィンをほとんど経験していない、だから彼らは音楽しか興味無い文系人間だった、というのは少々事実と異なるイメージ操作である。
事実AlとBrianに限れば、もちろんBrianは高校入学前より音楽に耽溺していたものの、二人ともスポーツを好み音楽を愛した文武両道であった。 Brianの音楽の成績はその後の活躍とは全く真逆の結果で、課題で提出した自身の曲に落第に等しいFの評価が与えられるほどであった。
画像の人物は音楽教師Frederick Morgan。
後にBrianの功績に応える形でHawthorne High SchoolによってFからAへ見直しがされることとなった。 
 
 
特にAlはフットボールが好きで学校のチームに参加すると頭角を現し代表チームにも選ばれている、Alの出場した試合には数十年後も名勝負と讃えられる試合もある。
 
 BrianもAlのフットボール仲間であったが実力差からか、トップチーム昇格までには至らず後に退団していた。その後もBrianは関心を音楽に向かいつつも野球や陸上チームに所属しスポーツを楽しんでいた。
 

 Alはフットボール仲間のうち、歌が好きな友人もいたので当時流行していたKingston Trioに触発されて友人とグループ結成を思い立った。
それに応じたのがBob BarrowとGary Winfreyだった。3人でThe Tikisと名乗りフォークソング主体の演奏を得意とした、レパートリーの中にはThe Beach BoysがカバーしたSloop John Bの原曲The Wreck Of John B.も含まれていた。またメンバーのGary Winfreyは卒業後Alとは交流が少なくなるが60年代後半再会後は2人で曲作りをしていた時期もあり、そのうち2曲Take A Load Off Your FeetとLooking At TomorrowはアルバムSurf’s Upに収録されている。
Brianも音楽活動をスポーツと並行して開始しており、主に学内の集会やイベントでKingston TrioやR&Bのカバーをグループで披露していた。メンバーは固定しておらず後年発見された音源からはMike Loveの関与も確認されていてR&BのローカルヒットDelroysのよるBermuda Shortsの歌唱が聴くことができる。
当時のメンバーはCarlやDennisの参加はまだなく、同級生などが多かったようである。他の校内イベントでは替え歌として当時のR&Bヒット曲The OlympicsによるHully Gullyを歌っている。 (Carlが出演を出し渋り引っ張り出すためにつけたグループ名がCarl & the Passionsと伝わっている) 
この曲はご存知の通り、のちにThe Beach Boys Partyでもカバーされている。その他に卒業アルバムにも写真が残されているグループがありThe Kingston Quartetと名乗り読んで字のごとくKingston Trioの曲をレパートリーとし学内のイベントのみ活動している。メンバーは上記のThe Tikisの一部とBrianのスポーツ仲間から構成されていて、すでにBrianが高音を受け持つ四声ハーモニーが確立されていた。
メンバーの抱えるエレキギターはCarlからの借り物KayのSwingmasterであった。Kayはエレキギターメーカーの草分けであったが、その当時は他のメーカーに押され購買層はプロよりは廉価なものを求めるファミリー層が多かったようである。このギターもCarlの誕生日に父Murryから贈られたものとのこと。
 
 学内イベントでは有名人のコンサートも開催され、当時人気だったFour Prepsの画像も残されている。彼等はBrianも憧れるFour Freshmenスタイルのモダンなハーモニーを加えたポップスを得意としておりオリジナル曲や在籍がCapitolということで当時のBrianに何がしかの影響を与えたと言って間違いないだろう。
  
 Four Freshmenのハーモニーの話になるので時間を2年前に戻させていただく、その当時のBrianの誕生日プレゼントはWollensak1500と言うテープレコーダーであった。
 
