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VANDA誌以前の佐野邦彦氏の投稿記事と氏への回想録

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8月にビーチ・ボーイズのレア・アイテム、プロモ・7インチ盤『Spirit of America / Boogie Woodie』に関する記事を提供してくれた筆者20年来の友人が、佐野邦彦氏がVANDA誌以前にビーチ・ボーイズに関する記事を投稿していた『RAVE ON』誌を紹介してくれた。
氏の記事によってビーチ・ボーイズ・コレクターとして開眼していった彼による回想録を少しお送りしたい。



佐野氏が泉下の客となられた、かの知らせには涙腺が緩むのを禁じ得なかった。 ジャンルを超えた様々な音の調べの豊かさを世に知らしめるべく尽力された人生に敬意を払う。 その中でも数々の方々が賞賛されるようにソフトロックをいちジャンルにまで昇華させた事は特筆すべきであるが、ソフトロック言論確立に至るまでのインターネット無き時代から草の根で培われた多くのミニコミ、人的交流を基盤に続けられてきたオールディーズ研究の成果の一つでもある。
1970年代前半からオールディーズ研究のミニコミが刊行され、1970年代後半さらに数誌が刊行されると同時に交流や人気が拡大していくこととなる。

当方のThe Beach Boys収集もまずは身の回りの聞くことができる音源を探すところから始まり、ほとんど国内再発盤がない状況からのスタートは暗中模索であった。かかる状況では、日本語によるThe Beach Boys収集の指南や歴史など体系的に知る手段は皆無であって、あったとしても断片的であったが、間もなく答えは海外にある事に当然ながら気がつく。
輸入盤や中古レコード店にコレクター向け雑誌があり、たまたまThe Beach Boysが特集されており、おまけに世界中の個人ファンクラブの住所が掲載されていた。すかさず当方は手紙を出しまくり入会することが出来ると、ファンクラブ内で行われるレア音源の交換や既に米国で刊行されていた伝記や研究書の入手が出来、ようやく彼等の全貌が分かるとともに、コレクター道の嚆矢となった。
ほとんど徒手空拳に近い形でThe Beach Boysやオールディーズに耽溺していた当方ではあるが、ある日とある中古レコード店で見つけた雑誌の表紙がGene Vincentではないか!とよく見ると英語ではなく日本語で色々な記事で特集されており、目に付いたのがThe Beach Boys rare masters???執筆者は佐野邦彦とある、それが佐野氏との出会いの始まりであった。


その雑誌は『RAVE ON』という名前で、前身の『Back to the Rock』から続くオールディーズ研究の大きな潮流の中にあることが分かる。
巷間かまびすしい、ビートルズやロック中心史観とは異なるポピュラー音楽の宝庫がそこにあった、それを契機に音楽の趣味は完全にコンテンポラリーから背を向けてしまう結果となるが、渺渺たるものではあるが収集してきたアイテムやそこで得た知識などコラムの形で披露させていただくことで佐野氏への追辞に代えることとしたい。 

(text by -Masked Flopper- / 編集:ウチタカヒデ)

佐野邦彦氏との回想録3・鈴木英之

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Jigsawの第一回リイシュー発売をひかえた910日には、BS.TBSで『Song To Soul』の「Sky High」特集がオンエアされた。
番組は「Sky High」が誕生するまでの一週間(1975522日~28日)を中心に、メンバーをはじめとする関係者インタビュー、ジグソーの作品紹介、当時の写真や資料等で構成され、「Sky High」が主題歌となった映画『The Man From Hong Kong』の一部映像、ミル・マスカラスの試合風景もしっかり紹介されていた。さすが「報道のTBS」と唸らせる渾身のプログラムで、番組制作スタッフの真摯な取り組みが感じられ、大変よくできた音楽ドキュメンタリー番組だった。
番組ラストの協力者のテロップには、今回のライナー作成で大変お世話になったS氏、そして今回私と「Sky High & Rera Trucks~」のライナーをご一緒させていただいたY氏のクレジットがあり、佐野さんと自分も番組の支えになったようでうれしくなった。




ただ欲を言えば、Tom JonesFour Topsを紹介するパートで、Tomの「It’s Unusualよくあることさ)」は欧米向けであれば納得できたが、日本においては、「Love Me Tonight」か「She's A Lady」の方がふさわしいのでは?と感じた。またFour Topsは時代を考慮してか「Ain’t No Woman (Like The One I've Got)」がチョイスされていたが、こちらも「Reach Out I'll Be There」などMotown時のヒット曲が分かり易かったかな?というのが個人的な感想だった。さらにもっと凝るのであれば、Des Dyerが「「Shaft(黒いジャガーのテーマ)」をヒントにして作曲した。」につながるよう、1973年のヒット「Are You Man Enough?(シャフト!アフリカ作戦)」にしても面白かったかなとも感じた。



リイシュー第2回発売の3タイトルについては、45作が佐野さん、林哲司氏絡みの6作を私が受け持つことになっていた。作業はこの放送直後に、発売元から収録可能曲のマスター・データが送信され、そこから音源をチェックして収録時間内にまとめるというところからスタートした。日中仕事を持っている私はそれを一気に全部チェックするのに手間取り、病床の佐野さんが「1曲でも多く未発表音源を収録する」とばかりに、ものすごい勢いで聴きまくり、各アルバムの構成案をまとめ、収録内容はほぼ佐野さん主導で進められた。こんな流れで佐野さんの意見をベースに、私の提案も多少盛り込ませていただきつつ、927日に収録曲はいったん決定した。その後、いくつかの修正を入れ「重要な曲を外すことなく80分収録」にこだわった「レア音源だけ集めたCD」と揶揄されることのない収録リストが9月末までにまとまった。こういった作業となると「さすが佐野さん」と唸るばかりで、以前『The Beatles Anthology』シリーズでの詳細な音源チェック・リストが、当時某レコード会社で社員教育に採用したいとオファーを受けた実績を持つだけはあると頭が下がる思いだった。



とはいえ個人的には、『Song To Soul』で流れた「Sky High」のインスト・ヴァージョン(編曲Richard Hewson)と、1976年にJigsawがエントリーした第7回世界歌謡祭での「Paint The Smile On(恋のクラウン)」ライヴ音源(『第7回世界歌謡祭実況アルバム』)の収録に未練が残った。特に後者は朝日新聞縮小版にて「グランプリ決定世界歌謡祭」(フジ系11/23(火)1600)が放映された記事から探し当てたもので、佐野さんも「世界歌謡祭のライヴ音源の発見は凄い!」とその価値を認めてくれていたが、これらについてはマスターの所在が発見できず残念ながら見送りとなった。


この案が決定した直後に佐野さんより、私が受け持つ『Pieces Of Magic』について「林さんのエピソードは一般には知られていないのでそこにスポットを当てるべき」とメールが届き、改めて私ならではの内容にしなければという気持ちが昂った。


またその翌日には、私が6月に出演したテレビ番組の最新プログラムが「昭和ネタ」だったことを引き合いに、私に再度のアプローチを後押しする連絡が入り、佐野さんが元気なうちにこちらの企画もまとめなければと焦るばかりだった。

更に、私の誕生日にはFacebookを通じて「精力的な活動を楽しみにしています。」とお祝いメールを頂き、「全て佐野さんのおかげです」と返信すると、すかさず「どこへでも足を運んで交渉取材する鈴木さんにいつも驚かされています。その姿勢で頑張ってよりメジャーに!」とあり、なぜか彼からお別れの挨拶をされているような心境になってしまった。

さて話はJigsawのライナー制作に戻るが、私が担当したアルバムのリアルな発売日は1977225日だが、この直前の219日にミル・マスカラスが登場テーマに「Sky High」を使用して話題沸騰の最中だった。さらに林さん作の日本盤EPIf I Have To Go Away(君にさようなら)」の発売された325日は、その直前の321日に「Sky High」がオリコン11位(翌週3位)に登場しており、こんな状況ゆえ新譜としての印象の薄さを物語る不幸な作品だった。ちなみに当時は、プロレス・ファンが多かった私の周りでは、このテーマを口ずさんでマスカラスの必殺技「クロスチョップ」「フライング・ボディ・アタック」の真似をするのがブームになっていたほどだった。Jigsawファンの私でさえ林さんの記事を発見しなかったら、世界歌謡祭の入賞曲「Paint The Smile On(恋のクラウン)」を収録したアルバムくらいにしか認識していなかったのだから、一般での認知が低いのは無理もない話だった。

 また日英米と収録曲が微妙に違い、特に日本盤は「Sky High」未収録の新装ベスト・アルバムといった感じになっていた。しかし、CDリイシューではオリジナルの英国盤がベースになり、ヒット作にはならなかったが、まだバンドとしての輝きが失せていない充実作と再認識させられるものだった。個人的には林さんに繋がった記念碑的作品で、あの当時のことがリアルに頭をよぎり、かなり字数をオーバーしてしまった。そこで冷静に文面を見直し、気になった事を1017日佐野さんに最終確認をして完成させることが出来た。


 その後は、発売元の担当者とタイトルのチェックや、アルバム・ブックレットに掲載するジャケットのレイアウトについてやりとりをしていた。その中で、問題となったのは佐野さんが集大成とばかりにまとめあげたコンプリート・ディスコグラフィがかなりスペースを占めており、私がこだわっていた日英米のLPEPのオリジナル・ジャケットの掲載スペースが確保できそうにないということだった。ただそんな私が不安視していた案件は、CDトレイの内側を使うという担当者の配慮でなんとかクリアできた。全ての作業が終わって気がつけば、そろそろ秋の気配が感じられる季節になり、佐野さんの健康面を配慮して、メールのやり取りは控え、17日の確認メールが佐野さんとの最後の連絡になるとは予想もしなかった。

 1030日にサンプルCDが届き、休日だった翌日にパッケージを開けて中を確認し、佐野さんに報告がてら連絡文を書き始めた直後、Facebookより彼の訃報が飛び込んできた。