 このプレゼントによって兄弟、時には家族でFour Freshmenのハーモニーなどを録音することで更に研究が深まることとなった。
父Murryの作曲活動は継続していたが、1950年代中盤移行のリリースは途絶えていた、本業が海外メーカーとの付き合いも増え多忙だったこともあったが、息子Brianの才能の伸長に寄与する何がしかの援助を考え始めた形跡が伺える。
16歳の誕生日より更に数ヶ月さかのぼった頃、Murryへ旧知のHite Morganから連絡があった知人がレーベルを立ち上げるのでリリース予定のシングルのリードボーカルを募集しているとのことだった。
レーベルオーナーはArt Laboeという人物でCalifornia各地のラジオ局で人気DJとして活躍しており、同時にレーベル事業を企図していた。リリース第一弾の楽曲は既に決定し、作曲者はBruce Morgan、Hite Morganの息子であり曲名はChapel Of Love。(後年ヒットしたDixie Cupsの曲とは同名異曲)
曲調はコーラスを交えたR&Bタイプの曲でコーラスパートは周辺で活躍していたいくつかのコーラスグループから集められた。 一部はLos Angeles周辺で活躍するThe JaguarsというコーラスグループでR&Bかつポップス寄りの曲想を得意とし、メンバーも様々な人種が集まっていた。ローカルヒットではあるがスタンダード曲のカバーThe Way You Look Tonightは好評を博していた。(後年同曲はThe LettermenでナショナルヒットとなりリリースはCapitolでプロデューサーはThe Beach Boysも関わったNck Venet) 
彼等のリリースしたシングルの中でDon't Go Home(R-Dell 117 1960年)はSurfer Girlを思わせる曲想でユニークだ。 またその他のグループではThe CalvanesがありLos Angeles周辺で活躍し大手のDootoneからも作品をリリースするも新作の機会がなく不遇を囲っていた。 彼等がユニークなのはHi-LosやThe Four Freshmenに代表されるテンションコードを含むモダンハーモニーを得意としていた点である。新作の機会を求めてHite Morganとも接触が増え幾つかのデモを当時のMorgan家のリビング兼スタジオで録音しており、未発表ではあるがThe Four Freshmenスタイルの曲 Lavenderを録音していることが判明している。
The Beach Boysファンならお気づきと思われるが彼等のデビュー前音源に収録されているLavenderと同じ曲でBrianへ某かの影響を与えていると思われる。
 話を再びBrianに戻そう、オーディションは予定通り行われたものの、残念ながらBrianのボーカル採用は決定しなかった。後に他のボーカルを加えてThe Hitmakersの名前でOriginal Soundというレーベルからデビューとなるも、グループ名の様にヒット曲に結びつくナショナルチャートに入ることはなかった。アルトの伸びやかなボーカルと深いコーラスが一体となり豊かなハーモニーが感じられる作品である、Brianがもし歌っていたらどうなったか?と思いを馳せる一曲である。Art Laboe自身も後にBrianを採用しなかったことを後悔していたという。
Original Soundはその後いくつもリリースを続け、Sandy Nelson、Preston Epps、Music Machineなどによる多くのヒット曲が生まれた、DJ出身であったArt Laboeは当時珍しかった。 ライブ方式のDJの経験からヒット中の人気曲以外にも過去の曲もリクエスト需要が多いことに気がつき、ある日Oldies But Goodiesという言葉を思いついた、それをそのままタイトルにして、過去の様々な曲を集めたコンピレーションアルバムをリリースしロングセラーとなる。
なんとArt Laboeは存命で90歳を過ぎてもラジオDJを続けているそうだ。
 


 また、後にMorgan家の所有するDeckというレーベルからBobby Williams名でChapel Of Loveはリリースされている。Original Sound盤と同じバックトラックを使い回転数を変えて録音したようだ。
 
 
The HitmakersのメンバーVal Poliutoによれば、「Art Laboeのオーディションは事前のリハーサルがあり、The CalvanesやThe Jaguarsメンバーと共にBrianとMorgan家によく出入りして制作現場やコーラスワークを学びその後もBrianと交流があった」と回想している。が、それらを裏付ける事象の確認はされていない。
1962年2月8日に行われたSurfin' Safariを含む数曲のセッションシートにはリーダーはBrian、他にDennisの名前が記載されているが、何故かAlの名前は手書きで二重線が引かれ下の欄にはVal Poliutoの名前が記載されている。さらにThe Beach Boysの所属がMorgan家所有のDeck Recordとなっているのが確認できる。
  (text by-MaskedFlopper- / 編集:ウチタカヒデ)

ウワノソラ:『陽だまり』アナログ盤(Kissing Fish Records/KMKN13)

$
0
0

ウワノソラが昨年10月にリリースしたセカンド・アルバム、『陽だまり』をアナログ盤2枚組で7月4日 にリリースする。
彼等のファンならご存じのように昨年7月末日をもってメンバーの桶田知道がバンドを脱退しソロに転向したため、角谷博栄といえもとめぐみの2人となり、ウワノソラとしてその活動が第二章に入った。



このアルバムは、そんな転換期を象徴するアルバムであり、プロデュースからアレンジまでを担当する角谷のカラーが一層強くなったといえる。
本作では2人のサイド・プロジェクトであったウワノソラ'67の『Portrait in Rock'n'Roll』(15年)で展開されたソフトロック的エッセンスがフィードバックされている曲も聴かれたが、ファースト・アルバムをより洗練させたサウンドに耳を奪われた。今回アナログ盤としてリリースされたことで、そのサウンドの細部までを聴き込んでほしいばかりだ。 
 
 
収録曲については昨年の筆者のレビューを一読して頂くとして、ここでは初回特典CD-R収録のレア音源について解説しておく。
「午睡-Prelude-」は、アルバム冒頭の「陽だまり-Prelude-」のアレンジ違いで、ハープとコーラス類がオミットされており、代わりに深町仰によるシンセサイザーのアルペジオがアクセントになっている。またストリングスには新たにチェロを加えてレコーディングしており、角谷曰く「午後の眠りに入っていくような世界を表現できたように感じている」とのことだ。
続く「プールサイドにて (いえもとめぐみ Demo vocal version)」はタイトル通り、いえもとによるデモ・ヴォーカル・ヴァージョンで、バッキング・トラックとコーラス(いえもと自身による)はオリジナルと同じだが、女性のいえもとがヴォーカルを取ることで新鮮に聴ける。ヴォーカリストが変わるだけで、渋めのブルーアイド・ソウルから垢抜けたシティポップにパラダイムシフトしていて面白い。 

「鳥になったようだ (Another take version)」は同曲のアウトテイクで、オリジナルでは宮脇翔平が弾くアコースティック・ピアノが印象的だったが、ここでは鍵盤がウーリツァ-とヤマハのCP-80にシフトされていて印象が異なる。Lampの最新作『彼女の時計』にも通じるサウンドであるが、いえもとのヴォーカルとの相性という点でアコピのヴァージョンが採用されたのだろう。その他オリジナル・トラックからは角谷のギターと深町のアナログ・シンセがオミットされている。


     
「夏の客船 (Off vocal version)」と「渚まで (Off Vocal version )」は所謂カラオケで、ヴォーカル・トラックがない分曲そのもののサウンドを堪能できるだろう。前者は70年代シカゴ・ソウル経由のAOR、後者はミナス・サウンドが色濃いヴァースとフックに60年代ウエストコースト・サウンド的なブリッジが顔を見せている。これら角谷によるリズム楽器の配置とストリングス・アレンジがどのような効果を生んでいるのか聴き込んでほしい。

なおこの特典CD-Rは数量限定であり、彼等のオフィシャルサイト・ショップかユニオンなど一部店舗でのみ扱いとなるので、興味を持ったファンは早期に本作アナログ盤を予約し合わせて入手することを勧める。

ウワノソラ・オンラインストア・リンク 

(ウチタカヒデ)


 

1970年代アイドルのライヴ・アルバム(西條秀樹編・Part-1)

$
0
0


 先日投稿した西城秀樹さん(以下、ヒデキ)の追悼記事が多くの反響をいただいき、「あ行」からスタートする予定だった「洋楽はアイドルが教えてくれた~1970年代アイドルのライヴ・アルバム」を、彼からスタートすることにした。前回と重複する記述もあるが、最初に改めて彼の軌跡を振りかえってから検証に進みたい。