一瞬、この半年間佐野さんとやり遂げたJigsawのことが頭の中を回想した。そして、これはきっと佐野さんの命が燃え尽きる前に、天から贈り物として一緒に仕事をさせてくれたのだと思え、彼に完成の報告をするため、114日通夜の葬儀会場に向かった。そこにはまるで眠っているかのような佐野さんに対面、ご親族と彼の生前を熱く振り返った。
5日は告別式が執り行われていたが、火葬の最中に放送されていた「サンデー・ソングブック」(TokyoFM)で、山下達郎氏が佐野さんに敬意を評したお悔やみのメッセージと追悼に「Let’s Kiss The Sun~愛を描いて」をおくってくださった。
まさに「神対応」、追悼曲と一緒に佐野さんが天に召されていく情景が浮かんだ。


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「Springs Live Picnic 2018」のご紹介

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VANDA書籍にも執筆参加されているヒロ渡辺氏が、土屋剛氏、シンディ浅田氏と組んでいるソフトロック・グループ、 スプリングスのライヴ情報です。 
ゲストに原めぐみさんが出演されます。 
来年2月のライヴですが会場の席数に限りがあるので、下記リンクで早期の予約をお勧めします。



日時:2018年2月10日
OPEN 18:00 START 19:30
出演:スプリングス<シンディ浅田(vo)・ヒロ渡辺(g,vo)・ 土屋 剛(key,vo)
> ゲスト:原めぐみ
料金:¥3,500 ※別途、飲食代+消費税が必要です。
※小学生以下無料 
場所:神保町 楽屋(らくや)
東京都千代田区神田神保町1-42-7 ソマードビル1F
 【予約受付中】
電話予約:03-3518-9496
WEB予約:■ 神保町楽屋予約申込




スプリングスfacebook:https://www.facebook.com/events/366646330449790/

THE LAKE MATTHEWS:『Gimme Five!!』 (Happiness Records/HRBR- 006)

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今回紹介する“THE LAKE MATTHEWS”(ザ・レイク・マシューズ)の『Gimme Five!!』は、過去筆者によるレビューで評価が高かった女性シンガーソングライターの杉瀬陽子が、自身のイベント企画のために結成した“一夜限りのミステリーバンド"のファースト(ラスト?)・ミニアルバムで、今月の6日にリリースされる。 

メンバーは杉瀬のサポート・バンドからは、ベーシストの伊賀航(細野晴臣バックバンド等に参加)、ドラマーの北山ゆう子(曽我部恵一のバックや流線形等の参加で知られる)がピックアップされ、加えてゆずやキリンジ(KIRINJI)など多くのメジャー・アーティストのセッションやライヴ・サポートからアレンジャーとして活躍するキーボーディストの伊藤隆博が参加している。
そして何より特筆すべきは、元キリンジからソロに転向した堀込泰行が、杉瀬と共にフロント・メンバーとしてヴォーカルとギターを担当していることだろう。
杉瀬のアルバム『肖像』(15年)収録の「五月雨二鳥」を2人で共作したことで、彼女のライヴにもゲスト出演した機会があり筆者も聴いたのだが、2人のハーモニーのブレンドは実に調和していて味わい深かった。

このTHE LAKE MATTHEWSの活動としてはライヴの他、今年9月に7インチ・シングル「Pegasus」をリリースし既に完売状態だという。その後押しもあり、このミニ・アルバムに至ったという見方も出来る。
収録曲はこの「Pegasus」以外は各メンバーが選んだ昭和時代の楽曲カバーということで、各々のルーツや趣向が垣間見られて興味深い。
楽曲と選曲者は下記の一覧を参照してほしい。

1. 氷の世界 <井上陽水カバー>(選曲:杉瀬陽子)
2. 星くず <久保田真琴と夕焼け楽団カバー>( 選曲:北山ゆう子)
3. 水に挿した花 <中森明菜カバー>(選曲:伊藤隆博)
4. 渚・モデラート <高中正義カバー>(選曲・伊賀航)
5. Pegasus  <THE LAKE MATTHEWSオリジナル>
6. 地球はメリーゴーランド <GAROカバー>(選曲:堀込泰行)

 

ここでは筆者が気になった主要な曲を解説したい。 
冒頭の「氷の世界」は説明不要と思うが、国内初のミニオンセラー(100万枚)となった井上陽水の同名アルバム(73年)のタイトル曲である。アルバム『氷の世界』は、当時の日本における『狂気(The Dark Side of the Moon)』(ピンクフロイド 73年)のようなロングセラー・モンスター・アルバムだった。
この曲はロンドンのソーホーにある、かのトライデント・スタジオで全面的にレコーディングされており、当時としては非常にファンキーなアレンジが施されているのが特徴的だ。現地のセッション・ミュージシャンは、後にロキシー・ミュージックに関わるベーシストのジョン・ガスタフソンや彼と同じくクォーターマスのメンバーだったピート・ロビンソンがクラヴィネットをはじめキーボードを弾いており、コーラスには後にグリース・バンド(ジョー・コッカーのバックバンド)と合流してココモの母体となったアライヴァルのヴォーカリスト3名も参加している。なんでも当時陽水達はスティーヴィー・ワンダーの「迷信 (Superstition)」 (73年)にインスパイアされたサウンドを目指していたという。
前置きが長くなったが、THE LAKE MATTHEWSのヴァージョンでは、べースラインにデオダートの「摩天楼(Skyscrapers)」(『Deodato 2』収録 73年)のそれをモチーフにしており、原曲以上にバックビートを強調している。数々のセッションをこなしている伊賀と北山のリズム隊のコンビネーションは完璧と言える演奏でたまらない。また肝心のヴォーカルだが、1番と2番でワンコーラスずつ堀込と杉瀬で分け合い、間奏後に2人のツイン・ヴォーカルとなり曲を盛り上げている。

先行のオリジナル・シングル「Pegasus」は、杉瀬1人によるソングライティングだが、堀込とのヴォーカルを想定したようなミディアム・メロウな曲調であり、嘗て堀込がキリンジ時代に残した稀代の名曲(最近CMに起用されている)「エイリアンズ」(『3』収録 00年)に通じる、心情風景を背景とした不毛の愛がテーマとなっている。
堀込の荒削りなギター・ソロに続き、アレンジにも貢献したと思しき伊藤隆博が自らプレイするトロンボーン・ソロのコントラストも非常に効果的だ。
そしてラストはガロの「地球はメリーゴーランド」であるが、原曲が和製ソフトロックとしてエヴァーグリーンな存在であることは、古くからのVANDA誌読者なら言わずもがなだろう。自らもその読者だったらしい堀込ならではの趣味性と言え、前曲「Pegasus」からの流れからもこのミニ・アルバムの着地点としてこれ以上相応しい選曲はないかも知れない。
ニール・ヤングの「Out on the weekend」(『Harvest』収録 72年)を彷彿とさせるダウントゥアースなビートをバックにして、堀込の叙情的なヴォーカルに寄り添う杉瀬の無垢なハーモニーは慈愛に満ちあふれている。この曲を歌うために組んだのではないかと思わせる必然性に感動するばかりだ。
興味を持った音楽ファンは入手して是非聴いてほしい。
(ウチタカヒデ)

佐野邦彦氏との回想録4・鈴木英之

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今回は私が初めてVANDA誌に寄稿させていただいたThe Grass Rootsでの佐野さんとのやり取りの回想を掘り起こすことにする。
第一回目の投稿でも書いたように、私と佐野さんとの出会いは、19956月発行のVANDA18の乱丁本に同封した「感想&リクエスト」手紙が取り持つものだった。こう書くと聞こえはいいが、実態は礼儀知らずの「クレーマー」からの挑戦状といったものだった。そこに私が書き記したことは、特集記事に掲載された一部アーティストの間違いや記述不足などの指摘(というより苦情!)、そしてこの特集に「The Grass Roots」「Classics Ⅳ」がないのは手落ちだとばかりに、言いたい放題をレポート用紙数枚に延々と書き綴っていた。今にして思えば、あの佐野さんに対して恐れ多いことを掻き立てたものだと呆れるばかりだ。

ただ、こんな偉そうなことを書いたのは、旧職場の後輩で音楽評論家として活動を始めたばかりのK君のライナー・デビュー作「JazzシンガーAさんの新作アルバムの選曲と解説」について協力依頼を受け、かなり時間を割いて手伝い、某雑誌のレヴューで絶賛されたことがあったからだ。そんなこともあり少々慢心していたからかもしれない。とはいえ、そんな一方的な私の手紙に対する佐野さんからの回答は大変丁寧なもので、間違いや記述不足などには率直に謝罪、また要望に対しては「詳しく研究している人がいないので、書いてみませんか?」というオファーだった。


これをきっかけにVANDA誌へのコラムを始めることになるのだが、本音をいえば私が洋楽を聴き始めたころに最も影響を受けた評論家八木誠氏に書いてほしいという切なる願いだった。それゆえまさか自分で書くようになるとは夢にも思わなかった。なにせ文字とのにらめっこは、即睡魔に襲われてしまうような自分が文章なんて書けるのだろうか?という不安も過っていた。正直、売られた喧嘩を買われてしまい、どうやって逃げようかという思いで、毎日もやもやしていた。すると「こう書いたらいいんですよ!」とばかりに、この年秋に発行されたVANDA19を送付いただいた。
ここには、私が長年読みたかった5th Dimensionの特集記事が掲載されており、熱烈なファンであろう筆者の熱い愛情が伝わり、自分もThe Grass Rootsの一ファンとして書いてみたくなった。また、当時は閑職勤務の身だったこともあり、課外授業するだけの時間はたっぷりあったので、翌年春に発売する20に向けお受けすることにした。

そんな経緯で安請け合いはしたものの、その時点で自己所有のLPレコードは『Lovin’ Things』『Move Along』とベスト『Their 16 Greatest Hits』、それに中期以降の主要シングルとくらいしか手持ちがなく、ネタ不足は明らかだった。
そこで週末は滋賀から京都や大阪のショップに遠征し、ローラー作戦で音源探索に励んだ。しかし、ロックやソウルの王道ものならともかく、ポップスでしかも代表作といわれるアルバムもないポップ・バンドの音源探しは難航の連続だった。そして数ヶ月かけて、リイシュー間もない復刻CDWhere Ware You When I Needed You』『Let's Live For Today/Feelings(2 in 1)』と、LPAlotta’ Mileage(恋に乾杯)』『The Grass RootsHeaven)』を何とか入手し、最低限の準備は整えることが出来た。


早速、ディスクに挿まれていたライナーを読みながら音源に耳を傾けた。すると高校時代「Temtation Eyes(燃ゆる瞳)」を聴いて彼らのファンになり、最後の全米トップ10ヒット「Snooner Or Later(恋はすばやく)」を購入した頃の思い出がよみがえってきた。そんな気分になったところで、彼らを知るきっかけとなった『TBSポップス・ホット10(日曜;815)や、All Japan Pop 20(文化放送系~私は静岡放送で日曜;2000~)などのチャートを数年書き溜めたノート、加えて友人から譲り受けた大量の1960年代音楽雑誌(MLTeenbeat等)を読み返しながら作業を開始した。その資料から日本独自ヒットPain」の事などを思い出し、リアルタイマーとしての体験をベースにした内容で書き進めた。ただ、困ったのは結成から初ヒットまでの経緯が当時のLPライナーに書かれている内容とリイシューCDでは大きく異なっていることがわかり、またヒットの出なくなった1970年代中期以降は資料がほとんどないことに躓き、作業は難航し始めた。要するに、「起承転結」の「起」と「結」がうまくまとめられなくなってしまったのだった。


こんな沈滞ムードのなか、佐野さんより「進行状態はいかがですか?」と催促が入り、とりあえずその時点での原稿を送った。するとディスコグラフィーやその他関連資料については、「良いんじゃないですか。」と一発で合格評価を頂けた。ただ、不安視していたヒストリーは内容以前に「誤字脱字」「意味不明表現」など文章力のなさを含め細かく指摘され、それをまともな文章にするだけでも、56回は書き直しを繰り返した。

その様子たるや大学受験期に体験した通信添削をしているような気分で、出すたびにやり直しを繰り返した。まるで赤点補習を受ける不出来な学生になったような気分だった。しかし今思い返せば、あんな幼稚な体裁の文章を何回も読み返していただいた佐野さんの辛抱強さに感謝しなければ罰が当たると思う次第だ。

そして文面がましな体裁になってくると、「まだ何か書き忘れている感じがする」と不安が募り、約束の入稿日を過ぎても提出できない状態になってしまった。佐野さんからは「いつ提出いただけますか?」と催促されるようになるも、「この内容ではVANDAに載せられない」とばかりにひたすら資料探索を続けていた。そして、ついに痺れが切れた佐野さんから「鈴木さんがわからないものは、誰にもわかりませんよ!」とダメ押しされた。その言葉を聞いて、ヒストリーの内容も関連資料同様に佐野さんは納得されていたのだと認識し、318日約3週間遅れで入稿を果たした。

この処女作となった私の原稿は610日発売のVANDA20で、それまで誌面を飾っていたそうそうたる顔ぶれを差し置いて第三特集8ページという扱いで掲載となった。ただ発売前に自宅に届いた本誌をわくわくする想いで読み返すと、文字化けや表記ミスが目立ち、反省点ばかりで落ち込んでしまった。
さらに「解散後の1982年再結成作『Powers of the Night』(Bon Joviのセカンド・シングルのオリジナル収録)」を書き落とすという大チョンボ(勝手に不要と判断)まで犯していた。ちなみにこれらの加筆&修正は、後にVANDAで発刊する書籍で発表するチャンスをいただいている。


こんな至らなさのあまり「これで、私の出る幕は無くなった」という心境になっていた。しかし、この本が届いた数日後に佐野さんから「次回は、今20号で私が簡単に紹介したClassics Ⅳをお願いしたい。」と要請があり、またチャンスをいただけたことに胸をなでおろした。その時に、今回の原稿をまとめるにあたり、高校当時に書き綴っていた手書きヒット・チャート表がとても役に立ったという話した。すると「そのネタも面白そうですね。それも一緒にまとめておいたらどうですか。」と切り出され、なんとVANDA21には2本も書かせていただけることになった。
という事で、次回は「Classics Ⅳ」、そしてその次は当時の手書きチャートについてまとめた「Music Note」について紹介させていただくことにする。




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佐野邦彦氏との回想録5・鈴木英之

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この回想録も早5回、今回もVANDA18の乱丁本に同封した「感想&リクエスト」手紙の中から発生したもう一つのコラム「Classics Ⅳ」についてのエピソードをまとめさせていただく。彼らについては、前回紹介した「The Grass Roots」と違い、全くの後追いなのでもともと誰かに伝えられるほど詳しいわけではなく、単にもっと知りたいという興味半分の軽い気持ちで書いたにすぎなかった。ちなみに彼らを知ったのは1981年にレンタルした『American Hit Anthology 1965-1975(アメリカン・トップ40)』での偶然の出会いが始まりだった。



このLPの目当ては、Cornerious Bros. & Sister RoseToo Late Turn Back Now」だったが、ここに収録されていたClassics Ⅳの「Spooky」にノック・アウトされてしまった。そして、馴染みのショップでClassics Ⅳのレコードを探してもらったところ、「グローリー・オブ・60’sアメリカン・ポップス」という1,500円廉価版シリーズに『Traces/ Classics featuring Dennis Yost』があり、即座に入手した。このアルバムには「Traffic Jam」「Free」「Rainy Day」など粒ぞろいのオリジナルが並び、またカヴァー「Sunny」でのDenis Yostブルージーなヴォーカルにも魅せられ、完全にはまってしまった。その後、カット盤のセカンド『Mamas And Papas/Soul Train』をゲットし、ここでもヒット曲「Stormy」やYostのヴォーカルが光るカヴァー「The Girl From Ipanema(イパネマの娘)」にくぎ付けになり、その後この2枚は我が家のステレオではヘビロテ状態が続いた。



さらに、以前から聴いていたAtlanta Rhythm Section(以下ARS)はClassicsⅣの発展型と知り、彼らはUnderdog』(1979/8作)で「Spooky」をカヴァーしていた。また、Santanaが『Inner Secret(太陽の秘宝)』(1978/10作)で「Stomy」をカヴァーしている事実を知り、彼らについてさらに詳しく知りたいという探究心が芽生えた。加えて当時の愛聴盤『パジャマ・デート/Juciy Fruits』のLPセルフ・ライナーに「~コーラスがちょっとデニス・ヨースト&クラシックス的~」という表記を見て興味は深まるばかりだった。ただ、当時は田舎暮らしでショップも少なく、1960年代のポップ・バンドを探すには困難を極め、その後に入手出来たのは『The Very Best Of~』だけだった。さらに当時著名ショップが「Denis Yostカムバック・ソロ作」とプッシュしていた新作LPを手に入れるも、それなりの健闘作とは感じたが、やはり全盛期には遠く及ばない出来に失望し、以降彼らについての探索心は萎えてしまった。


その後、稲垣潤一が1987年のシングル「思い出のビーチクラブ」のカップリングに「Traces」を収録するといった出来事もあったが、徐々に彼らの記憶も薄れていった。そんな時期にVANDA誌と出会い、この本の執筆陣には詳しくまとめくれる方がいるのでは?という切なる願いから要望を入れたのだった。その期待に応え、VANDA20に佐野さん自らまとめた待望のClassicⅣ単独コラムが掲載された。また、その末筆には「次号ではまだ未聴の音源を探して特集を組む予定なので、お楽しみに。」とあり、次号ではさらに掘り下げた深い内容を披露してくれるのだろうと楽しみになった。しかしその直後、佐野さんから「鈴木さんにお願いしたい。」と連絡が入り、まさか自分がまとめることになるとは思っておらず、想定外の展開に唖然としてしまった。とはいえ、彼がコラムを掲載したことにより、関西の大手ショップでも「ClassicsⅣ」のコーナーが設置されるようになったので、「きっとこれなら音源も探しやすくなるだろう」という安易な気持ちから引き受けた。

実際に私が担当になったと言っても、ヒストリーやディスコグラフィーは、既に佐野さんがほぼまとめてあったので、内容に専念しGrass Rootsでも参考にした「1960年代の音楽雑誌」の情報をベースに当時の状況チェックしはじめた。とはいえ前回と違って、かなりの後追いなので、自分の得意とするリアルタイマー的なまとめ方が上手く表現出来ず、佐野さんには頻繁に内容確認をしていた。それほど不安交じりのスタートだったが、彼から「それだけ古いことを記憶しているのだから大丈夫!」と励まされ、ClassicsⅣがARSに繋がっていく経緯も含め、それなりに納得のいくものをまとめる事が出来た。そして19966月にVANDA21が届き、目次をみたところClassicⅣは(恐れ多くも)第2特集で掲載されていた。ディスコグラフィーもなく、たったP4でこの扱いは恐縮するばかりではあったが、今回は二編掲載ということでの配慮かと思うことにした。

そのもう一編とは、前回の寄稿後に佐野さんとのやり取りから突然浮上したもので、私が高校当時に書き綴っていた手書きヒット・チャート表をベースにしたコラム「Music Note」(と佐野さん命名)のことだ。こちらは私よりも佐野さんがとても楽しみにしていたものだった。

なおこの号の発売された1996年にはVANDA18で大特集した「ソフト・ロックA To Z」が、音楽之友社より単行本として発売されている。また828日には東芝EMIより『Soft Rock Collection~Traces』なるコピレーションも発売され、ClassicⅣの音源が(多分)本邦初CD化されるとともに、「ソフト・ロック」という言葉が、日本の音楽シーンに定着するきっかけとなった。そんな飛躍の年に、執筆者の一人としてVANDAに参加させていただけたことは光栄に思っている。

ちなみにこのCDにはヒット曲のみならずClassicⅣ前身のClassics名義の「Pollyanna」や、アルバム収録曲の「Rainy Day」も選曲されており「さすが!」と唸った。さらには山下達郎ファンにはお馴染みの「Guess I'm Dumb/Glen Campbell」など鋭い選曲が組まれ、まるであのRhinoにも迫るようなコンピだった。これをメジャーのレコード会社で発売できたのは、全ては佐野さんの博識に対する信頼の表れだと感じた。このようにClassics ⅣもJigsaw同様、日本でその存在がクローズ・アップされた。


そして、20141119日には東芝EMIより“Soft Rock Best Collection 1000”シリーズの中に佐野さん選曲(&解説)による待望のClassics Ⅳ単独のベスト・アルバム『The Very Best Of The Classics Ⅳ』が発売されている。このCDが発売された時期に、この選曲について佐野さんと話す機会を持ち、カヴァー曲は何故外したのか伺ったが、彼は「あくまでオリジナルにこだわった」とのことだった。ただ自分としては、Yostのシンガーとしての力量にスポットを当てたカヴァーも捨てがたいと思っているので、可能であれば初期オリジナル4作を「4 in 2」(多分これくらい?)での完全CD化の実現を望むところだ。