ちなみに私自身、新御三家についてはオリジナル・アルバムを含め、当時からかなりコアに聴きこんでいたが、生のステージに接したのはヒデキだけだった。その詳細は、<ギャランドゥ>発表時に2回、私の著書『よみがえれ!昭和40年代』でお世話になった江木俊夫さんが司会をされていた御縁で「同窓会コンサート」に2回と計4回足を運んでいる。この中で印象的だったのは、最後に見た20121210日の中野サンプラザ公演だ。このツアーでの彼のセット・リストは体調の関係で「バラード2+ヤングマン」が基本だったが、この日は<ギャランドゥ>を披露してくれた。ただ、その好意が裏目に出てラストの<ヤングマン>が歌えなくなってしまった。それほど体調が不安定なのにもかかわらず、ファン・サーヴィスに徹していた姿に感銘を受けた。


さて彼の逝去以来、テレビや新聞報道で多くが発信されているが、ここでは私の実体験に基づき彼の歩みを時代背景と併せて伝えていく。まずヒデキの音楽歴といえば幼少からドラムふれ、小学5年生でギター弾きの兄とバンド活動を始め、当時地元ではかなり話題となっており、あの吉田拓郎とも接点を持っていたといわれる。高校時代に芸能プロダクションにスカウトされて上京、そして1972年に「ワイルドな17歳」のキャッチフレーズのもと<恋する季節>(42位;5.8万枚)で歌手デビューを果たす。その後、<恋の約束>(18位;14万枚)<チャンスは一度>(20位;9.9万枚)<青春に賭けよう>(16位;12.1万枚)と着実にヒットを重ねた。とはいえこの時点では、同年デビューで『第14回日本レコード大賞新人賞』を受賞した郷ひろみ、この年の『第23NHK紅白歌合戦』に白組最年少で初出場した野口五郎とは知名度で大きく差をつけられていた。

しかし翌19736月発表の<情熱の嵐>がトップ10入り(6位;24.6万枚)、このステージでのコール&レスポンス(「君が望むなら(ヒデキー!!))は、以後彼には欠かせないお約束となり、続く<ちぎれた愛>は「新御三家」で初のチャート1位(47.5万枚)を獲得。11月には「ヒデキ、カ~ンゲキィ!!」のセリフでお馴染みとなる「ハウス・バーモント・カレー」のCMに起用されている。このCM効果で同商品は、日本のインスタント・カレー界のトップ・ブランド(注1)に君臨し、カレーが「日本の国民食」の定番化にも貢献した。余談ながら、このCM起用は12年にもおよび、降板後は「ジャワ・カレー」のイメージ・キャラクターに昇格している。補足ながらこのCMは今も好感度の高いトップ・アイドル(注2)に引き継がれている。

話はヒデキに戻るが、年末発表の<愛の十字架>が前作に続き連続1位(35.2万枚)を獲得し、ついにトップ・アイドルに躍進。これにより『第15回日本レコード大賞歌唱賞』受賞と実力も認められるも、残念ながら『第24NHK紅白歌合戦』は落選した。翌1974年になるとTBS『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演、小林亜星との派手な親子ゲンカが大評判となった。その乱闘シーンでは撮影中に腕を骨折(『寺内貫太郎一家2』)するなど、ヒデキらしいワイルドな話題も提供している。さらに、当時「少年マガジン」掲載の超人気マンガ『愛と誠』の映画化に際し、本人が直訴して映画初主演を果たし、俳優としても活動を広げた。

そして2月発売の<薔薇の鎖>(3位;33.4万枚)では、ロッド・スチュワートの『Every Picture Tells A Story』のジャケットに象徴されるスタンド・マイクを使ったアクションを披露。今や矢沢永吉のトレード・マークとなっているこのパフォーマンスだが、本邦初(注3)ではないものの日本中に知らしめたのはヒデキだと言っても過言ではないだろう。

この勢いに乗ったヒデキは、同年の夏に、日本初の野球場ワンマン・コンサート『ヒデキ・イン・スタジアム真夏の夜のコンサート』を大阪球場で開催(4)している。なお今の日本のコンサートで観客があたりまえに使っているペンライト、これはこの大阪球場ライヴ前日にラジオで、「みんなコンサートに懐中電灯持って来て!」と呼びかけたのがきっかけに普及した(注5)という説もあるほどだ。ちなみに、このスタジアムコンサートは1974年より1983年まで10年連続開催されている。なおこの公演では、クレーンを使用した宙づり「ゴンドラ」の中での歌唱、レーザー光線の本邦初導入(注6)による派手な仕掛けなど、ファンの度肝を抜く演出効果が盛り込まれ、現在のビッグ・コンサートの雛形になったとも言われている。

さらに続く<激しい恋>(2位;58.4万枚)でのダイナミックなアクション、<傷だらけのローラ>(2位;34万枚)で披露されたシャウト唱法で、ヒデキのスタイルは完全に印象付けられた。その知名度から同年から連載の始まった「がきデカ」(注7)にはヒデキがモデルと思わしき西城君なる人物が登場している。そして『第16回日本レコード大賞歌唱賞』ではポップス歌手として史上初の2年連続歌唱賞に輝き、遂に『第25NHK紅白歌合戦』にも初出場(注8)を果たした。

19752月には、初の海外進出作品として<傷だらけのローラ>のフランス語ヴァージョン<LOLA>がカナダ、フランス、スイス、ベルギーで発売され、カナダでは第2位にランクされるほどヒットした。なお、この曲で6月の『第4回東京音楽祭』国内大会に出場し、ゴールデン・スター賞を受賞。ちなみに、この音楽祭には1976年の<ジャガー>(3位;23.7万枚)、1978年の<炎>(5位;25.7万枚)、1984年<Do You Know>(30位;4.3万枚)でも世界大会に出場している。

またこの年には、彼のライヴにとって欠く事の出来ない人物が行動を共にするようになった。それはかまやつひろしに誘われて行った1974年のロッド・スチュワート&フェイセス来日公演で、前座に登場したジョー山中バンドのギタリスト吉野藤丸だ。そのライヴに接したヒデキは彼にアプローチをかけ、沢田研二の井上堯之バンドをイメージして藤丸BANDを結成させた。ちなみに彼等は「恋の暴走」(3位;34.1万枚)からバックを務め、7月に富士山麓での野外ステージからスタートした『全国縦断コンサート・ツアー』以降のライヴには常に帯同するようになった。ちなみにこの模様は10月にドキュメンタリー映画『ブロウアップ・ヒデキ(BLOW UP! HIDEKI)』(注9)として公開され、113日には日本人ソロ歌手としては初の日本武道館公演(注10)を行うまでの大ブレイクを果たした。

このように気のおけるメンバーとともに充実したライヴ活動をするようになったヒデキ、そのライヴのセット・リストにはそれまで以上に洋楽のカヴァーを連ねている。そもそも、私がこの連載を始めるきっかけとなったのは、フランキー・ヴァリの<瞳の面影(My Eyes Adored You)>を取り上げていたからというのは前の投稿で触れたとおりだ。そしてその集大成となったのが、彼の代表曲<YOUNG MAN(Y.M.C.A.)>(1979/1位;80.8万枚)で、当時の人気番組「ザ・ベスト・テン」では9週連続第1位ランク、同番組初で唯一の満点(9999点)獲得曲(2週)という偉業を達成したのは有名な話だ。なお、この曲での“Y”“M”“C”“A”4文字を全身で表現するボディ・アクションは一世を風靡し、あの「シェー」のごとく日本中に大ブームを巻き起こした。余談ながら、その猛威はパロディー曲(注11)まで登場するほどだった。補足になるが、この70年代後半には有名セッションマンを起用しての海外録音など意欲的なアルバム制作に注力する野口や郷(注12)に対し、彼は19781月に吉野をはじめとする国内の敏腕プレイヤーたちと組んで力作『ファースト・フライト』(注13を完成させている。