という事で、次回は私が音楽マニアになりたての頃に聴いていた、当時のラジオ番組のチャートを振り返る「Music Note」について紹介させていただくことにする。




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The Beach Boys 『Graduation Day 1966: Live At The University Of Michigan』・平川雄一

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 2016年末に海外で既に配信されていた本盤であるが、この2017年12月に日本での販売が解禁された。本盤にはビーチ・ボーイズによって1966年10月22日に行われたミシガン大学でのライブ演奏、2ステージ分が収録されている。

 この年の10月と言えば既にアルバム『ペットサウンズ』、シングル『グッドバイブレーションズ』が発売されブライアン・ウィルソンは天才の名を欲しいままにし、次作アルバム『スマイル』のレコーディングの真っ只中にあった。
 レコーディングに専念するブライアンに代わりブルース・ジョンストンがライブに参加していたが、当日は『グッドバイブレーションズ』初披露の日。"ボーイズ"達が我が傑作をしっかり演奏出来るか不安になりミシガンまで同行、リハーサルを監督した。更にブライアンは2ステージ目のアンコールで喝采の中、登壇。メンバーと共に『ジョニー・B・グッド』を歌った。その模様も収録されている。


 肝心の『グッドバイブレーションズ』だが両ステージともブライアンの指導のお陰か丁寧な歌唱、演奏ではあるがやはり薄さは否めない。更にアウトロのリボンコントローラが両テイクともピッチを大きく外しており少々残念な結果に。

 他の曲もそうだがこの頃のビーチ・ボーイズは楽器演奏面でかなりラフで悪い言い方をすれば適当な印象だ。後のアメリカでの人気凋落後のライブへの気合の入れ様(ホーン隊を追加したり)とは格段の差だ。ブライアンがライブに参加していた時期の熱気を帯びたグルーヴもこの頃にはない。

 余談ではあるがカールはフェンダー社のジャガーやリッケンバッカー社の12弦エレキなど個性的なギターを鋭角な音色で使用、独特のキラキラ感を演出していたが、本盤ではギルド社のセミアコ6弦エレキのスターファイアを乾いた音色で使用。これを使い出してから音に煌きがなくなったようにも思えてならない。それに加えてデニスのドラミング、グルーヴが最もないのが1960年代中盤のまさにこの時期なのではないだろうか。



 しかしながらブライアンという存在感のあるボーカルを欠いていたとしても依然、各人のボーカル、コーラス面での魅力が溢れている。やはりビーチ・ボーイズは歌、ハーモニーの人たちなのだと再確認させられる。

 サントラ『エンドレス・ハーモニー』にも収録されている、『Medley: Fun, Fun, Fun / Shut Down / Little Deuce Coup / Surfin’ USA』は演奏共に聴ける代物。『God Only Knows』のカールの美しい歌唱も堪能できる。各曲のコーラス、ハーモニーにも唸る瞬間が沢山ある。マルチで録ってあるので音の分離もよい。

 本盤は1966年秋のまさにバンド絶頂期の余裕ぶっこいていた時期の危機感のないラフなライブ演奏を聴くことが出来るし、なによりブライアン本人が監督した『グッドバイブレーションズ』の初演も収録されている。そんな意味でも価値ある一枚(配信ですが)ではないだろうか。

 因みにボーナストラックの『Row Row Row Your Boat (Live)』。一聴してお分かりいただける通りこれはライブ演奏ではなくスタジオ録音版だ。しかもこれは前年1965年11月にブライアンのプロデュースではあるがハニーズのボーカルで録音されたもの。公式での初出は喜ばしいことではあるが、果たして本盤に収録した意味があるのだろうかと疑問に感じる。

佐野邦彦氏との回想録6・鈴木英之

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今回はVANDAに参加してから、佐野さんとの雑談から生まれた連載企画「Music Note」を回想してみる。このコラムの始まりも、元々は乱丁本に同封した「感想&リクエスト」手紙の中から発生したものだった。その内容は、VANDA18に掲載されたEdison Lighthouseの解説で「マイナー調の“What’s Happening”は失敗、その後なぜかマコウレイのプロデュースと記されている出来が極めて悪いチープな“My Baby Loves Lovin’”~」と書かれていたが、「“What’s Happening”は「悲しきハプニング」の邦題でAll Japan Pop 20(以下AJP;注1)年間12位、日本では10万枚以上のヒット。“My Baby Loves Lovin’”も「恋に恋して」の邦題で小ヒットしてます。」と書き添えて送ったものだった。

後日、佐野さんからその件について「あそこに書かれていた情報の元は何ですか?」と問い合わせがあり、私は「高校時代に毎週チャートをチェックしていたノートに書いてあるので間違いありません。」「それに「What’s Happening」は売れただけあって、(ローリー率いる)すかんちの「ペチカ」(9512作)にサンプリングされていますよ!」と返答した。そんなやり取りをしているうちに「その手書きした当時のヒット・チャートについて何か書けませんかね?」と彼から進言され、急遽始めることになったコラムだった。


そのはじまりについては私が洋楽を聞き始めた1970年からのスタートを提案されたが、この年の初めはまだ中学生で、当時の私は漫画家を夢見ていた頃だった。当然、音楽情報は全く疎く、せいぜいアニメのテーマ・ソングくらいしか興味がなく、洋楽といえばテレビで見ていたThe Monkeesを知っている程度だった。それに、春以降は大阪万博の話題で持ちきりだったので、この年にThe Beatles(以下、B4)が解散したことはおろか、存在そのものも知らなかった。そんな状態だったので佐野さんの期待に応えられるほどの内容にできる自信がなかった。

高校入学祝いに買ってもらった3バンド・ラジオで洋楽を聞くようにはなったが、正確には地元の静岡放送がオール・ナイト・ニッポン(以下、ANN)のキー局となった7月以降だった。ただ佐野さんからは「この時期、自分はチャート物から離れていた時期なので、当時のヒット状況は是非とも知りたい。」と言われ、さらに「何も概念のない聞き始めの時期に、どんなものに影響されていたかを知るいい機会じゃないですか!」と熱心に勧められ、この年から始めることになった。

そもそも私が洋楽を聴くようになったのは、ANN土曜深夜担当の亀ちゃん(元ニッポン放送社長亀淵昭信氏)の放送を聞くようになってからだった。この番組では「はがきぶん投げ作戦」(注2)なる1万円が当選する企画があり、それを目当てに(読まれも当選もしなかったが)リクエストをせっせと書くようになってからだった。そんなあるとき、「懐かしのゴールデン・ヒット(だったと思う?)」というコーナーで流れたB4の「抱きしめたい(I Wanna Hold Your Hand)」に衝撃を受け、洋楽の洗礼を受けた。

そして、当時上映していた『Let It Be』を見に行き、そこで併映されていた『ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!(A Hard Day’s Night)』が私の琴線に触れた。その後、この映画で特に印象に残った「Woh Woh, I~」の歌詞が出てくる曲を探しにレコード店を巡り、途中のフレーズだけでは店員も探しようがなく、清水の舞台から飛び降りる心境でLPを購入した。そこでお目当ての曲が「恋するふたり(I Should Have Known Better)」と知り、このアルバムは自宅の電蓄(ポータブル・プレーヤー)で毎日擦り切れるほどに聴きまくった。 
  
そんな経緯で、それ以降洋楽の世界にどっぷり浸かっていった。とはいえその頃のLP1,8002,200円、EP400円という価格だったので、私の小遣いではレコード購入はかなり慎重になっていた。そんな時に亀ちゃんが高校時代に弁当代をため込んでレコード購入にあてていたという話を聞き、即真似をして実践してみたが、23日で空腹に耐えられず断念(・・;)そこで、思い立ったのがヒット・チャート番組『AJP』を聞くことだった。それから地元の放送だけには飽き足らず、電波ノイズと闘いながら東京の放送にも手を伸ばし『TBS.Pops Hot 10(以下TP10;注3)』『ニッポン放送(不二家)Pops Best 10』『Your Hit Parade(以下YHP,文化放送)』などもチェックするようになった。

余談になるが、当時友人の兄が大学進学にあたり、60年代の音楽雑誌(Music LifeTeen Beat等)を処分するという話を聞き、約100冊を譲り受けた。この雑誌の運搬は毎日自転車の荷台に載せて一週間かけてせっせと運んだのだが、全部持ち帰った3日後に友人宅は火事で全焼してしまった。そんな経緯もあり、この音楽雑誌の譲渡には運命的なものを感じてしまった。もちろんこの雑誌は今も大切に保管し、私の執筆活動に欠く事の出来ない相棒として活躍してくれている。


話は戻るが、チャート番組を聞くのが日課となってからは、毎週のチャートをせっせとノートに記入するのが習慣となった。その後、「映画音楽」偏重のYHPは放送時間が遅く(日曜深夜)で重荷となり、またニッポン放送はTP10と時間がダブり、TP10で生まれて初めてリクエストハガキが読まれるといううれしい出来事もあり、結果としてTP10の常連となり、AJP 2つに絞って記入を続けていくようになった。以後数年間、この番組は欠く事の出来ない日課となっていたので、テーマ曲やホストのスピーチについては今も鮮明に記憶しているほどだ。

このように1970年はやっと洋楽に馴染んでいった時期なので、佐野さんのアドヴァイスでリアルなチャート・アクションには触れず、この年のトピックスを覚えている限りを列記して紹介することにした。まず、この年と言ったら男性化粧品マンダムのCMUn、マンダム」でお馴染み「男の世界(Lovers Of The World/Jerry Wallace」につきる。起用されたチャールズ・ブロンソンは、その勢いのまま主演映画「狼の挽歌」「雨の訪問者」も大ヒット。また、発売元の「丹頂化粧品」が「MANDOM」に社名変更をするなど、社会現象ともいえるほどの一大ブームとなっていた。