この大成功により、彼は洋楽のカヴァー・シングルをコンスタントにリリースするようになった。詳細は、1980年の<愛の園>(7位;23.8万枚/スティーヴィー・ワンダー『シークレット・ライフ(Journey through the Secret Life of Plants)』収録Ai No,Sono>)、1983年<ナイト・ゲーム>(19位;8.5万枚/グラハム・ボネット83年全英6位<Night Game(孤独のナイト・ゲーム)>)、1984年には郷ひろみと競作になった<抱きしめてジルバ>(18位;15.4万枚/ワム!の全米英1位<Careless Whisper>)、そして1985年にはバリー・マニロウからの提供曲<腕の中へ-In Search of Love-(10位;11.2万枚) を彼とデュエット、さらに1987年にもハワード・ヒューイット(元シャラマー)とジョージ・デュークの共作<New York Girl>をリリース(注14)している。

ここで話は後戻りになるが1981年の<セクシー・ガール>(10位:14.2万枚)で、発売シングルレコードの総売上枚数が1,000万枚を突破。同年には、香港で初のコンサートを開催し、その後もアジア各国でコンサートを行うなど人気はワールド・ワイドなものになっている。そして1985119日にはシングル盤50曲発売記念で、全シングルを披露する第12回日本武道館コンサート『’85HIDEKI Special in Budokan-for 50 songs-』を開催した。ここでこの50曲を振り返ると同時代に活躍した野口や郷にくらべ、筒美京平作曲作品が極端に少ない。1970年代を席巻した筒美ソングの時代に、他作家の曲で一世風靡したのは彼がシンガーとして際立った存在という証拠だろう。


1991年にはアニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマ<走れ正直者>(注15)を歌い、1990年代初のトップ20ヒット(17位;11.4万枚)とした。さらに511日にはデビュー20周年記念コンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT ’91 FRONTIER ROAD』(東京・厚生年金会館)を開催、同時期には早稲田大学で初の学園祭ライヴを実施している。当時のヒデキで思い出すのは、幼い長男が1992年の<ブーメランストレート>(注16)を聴いて右腕を振り回しているのを見て「存在が世代を超えている」と感じたことだ。また翌1993年には盟友野口五郎とNHK「ふたりのビッグショー」に登場し、お互いのミュージシャン・シップを確かめ合っている。

そして1995117日に発生した阪神大震災の惨状を知った彼は、被災者に向けたチャリティー募金活動のため積極的に神戸市へ出向き、多くの市民を元気づけている。この活動が評価され、この年『第46回紅白歌合戦』に10年ぶりの復帰を果たし、1979年の第30回に続き<YOUNG MAN(Y.M.C.A.)>を披露(注16)している。
またこの頃になると、ヒデキでロックに目覚めた若手ロック・ミュージシャン達が挙って彼のコンサートに参戦、「ロック・アーティストの憧れのスターNo.1」と言われるようになっている。そして1997年にはそんなヒデキ親派のミュージシャンが結集して製作した『西城秀樹ROCKトリビュート~‘KIDS’WANNA ROCK!(17)が発売されている。


そんなヒデキだったが、2003年につんくプロデュースの85作シングル<粗大ゴミじゃねえ>発表直後、公演先の韓国で脳梗塞を発症し、その後闘病生活を送ることになった。懸命のリハビリにより軽度の言語障害の後遺症は残ったが、2006年に3年ぶりのシングル<めぐり逢い/Same old story-男の生き様->をリリースし復帰を果たした。しかし、20111220日、脳梗塞の再発との診断を受け、2週間程度再入院となった。右半身麻痺と微細な言語障害の後遺症が残ったが、その後は快方へ向けてリハビリに励み、徐々に歩行の状態など改善され、2012年からは往年のスターによる歌謡曲リヴァイバル・ツアー「昭和同窓会コンサート」のメインアクトで参加、病魔に負けない元気な姿を見せていた。 