またYHPに象徴されるように、映画音楽がメインストリームにいた時期で、『ボルサリーノ(アラン・ドロン主演)』『さらば夏の日(ルノー・ベルレー主演)』『ガラスの部屋(レイモンド・ラブロック主演)』など人気映画スターの主演映画サントラが大いに賑わっていた。また、後にユーミンがバンバンに提供した曲のタイトルとして有名な『いちご白書』、そのテーマ「サークル・ゲーム(The Circle Game/Buffy Sainte=Marie」も爆発的にヒットしていた。そして映画といえば、B4の『Let It Be』。当時このサントラLPが写真集付3,900円(後に写真集なしで2,000円で発売)という現実離れした価格で販売されていたのが忘れられない。この話を佐野さんにした際、彼は「そんな値段では、欲しくてもとてもじゃないが手が出せなかったですよね。」と同情してくれた。


 ポップスでは、Shocking BlueVenus」の大ヒットでイントロ「B7sus4」コードを自慢げに弾く「にわかギタリスト」をよく見かけた。また、深夜放送の影響もあり「Mr.Manday/Original Caste」、「マルタ島の砂(The Maltese Melody/Herb Alpert & The Tijuana Brass」、「Train/1910 Fruits Gum Co.」など日本のみの大ヒットが続出した。そして深夜放送のみのヒットとして「便秘のブルース(Constipation Blues/Screemin’ J.Hawkins」、も忘れられない1曲だった。そんな日本独自といえば、(私には全く無縁の)ラブ・サウンドの使者Paul Mauriat Grand OrchestraLettermen。この二組は恋人たちのBGMの定番として、必聴アイテムだったことも付け加えておいた。

第一回の1970年はこんな感じでまとめ上げたが、手書きチャートを振り返って書いたわけではなかったので、佐野さんの反応が不安で仕方なかった。ただ、彼は「この内容は本当に面白い!次回以降も楽しみです。」との好反応で、「Music Note」というタイトルまで命名してくれた。こんな疑心暗鬼な船出だったが、VANDA 221971年からは正真正銘手書きヒット・チャート表をベースにした内容で書き、VANDA 261975年まで6回も連載は継続した。私としてはこの連載を始めて、やっとVANDAの一員になれたような気分になった。

ということで、この6回目が2017年最後の投稿とさせていただく。来年最初となる次回は、佐野さんがはまりにはまっていたNeil Sedakaについてのやりとりを紹介する予定だ。では平成年号最期となる来年もよろしくお願いします。


(注11962年にスタートした『9,500万人のポピュラーリクエスト』が、19675月よりこの番組名に改編され、19853月まで文化放送をキー・ステーションに全国34局ネットで放送されていた。当時の日本で最も信頼性の高い洋楽チャート番組。1970年前後のホストは「みのみのもんた」のフレーズが懐かしいみのもんた氏と高橋小枝子嬢のコンビ。当時のテーマは「Star Collector1967年日本独自シングル)/The Monkees」。

(注2ANNでは番組によせられたリクエストの中から毎回一万円を贈呈する企画があった。亀ちゃんの放送では当日まで届いたはがきをDJデスクから部屋中にばらまき、一番遠くに飛んだはがきが当選という名物企画。

(注3197173年にかけて日曜815900TBSラジオで放送していた洋楽チャート番組。ホストの音楽評論家故八木誠氏が独断と偏見で構成していたアメリカナイズされたプログラムが特徴だった。番組のテーマ曲は、「空想の色(Fancy Colours)」「僕らに微笑を(Make Me Smile)」(1969年『Chicago』収録曲)の組み合わせ。


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The Beach Boys rare early '65 stage photo without Brian Wilson,Glenn Campbell as a substitute.

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筆者の友人でビーチ・ボーイズのレア・アイテム・コレクターが、今回は世界初公開であろう貴重なショットを提供してくれた。
ブライアンがツアー活動から離脱後、サポートメンバーとして加わったグレン・キャンベルを中心に撮影された65年2月のステージの模様である。
グレンはブライアンから引き継いだフェンダー・プレベのホワイト・モデル、アルはストラトキャスター、カールはヘッドがホッケー・スティックにように長いフェンダー・エレクトリックXIIのプロトタイプを各々プレイしている。デニスのドラム・セットは当時愛用していたcamcoだろうか?バスドラのヘッドのロゴがないので確認できない。
何よりこのコンポジションからのカラー画像を目にするのは、コアなビーチ・ボーイズ・コレクターも初めてではないだろうか。
音楽ファンならご存じの通り、惜しくもグレンは今年8月8日に81歳で逝去した。
この場を借りてあらためてご冥福を祈りたい。
(個人所蔵のポジフィルム画像により、無断転載と営利目的の使用を禁じます)

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The Beach Boysの歴史の中で12月は大きなイベントが起きることが多い1964年12月7日Brian Wilsonは最初の妻Marilynと結婚する。
春先に強権的で過干渉だった実父Murryを解雇し、心の安定を得られるかに見えたが楽曲制作の一切、ツアーなど全ての予定に追われプレッシャーは高まるばかりでありさらなる安定を求めてBrianは結婚を選んだ、しかしその安定もわずか十数日で終わる。
1964年12月23日Houston公演のため飛行機に乗り込んだThe Beach Boys一行のうちBrianがパニック症状を起こし一時錯乱状態となるもなんとかHoustonに到着する。現地のホテル逗留後もBrianの症状は安定せず、翌日の公演が危惧された。

ここからの記述は各種の伝記やドキュメンタリーで異なるBrianも含めて出演した、というものもあれば部屋にこもり翌日帰還したという話もある未確認であるが、現在も現地でDJを務めるRon Fosterという人物によれば、当時Detoursというバンドに所属し、何かのコネでThe Beach Boysの楽屋に入ることができたが楽屋でのBrianの様子は虚空を見つめ終始静かで、誰にも気がつかれないほどの様子であったとのことである、その後ステージに出たとのことであるが、真偽は定かでない。

経緯はなんであれ、The Beach Boysは南部のツアーをBrian抜きで行わざるを得なくなってしまったサポートメンバーの補充が考慮され翌日24日にGlenn Campbellの招聘が決定する。
今回のツアーの直前、The Beach BoysはABCTVの人気音楽番組Shindigに出演し当該番組のハウスバンドShindogsにGlenn Campbellが在籍していた。当時のメンバーは錚錚たる顔ぶれである。

Joey Cooper, Chuck Blackwell (drums), Billy Preston, 

James Burton, Delaney Bramlett, Larry Knechtel (on bass),
Leon Russell (on piano) and Glen D. Hardin.

その縁のみではないが、従来からレコーディング現場で双方の信頼関係は厚かったと思われる。

当時のGlenn Campbellはすでに売れっ子で多くのヒット曲のセッションで重宝され、音楽活動とは比重が小さいが俳優もしていた。
忙しさはむしろGlenn Campbellの方がBrianより多かったと思われるが、責任感からくるプレッシャーは段違いだったのだろう。
結局Glenn Campbell自身も多忙になりツアーへの同道が困難となり代役が検討されBruce Johnstonが1965年4月8日に決定する直前まで、後に70年代以降The Beach Boys関係で参加することになるEd Carterも検討されたが本人の事情で結局Bruceとなった。
そもそもCapitol契約後Al Jardineをメンバーに招聘した理由も音楽業界を熱望するAlの思いに応えたこともあるがAlにベースを任せてBrianはスタジオワークなどに専念しようという構想があったようである。
この後ツアーメンバーは安定し、Brianの制作活動も軌道に乗り始めるがこの数年後大きな試練が始まるのは誰も予想できなかっただろう。



今回紹介するアイテムは少なくとも1965年2月に現像されたものと推測されるので、Glenn Campbell加入直後のものと思われる。
画像の内容に戻ろう。何かの間奏でCarlのギターソロの瞬間をとらえたいい雰囲気が出ている。真剣な表情なのでオリジナル曲なのだろう。Alのバレーコードっぽい指使いも気になる。
観客の視線はステージ上というより端のどこかで、珍妙なモンキーダンスを踊るMikeに注がれているようだ。
会場の黄色い声援に応えながら演奏する気迫を感じる1枚である

Have a happy, healthy, peaceful Holiday Season, and all good things in 2018 with love and mercy!

(text by -Masked Flopper- / 編集:ウチタカヒデ)


佐野邦彦氏との回想録7・鈴木英之

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あけましておめでとうございます。
今年もWeb.VANDAをよろしくお願いします。
平成年号最後となる2018年第一回目の投稿は、佐野さんが肝いりで大プッシュしていたNeil Sedakaなどが掲載されたVANDA22でのやりとりを回想してみたいと思います。

まずVANDA21が届き、そこにはさまれた手紙には「ソフト・ロックA To Z」単行本出版のことと、「今後も流行に関係なく「いい音楽を紹介する」というスタンスを守って地道にやっていきたい」とあり、末尾には前回同様「次回締め切りは410日です」とあった。


このメッセージを受け、私は連載を始めた「Music Note」の1971年に早速取り掛かることにした。そんな中、佐野さんから興奮気味に「次回でNeil Sadakaを組みます。特に1970年代は凄く良いですよ!」とかなり熱い連絡が入った。私は’71年の「Superbird」以降リアルに聴いていたので、「Rocket時代の『Steppin’ Out』はいい曲結構ありますよね。
特に「Bad And Beautiful」「Summer Night」なんか」と切り出し、そして「’75の「悲しき慕情(Breaking Up Is Hard To Do)」の焼き直しは、’74年に出た『(DavidCassidy Live!』のテイクが元ネタだと思いません?」まで発展した。さらに「Captain & Tennilleがカヴァーして大ヒットした「愛ある限り(LoveWill Keep Us Together)」のオリジナルのバックは10㏄が演奏してますよね」といったかなりコアな話にまで及んでいった。ただ私は当時の音源を全部持っているわけではないので、手持ちに無い音源の話をされると、まごついてしまうこともしばしばだった。そんな時は彼が入手したLPをダビングしたカセットが次々に送付されてきた。


そんな経緯で佐野さんのSedaka研究に付き合うようになり、英米では収録曲が違うLPがいくつか存在することを初めて知り、改めて彼の研究熱心さに敬服した。
そんなある時、「Sedakaが再ブレイクした時期は、1960年代初期に一斉風靡したPaul Anka Frankie VarriRightous Brothersなんかもカム・バックしてましたよね。」という話に繋がり、そこでは彼お得意のFour Seasonsの話に広がり、まだ一度もあった事のない同志のとは思えないほど会話は弾む一方だった。すると、佐野さんから「そこまでご存知なら、鈴木さんも1970年代のPaul Anka書けませんか?」とリクエストされた。佐野さんのSedakaに対する思い入れが半端でなかったので、成り行き上Paul Ankaを書くことを安易に承諾したが、電話を切ったあとその安請けあいを後悔することになったが後の祭りだった。


ということで、22にも2本書くことになってしまい、とりあえず音源のチェックをすることにしたが、前回同様コラムをまとめるには音源不足は明らかで、前回同様京都・大阪へ探索ツアーとなった。ただ私がまとめようとする対象はプレミアもつかないようなありふれたものでああるものの絶対数が少なく、ゲットできたのは大阪のForeverで『Wake A Fine Line(マイ・ソングス~朝のとばりの中で)』のみだった。

とはいえひとつのことに集中できない私はせっかく遠出するのだからと、余計な音源にも手をのばし、当時王様が流行らせていた「直訳ロック」の元ネタとなった1970年代の日本語訳詞盤も買いあさっていた。そんななか、原稿の進行具合を問い合わせてきた佐野さんにForeverで「Questions 67&68(日本語版)」を見つけた話をすると、彼も興味があるようで即Foreverにオーダーをかけ、しばらくはこの話でもちきりとなった。

  当時は、Policeの「De Do Do Do,De Da Da Da」やMarliyn McCoo&Billy Davis Jr.の「星空の二人(You Don’t Have To Be A Star)」の日本語詞盤を入手したばかりだったので、自分の所持している音源をありったけダビングして佐野さんに送った。それが届くと即座に彼から連絡が入り、「鈴木さん、このネタ面白いよ!これもまとめてみてはどうですか?」と要請され、これまた佐野さんにのせられるように引き受けてしまった。
それにしても、VANDAには(締切厳守の)充実した作家陣が控えているのに、佐野さんは(内容はともかく)常に締切が危うい私に、よく3つもコラムを依頼したものだと感心してしまった。
そんな流れでコラムを3つ引き受けてしまったが、締切超過傾向癖だけは何とか回避しなければと、焦りながら音源収集に精を出していた。ただ思うように音源が集まらず内容が進行せず悶々とした日々が過ぎていった。
しばらくすると、関西方面から名古屋に足を延ばすようになった。
そこで偶然にも1982年に娘のDara SedakaがDavid FosterのプロデュースでリリースしたセカンドLP『ガール・フレンド(I'm Your Girl Friend)』(松本零士映画作品『1000年女王』の主題歌「星空のエンジェル・クィーン(Angel Queen)」を収録)を発見した。そのLPは即座に購入したが、私が持っているよりも佐野さんが持っていた方が価値があると思い、そのまま彼にプレゼントした。そこから1980年に父娘デュエット「面影は永遠に(Should’ve Never Let You Go)」が全米21位のヒットとなりSedakaの『In The Pocket』に収録されていたことを思い出し、佐野さんに連絡するも彼は収集済みの情報だった。

  こんな寄り道をしながら、当時のことがかなりリアルに頭に浮かぶようになり、とりあえずPaul Ankaからまとめることにした。ただ佐野さんのようにすべてを把握して、詳細を細かく紹介していくには自信がなかったので、Ankaが何回も再録する名曲「愛のバラード(Do I Love You)」と個人的なフェイヴァリット・アルバム『孤独なペインター(The Painter)』(1976年;未CD化)、それに山下達郎氏の『Circus Town』(1976年)A面と参加ミュージシャンが共通する1977年の『Music Man』など個人的に思い入れの強い作品を中心にまとめることにした。ということで、現在は名盤の誉れ高い『Wake A Fine Line』(1983年)については、AORとしては好盤であってもAnkaの存在感が薄く思えたので、軽い扱いにおさえた。こんなポイントで勢いだけで一気にまとめあげ、珍しく締め切り前の3月中に原稿は完成した。

第一関門をクリアし、次に取り掛かったものが「Music Note ‘71」だった。この年は新年からチャート番組にどっぷりつかり始め、夏には木目の美しい家具調の(今は消滅した)Sansui製ステレオを購入してもらい、こつこつとレコード収集に邁進しはじめた時期とも重なり、印象が強くネタには困らなかった。ちなみにステレオは、The Beatles(以下、B4)が新聞広告やT.V.CMに登場していた東芝IC Bostonが欲しかったが、電気店の勧めでこちらに落ち着いた。なおこのステレオは当時一世を風靡した4チャンネル・ステレオ(SQ4)で、このシステムで聴いた『天の守護神(ABRAXAS)/Santana』のサラウンド感は今も忘れられないほど感動ものだった。



第一関門をクリアし、次に取り掛かったものが「Music Note ‘71」だった。この年は新年からチャート番組にどっぷりつかり始め、夏には木目の美しい家具調の(今は消滅した)Sansui製ステレオを購入してもらい、こつこつとレコード収集に邁進しはじめた時期とも重なり、印象が強くネタには困らなかった。ちなみにステレオは、The Beatles(以下、B4)が新聞広告やT.V.CMに登場していた東芝IC Bostonが欲しかったが、電気店の勧めでこちらに落ち着いた。なおこのステレオは当時一世を風靡した4チャンネル・ステレオ(SQ4)で、このシステムで聴いた『天の守護神(ABRAXAS)/Santana』のサラウンド感は今も忘れられないほど感動ものだった。

 話はコラムに戻るが、この年は書きたいことだらけだったのでジャンル分けしてまとめることにし、<スクリーン関係><ビッグ・ネーム><’60年代物><ヨーロッパ・ヒット><ロック関連><ポップス><アメリカン・ポップ><アイドル>の8項目とした。なおこの年10月には、初めてロック・コンサート(Led Zeppelin)に足を運んだこともあり<ロック関連>に力が入った。内容については、元々この年から始めたいと思っていたほど自信があったので、一気に書きまくり、これまでまとめた中では一番スムースに完成した。完成直後、佐野さんに毎週「サザエさん」でB4CM(『Let It Be』のルーフ・トップ・コンサート映像)を放映していたことを話すも、残念ながら彼はあまり印象に無かったようだった。


そして、ロック・ミュージシャンが日本語で歌った曲の特集「EJ Songs」残すのみとなった。このコラムは佐野さんが特に楽しみにしていたものだったので、周りの知人たちに当時のことを確認しながら進めることにした。まず、当時の会社後輩Ka君に尋ねると「やっぱりScorpionsの「荒城の月」ですよ、確か「君が代」も演奏していたはず。」、旧勤務先で音楽評論家となった後輩Ko君は「Chicagoの「Lowdown」は日本語にしようか、英語にしようか迷いました。」、昔の部下U嬢は「Three Degreesの「にがい涙」は「夜のヒット・スタジオ」で見ました!」など興味深い話が色々と聞けた。
佐野さんは私が録音して渡した中の「星空の二人(You Dion’t Have To Be A Star)」(「ふたりの誓い(Two Of Us)」B)がお気に入りで、「日本語で歌われている唯一の全米No.1ソング」が口癖だった。

   このように予想以上の反応に、あっという間にまとめ上げた。ただ、寸評としてまとめるよりも本音の会話風にしたら面白いのではないかと思い、筒井康隆氏の『笑うな ショート・ショート集』(1975年)をモチーフに、飲み屋での雑談風にまとめてみた。そのまとめ上げた手法は、当時のことや音楽に興味のない同僚たちには大受けだったが、真面目な佐野さんからは「ちょっとふざけすぎ」とストップがかかり、普通の解説書に戻し入稿した。余談ながら、この会話手法は後にオファーを受けた『林哲司全仕事』の中で活用し、内容については地元のチューバ奏者S氏の番組「Boss Junアワー」(まりんぱる/FM清水)にゲスト出演し、2週(2時間)に渡って特集を組み放送させていただいた。


こんな経緯で悪戦苦闘した今回の原稿は、二週間ほど遅延してしまったが、どうにか無事仕上げることが出来た。その後に送付されたVANDA 22には「VANDA2冊目の単行本「Beach Boys Complete」が出版されます。」とメモがはさまれており、以前この本をまとめる際に山下達郎氏ご本人から、内容について直接電話があったという話を思い出した。

 また末筆には、「今回は特に多くの原稿をお書きいただき、ありがとうございました。」とあり安堵したが、「次回の締め切りは10/10です。」と編集長としての一言も忘れてなかった。なお、佐野さんが精魂込めてまとめたNeil Sedakaは1999年に来日し全国8ヶ所9公演の日本ツアーを敢行している。ただ、この公演でのレパートリーはほとんど1960年代のオールディーズが中心で、残念な事に佐野さんが力説した1970年代のナンバーはまばらで、公演に足を運んだ彼は落胆されていた事実を加えておく。 

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Murry Wilson's very rare SP record

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Murry Wilsonのソングライター期の活動について米国での研究によって徐々に明らかになりつつある。
今回Murry Wilsonの楽曲を含むSP盤を当方は発見した。 


The Bachelors
If The Sun Took A Shine To The Moon/Happy,Happy Holiday(Murry Wilson)
Palace Record 111 




The Bachelors
Uncared For/I'll Hide My Tears(Murry Wilson)
Palace Record PA-116  

早熟の天才Brianに立ちはだかるMurry Wilson、作曲家として大成できず、屈折した愛情を息子たちへ注いだ、というのがもっとも人口に膾炙しているものであろう。これらは70年代Brian復帰待望論の中、いくばくかの肉親同士の軋轢はあれど、悲劇の天才Brianという彼の才能を際立たせるため、西洋古典文学にありがちな近親憎悪というテーマを引用し忠実に伝記類の中で物語を組み立てたにすぎない。
実際、息子たちの不安定なデビューと違い、父の楽曲はマイナーからメジャーレーベルで取り上げられ、短期間ではあったが安定したリリースの実績があった。
極めて初期に確認されている作品は、当時本人は30代半ば、1951年The Four Flamesの歌う「Tabarin」という曲である。