なお2015413日に、60歳に還暦を迎えたヒデキは、記念アルバム『心響-KODOU-』を発売。同日、東京・赤坂BLITZにて自ら「ヒデキ還暦!」と題した記念ライヴを開催し、親友の野口五郎も駆けつけている。またこの還暦を記念した「ハウス食品」のイヴェント、往年の「ヒデキ、カ~ンゲキィ!!」をもじった「ヒデキ還暦!」にも登場。なお、このイヴェントでは、「ヒデキ、カンレキィ~!」とプリントされた「バーモントカレー」が来場者に配布された。また同年秋には全国で<秀樹還暦ツアー>が開催され、さらに2016127日には「還暦」をこえて61歳となった彼は、26年ぶりにフジテレビ「FNS歌謡祭」のステージに立ち、日本中に勇気をとどけている。



その後も『同窓会コンサート』の出演を続けたヒデキは、63歳誕生日翌日2018414日に開催された栃木県足利市までステージに立ち続けた。ところが、その11日後の425日に倒れ、意識不明となり516日に急性心不全で旅立ってしまった。改めて1970年代が生んだ不世出のシンガー西城秀樹さんのご冥福を祈りたい。次回は彼の1970年代を象徴する全ライヴ・アルバムを振り返り、その黄金の軌跡をお伝えする。

(注1)当時「インスタント・カレー」は「S&Bゴールデンカレー」「<旨味の素>チャツネ入り、オリエンタル・マースカレー」「一粒チョコ・タイプのグリコ・ワンタッチ・カレー」などがしのぎを削る戦国時代だった。

(注2)近年はHey! Say! Jump(知念 侑李)が起用されている。

(注3)日本初は “ムッシュ”かまやつひろし。1972年にロッド・スチュワートのハリネズミ・ヘアー・スタイルまで完コピし、新曲<のんびりいくさ>を披露している。

(注4)グループでの日本初は1968年のザ・タイガース。1978年から1981年までは大阪球場と並行して東京後楽園球場でも開催。

(注5)1974年の『Before The Flood/Bob Dylan & The Band』のジャケットがヒント。

(注6)日本初上陸は1978年のELOワールドツアー(Out Of The Blueツアー)日本公演。初めての体験に「浴びたら死ぬ」と、光線を避けて逃げるまわる聴衆もいた。

(注7)山上たつひこ作の少年チャンピオンに1974~1980年連載されたギャグ漫画。

(注8)初出場の衣装は快傑ゾロのコスチューム。以後1984年の<抱きしめてジルバ>まで11年連続出場、さらに2001年まで18回出場した。

(注9)1975年10月松竹系公開。1985年3月ビデオ化(VHS)、2015年7月にDVD化発売。2018年7月17日から全国3ヶ所のライヴ・ハウスで再上映。

(注10)1975~1985年まで11年連続開催

(注11)海援隊「JODAN JODAN」(86位、1万枚)で、“J”“O”“D”“A” “N”の振付まである。

(注12)野口は『GORO IN LOS ANGELES,U.S.A.-北回帰線-』(1977年)をはじめとする海外録音数作。郷は『Narci-rhythm』(1978年)『SUPER DRIVE』(1979年)等。

(注13)ヒデキ6曲吉野5曲を書下ろし、編曲は後にShogun結成メンバー大谷和夫。ここの関係は『Silk Degrees』(1976年)でのボズ・スキャッグスとTotoを連想させる。

(注14)フランツ・フリーデルの和製ポップス<Do You Know>もある。

(注15)作者さくらももこがヒデキ・ファンだった縁。

(注16)野口五郎との会話から誕生した<ブーメラン・ストリート>(1977年/6位;21.2万枚)のアンサーソング

(注17)翌1996年の第46回でも同曲を歌い、紅白では3回歌唱。

(注18)参加ミュージシャンは、THE HIGH-LOWS、Gackt、ROLLY、サンプラザ中野、ダイヤモンド✩ユカイなど。


2018年7月10日12時
Viewing all 633 articles
Browse latest View live