このグループは多くの変名で1960年代中期まで西海岸で活躍したヴォーカルグループで多くのレーベルからリリースしており、同曲はSpecialty傘下のFideltyからリリースされた。
またバージョン違いかつThe Hollywood Four Flamesの変名でUniqueよりリリースされる。 ほぼ同時期にBob WilliamsがFederalから、The TangiersがDeccaよりリリースしており、同曲は酒場で起きた失われた恋を情熱的に歌い上げる形式となっている。
Murryの手がけたラブソングは、報われない過去の失恋といったテーマが多く、Brianの楽曲にも同様の傾向があり、父の影響がある程度うかがわれる。
また同曲のクレジットにGuild Musicとあり本誌読者ならお気づきと思われるが、The Beach Boys誕生にあたり大きな役割を果たしたMorgan夫妻の音楽出版社である。
したがって、MurryとMorgan夫妻の交流はThe Beach Boys結成前からあり、夫妻を通じてMurryは音楽業界について理解を深めていったのだ。
1952年にMurryはある楽曲についてGuildと契約を結んだ。
「Two Step,Side Step」という文字どおりダンス曲である。
「Tabarin」とは違い陽気なノヴェルティソングでダンスステップも考案された。このステップは社交ダンススタジオによるもので同スタジオは会場をSanta MonicaにあるAragon ballroomにおいていた。
伴奏は後に有名になるLawrence Welk Orchestraが担当していた。
このAragon ballroomはRock’nroll時代の到来と共に急速に寂れるが60年代中期に若手ミュージシャンにより使われだして再び活気を取り戻した、The Doorsが本拠地にしていた時期もあったが後年火災で消失する。
「Two Step,Side Step」で再び本誌読者はお気づきかと思われる、評伝類は同曲をLawrence Welkの演奏によるラジオ放送の点のみ取り上げることが多く、つかの間の栄光に浸るアマチュア作曲家Murry Wilsonというイメージで描写していることが多い。しかし突然自分の曲がラジオでかかるというのは極めて不自然ではないのか?
Murryはオンエアされることをあらかじめ知っていた、しかもラジオ局へ事前の根回しなどのプロの仕事が介在しているのと推定されるのが自然ではないのだろうか? そもそも「Two Step,Side Step」とはいかなる状況で世間に出ることになったのか?
The Four Flamesの楽曲提供からMurryとMorgan夫妻の関係は良好であり、新たな曲の売り込み先を探していた。ちょうど同時期に地元のPalace Record社長Alfred Schlesingerは南カリフォルニアのラウンジで演奏する三人組を気に入り自分のレーベルからデビューを画策する。
Schlesingerは法曹資格を持ちながらレーベル経営者という異色の経歴を持つ人物で、不思議なことに数年後The Beach Boysがデビュー音源を巡って訴訟があった際は代理人として関与している、その後も音楽業界に詳しい弁護士として業界でも有力者となり、バンドBreadの設立にも関与していた。 その三人組の名はThe Bachelors、ただし同名の英国出身グループではない、メンバーにまだ十代のJimmie Haskellがいた。Jimmieは母の友人のお陰で音楽業界にコネクションがきき、後にImpeiralに入社し、Rick Nelsonのアレンジャーとして頭角を現し様々な分野で活躍する。サウンドトラックから“さだまさしまで”とにかく幅が広く、本誌読者へは怪盤California'99がお勧めである、Millieniumのカバーが秀逸だ。

話をBachelorsまで戻そう、Morgan夫妻がSclesingerの話を聞き接触があり彼を自宅に招き「Two Step,Side Step」のデモなどを聴かせ他結果Murryの楽曲採用を快諾した。

その後レコーディングが行われるが、スタジオは当時完成したばかりのGold Star Studio! 
Murryも現場に立ち会ったとのことで、なんと親子二代で利用したことになるのだ Schlesingerの回想からは「Two Step,Side Step」/「I'll Hide My Tears」/「Fiesta Day Polka」 とのことである。
ただしこれらの音源は今まで確認されておらず、「Fiesta Day Polka」自体BMIに登録されていない事実があった。「I'll Hide My Tears」は前述のThe Four Flamesの変名The JetsがAladdinよりリリースしておりR&Bやヴォーカルグループコレクターも一目置くレア・アイテムとなっている。
今回のSP盤の発見で少なくとも、Palace Recordのレコーディングは実在したことが裏付けられ、さらに現在まで未確認であった「Happy,Happy Holiday」まで発見された。
このことから「Two Step,Side Step」のリリースがあったことが推定されるが、Palace Recordのディスコグラフィについての研究はまだ端緒についたばかりのため今後の研究に期待したい。
「Two Step,Side Step」のThe Bachelors先行リリースがあったと仮定した場合Murryのラジオ放送の逸話もうまく繋がってくる、すなわちThe Bachelorsのプロモーションの一つとしてLawrence Welkへ演奏を依頼したのだ。番組からヒット曲が出ればレコードも売れる、同時にダンスのステップも全米で流行すればLawrence Welkの番組も人気が出るし、社交ダンススタジオも入会者が増えて、お互いにとって利益がある、というのが背景にあったと思われる。
The BachelorsはヒットしなかったがMurryはプロの一員として音楽業界に橋頭堡を築いた。これらを裏付ける資料は皆無であるが、後に同曲はカバーされており、RCA Victor/King/Decca/Recorded In Hollywood からそれぞれ別々の歌手が録音してシングルがリリースされている。
The Bachelorsの企ては失敗に終わったが、Lawrence Welkはこのラジオ番組がきっかけで全国ネットへ移行し、テレビ番組も開始し長寿番組となる。Aragon Ballroomにあった社交ダンススタジオは世界でも指折りの社交ダンススタジオへと成長を遂げている。 
(text by -Masked Flopper- / 編集:ウチタカヒデ)

 

佐野邦彦氏との回想録8・鈴木英之

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早いもので、この投稿も8回目(今年2回目)になる。前回はVANDA22に掲載されたコラムについて佐野さんとのやりとりを紹介させていただいた。それらを仕上げるために休日や帰宅後の時間を全てつぎ込んでの制作は大変なものだった。こんな調子で安請け合いして続けていくのは、実に厳しいことだとおもいしらされた次第だ。その反省から佐野さんとの話が盛り上がっても、これからの投稿は予め決めていた「Music Note」一編に絞ろうと決めていた。ただ、この回想録の一回でもふれたように、「23」では佐野さんに推薦した「Pilot」「Jigsaw」について情報提供に協力していたので、実質は複数に関わったのが現実だった。とはいえ、このような作業を長年に渡って編集までやり続けている佐野さんの行動力には改めて敬意を表したい心境になった。

そんな状況ではあったが、この頃投稿意外に最も興味を持っていたのはVANDAのバック・ナンバーの内容チェックだった。特にSuger Babe以来長年のファンだった山下達郎さんとのインタビューが掲載されていると聞いていた「3」は絶対に読んでみたかった。そんなバック・ナンバーについて佐野さんにその所在を問い合わせると、「全国で取り扱ってもらっているショップには(返本しないことを前提に)委託したままになっているので、どこかにはあるかと思いますよ。」とのことだった。

そこで、レコード探索に出かける際には、VANDAの取扱いショップでのバック・ナンバー探しも並行するようになった。まずは地元滋賀からスタートして京都・大阪・神戸と回るも、なかなか成果は得られず、次は自宅の滋賀から実家の静岡までの帰省経路にあるショップをターゲットにした。具体的には、岐阜・名古屋・豊橋・浜松などで、当然ながら静岡県内も行けるところは全て回る計画を立てた。そんな帰省の途中、名古屋の「バナナ・レコード」で自社の発行するフリー・ペーパーに「VANDA」の推薦文が掲載されている記事を発見した。「ここにもVANDAの支持者がいる!」と感激のあまり、自宅に戻ると即佐野さんに連絡を入れた。ところが、あいにく彼は不在だったので電話を取られた奥様にこのことの伝言をお願いした。すると「主人は人気あるんですね。」と。さらっとした返答に「そんなもんかなぁ」と気が抜けてしまった。



そんな出来事に気分良くし、少しずつではあるがバック・ナンバーを入手していったが、お目当ての「3」はどこでも売り切れだった。徐々に諦めムードが漂い始めていたが、ある時立ち寄った豊橋の「ラビット・フット・レコード」(ex.2003831日閉店)で、ついにお目当ての「3」をはじめ手元にない多くのバック・ナンバーを入手することが出来、「1」「2」以外はほぼ揃った。それをきっかけにVANDA誌の探索はここまででストップにした。この入手したバック・ナンバーを読み返し、改めてサラリーマンの傍らVANDAを発行し続ける佐野さんの情熱を再認識することができた。


少々話が本論からそれてしまったので、「23」の制作経緯に話を戻すことにする。この号に掲載した「Music Note」の1972年は、お気に入りのヒット曲をチェックするだけでなく、ラジオなどで耳にした自分好みの曲を血眼になって探すようになっていた時期だった。それゆえ当初は書きたいことだらけで、収拾がつかなくて困っていた。そこで佐野さんに相談すると、「ミュージシャンから派生した思い白い話はなかったですか?」と尋ねられ、即頭に浮かんだ出来事があった。

それはこの年の11月に発表されたRolling Stonesの来日公演(影の仕掛け人は、後に参議院議員糸山英太郎氏)のチケットを手に入れるため、友人と三人で上京したことだった。この時期は受験生の身でありながら、前売り券を手に入れるため、ふとどきにも3日間学校をエスケイプした。なおこの公演は73年の1/282/15回公演予定で、発売日は12/1だった。そこで「発売日の2日前なら余裕だろう」と意気込んで発売場所となった渋谷東急本店プレイ・ガイドを目指した。しかし、そこには既に1,000人以上詰めかけていて、行列はビルの地下駐車場に並び、13回の点呼を受けながら、空いた時間は渋谷・新宿界隈を彷徨っていた。この徹夜組は当日までに4,000人にも及び、その報道は新聞紙面を飾った。ちなみに、チケットの価格はS12,700円で、当時同じくスーパー・スターの来日として話題になっていたTom Jonesの来日公演のS30,000円(大阪公演は、33,000円)にくらべ、かなり破格の価格だった。(当時のOL平均月収50,000円程度)その話を聞いた佐野さんは、「それだけでコラムになりますね!」と絶賛だった。そう言われるとここには触る程度で、いつか別の形でまとめようと思うようになり、その後2012年に出版した『よみがえれ!昭和40年代』(小学館)で紹介した。



また、価格といえばChicagoの初ライヴ『Live At Carnegie Hal』のことも忘れられない出来事だった。そのアルバムはなんと「4枚組7,800円!」と、その価格設定に「誰が買うんだ!?」とうそぶいていた。本国では2枚組程度の価格で、輸入盤では2,000円ほど安く(その価格も決して安くはなかったが)売られていた。手に入れたい衝動を抑えられず、当時昼食代として渡された小銭をピン・ハネし、数か月昼食抜きにして貯めこみ手に入れた。「鈴木さんよくそこまでやりましたね。私は5,000円超えていたら諦めてますよ。」と佐野さんに言われたが、「いや、これはオールナイト・ニッポンの亀ちゃん(亀淵昭信氏)が学生時代にやっていたことを見習っただけです!」と付け加え、大爆笑になった。



そんなやりとりをしながら、その他にインパクトの強かった記憶を振り絞った。そこでまず閃いたことが、Alice CooperのパンツをはいたLPレコード『Scholl’s Out』」だった。さらにこのレコード・ジャケットは、組み立て式で「学校の机」になる仕様で、その中からパンツLPが取り出せる仕掛けが話題になっていた。ちなみに、このパンツは『すいか/サザンオールスターズ』(1989721日発売)の付録の元ネタになっているので、かなりメジャーな話題のはずだ。そして、それと同じくらいインパクトのあったニュースといえば、フレンチ・ポップスの貴公子Michel Polnareffのパリ・オランピア劇場公演の「お尻丸出しポスター」で、当時は「見せるルノレフ」といじられていた。余談ながら、私の妻は「自分の葬儀には「愛の休日(Holidays)」を流して欲しい」と宣言するほど彼の大ファンで、彼女に前ではとても口に出来ない話だ。なお佐野さんと私が大変お世話になった元音楽之友社のK氏の初ライヴはポルナレフだったそうだが、親同伴であのポスターみたいなことされたらどうしようかとドキドキしながら鑑賞していたとのことだった。



さてヒット曲の傾向だが、当時は新進のシンガー・ソングライター(以下、SSW)が続々と頭角を現していた。その代表的格としては、ギター初心者だった私でもEm7さえ押さえれば簡単に演奏できた「孤独の旅路(Heart Of Gold)」のNeil Young、後にMadonnaにもカヴァーされた「American Pie」のDon McClean、そしてEaglesの「Take It Easy」の作者であり、Jackson Fiveにも取り上げられた「Docter My Eyes」のJackson Brownらだった。

そんな彼らの活躍で日本でもSSWブームが到来していた。それは「結婚しようよ」で大ブレイクしたよしだたくろうをはじめとするElecレコード所属シンガー、泉谷しげる・ケメ・古井戸などが目立っていた。そんな話になると佐野さんは和製CSNYと呼ばれていたGaroについて熱く語りはじめた。彼とは「学生街の喫茶店」の位置づけで、「良い曲だけど、あれはGaroにあらず」「Garo1stと「美しすぎて」まで」という共通認識があったので、話は大いに盛り上がった。さらにTin Pan系が参加した『吟遊詩人』も、売れなかったけど音楽的にセンスの良いアルバムという評価も同意見だった。ただ後に「学生街の喫茶店」抜きのコピレーション『エッセンス・オブ・ガロ・ソフト・ロック・コレクション』(1998)をまとめるコアなGaroファンの佐野さんだったが、このCDに収録された「美しすぎて」をシングルではなく、アルバム・ヴァージョンで収録してしまったことをずっと後悔していたのが忘れられない。



こんな感じで、「23」の制作過程では余計な回り道をしていたので、今回もあまり余裕を持って原稿を仕上げることが出来ず、「締め切りは10/10」と受けていたが、完成したのは二週間遅れの10/24だった。その後完成したVANDA 23には「VANDA3冊目の単行本『All Mod Cons』の発売予告」と「次号よりVANDAは年一回発行、ネットのWeb.VANDAで毎月情報更新」と書かれていた。これ以降は本格的にネット参入していくことになり、佐野さんとの雑談で閃いたネタは雑誌ではなく、Web.へアップするようになった。本誌には私がこだわってまとめたコラムのみを掲載するようにした。



そんな状況にはなったが、ネットもさほど発達していなかったこの頃、私の情報源は相変わらずショップの巡回というアナログなものだった。そんな時に佐野さんから「音源が見つからなくて困った時には、国会図書館にいったらどうですか。あそこなら著作に関するものは全て揃ってますから!」という話を聞き、「国会図書館」でのチェックを始めるようになった。ただ、確かに全てチェック出来る場所ではあったが、「13点」(当時、現在は13点、13回まで)という制約があり、出向くときには慎重に厳選して向かった。そんな活動にシフトしていったが、関西や中部圏と違い東京と滋賀の往復は日帰りできるような距離ではなかった。そして個人的な趣味での活動だったので、移動手段は「夜行バス」や「青春18きっぷ」を駆使して、宿泊は京葉線の稲毛海岸に住んでいた後輩のM君のマンションに間借りさせてもらいながら通った。

VANDAに参加してから早2年、国会図書館通いで上京する事が増加し、何度目かの上京の際にやっと佐野さん本人に会う機会を持ち、彼の仕事帰りに三軒茶で合流した。偶然にも最終学歴が同じ中央(学部は別)という事を知り、音楽以外の話も含め大いに盛り上がった。そこでのディープな会話はこれが初対面とは思えないほどで、好奇心が強くなんでも聴きまくる雑食系の私は、頭脳明晰で探究心が強く研究熱心な佐野さんとお互いの意思疎通ができ、これから2017年までの付き合いが再スタートした。とはいえ、これ以降彼と生前直接会うことが出来たのはわずか5回だった。しかし、いつどこでどんな話をしたのか今も鮮明に頭に浮かぶほど内容の濃い付き合いだった。

 ということで、今回は「23」制作過程を通しての回想をまとめてみた。次回の振り返りでは、医者の松生さんがVANDAに参加するきっかけとなった経緯などについて紹介させていただく予定だ。


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shinowa:『Flowerdelic』 (LITTLE EYES IN A MEADOW/LEIM-002CD)

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昨年6月に16年ぶりの新作シングル『Snow, Moon, Flowers』で、その活動を本格的に復活させていたshinowa(シノワ)が、2月5日に満を持してフル・アルバム『Flowerdelic』をリリースした。
shinowaはリーダー兼リードヴォーカル、ギタリストの山内かおりとギタリスト兼プログラミングの平田徳(ヒラタハジメ)を中心に結成され、60年代中後期のサイケデリック・ロック、80年代後期~90年代初期のシューゲイザー/オルタナティヴ・ロックに通じるそのサウンドは、海外のミュージシャンや音楽関係者にも評価が高く、耳の肥えたVANDA読者なら興味を持つ筈だ。 

前回のレビューと重複するが改めて最新のプロフィールを紹介しておこう。
彼らは96年に大阪で結成されたサイケデリック・ギター・ロックバンドで、GYUUNE CASSETTE 傘下の Childish Soupより『bloom~光の世界』を01年にリリースし数度のメンバーチェンジのあと、野有玄佑(ベース&ドラム)が加入して現在の男女3人組となっている。 11年には米サイケデリック・ポップバンド、MGMT(エム・ジー・エム・ティー)より直々にオファーを受け、彼等の来日公演のオープニングアクトを務めた。
また昨年リリースした『Snow, Moon, Flowers』は、全米で数年前からカセット・ブームを牽引しているカリフォルニアのBURGER RECORDSのコンピ・カセット『BURGER WORLD JAPAN』(17年9月) に収録され、その後英レビュー・サイト  VINYL FACTORY でレビューが掲載された。
この状況を知れば、現在も彼らが国境を超えて高く評価されていることを理解出来るだろう。
なお本作は『Snow, Moon, Flowers』と同様にHammer Label主催で、シンセサイザー・プログラマーやエンジニアとして、ムーンライダーズや渋谷系のクルーエル・レコーズから歌謡曲フィールドまで幅広く活躍していた森達彦氏がプロデュースとミックスを手掛けており、その手腕が随所で発揮されている。

   
では本作で筆者が気になった主な曲を解説しよう。 
冒頭の「One」は山内のソングライティングにエダナマイが英歌詞をつけた、80年代後期~90年代初期のクリエイション・レコーズのサウンドに通じるギター・ポップで、ディストーション・ギターやノイジーなシーケンス音をループして空間系エフェクトで処理したトラックと、山内のスウィートなヴォーカルとのギャプが実に素晴らしい。リズム的には8と16ビートにサンバ系のブラジリアン・ビートのエッセンスを持ち独特の浮遊感を醸し出している。本作のリード・トラックとしてそのクオリティは高い。
「Sit with the Guru」はVANDA読者ならご存じの通り、Strawberry Alarm Clockのカバーでセカンド・アルバム『Wake Up...It's Tomorrow』(68年)に収録された、「Tomorrow」(67年)に続く先行シングル曲である。ここでのヴァージョンは彼ららしさと言うべきサウンド・エフェクトが目映いサイケデリック・ポップに仕上がっており、Strawberry Alarm Clockのオリジナル・メンバーで作曲者の一人であるマーク・ワイツも絶賛している。
ワイツからのコメントはshinowaオフィシャル・サイトで読んでみて欲しい。 因みに彼らはバンド結成当初からこの曲をレパートリーとしており、本作には最新ヴァージョンをレコーディングしたということだ。

   

昨年初頭、shinowaの音源を初めて聴かせてもらった時から筆者のフェイヴァリットだったのが、「Silent Dawn」である。ギター・ポップとシューゲイザーにそのルーツの一つというべき60年代サイケデリック・ロックのエッセンスが程よくブレンドされたブリリアントな曲で、単独でソングライティングした山内のヴォーカルに施されたモジュレーション・ディレイ系のエフェクト処理も相まってドリーミングである。
続く「Unisol」も山内単独のソングライティング曲であるが、シューゲイザー的サウンドは影を潜めたプリティーなギター・ポップと思いきや、後半にはしっかりファズ・ギターとフリーキーなオルガンのフレーズがちりばめられていて侮れない。この曲には長崎を中心に活動するアコーディオン(fisarmonica)奏者のLOCOがマリアッチなプレイで参加している。
ラストの「Red Flower」は『Snow, Moon, Flowers』カップリングの「Almost Certain」(原曲:「たしからしいということ」)と同様に、『bloom~光の世界』収録の「赤い花」を英歌詞化しリアレンジした曲である。プログレッシブ・ロックの要素もある変拍子のこの曲も山内のソングライティングあり、彼女の才能の奥深さを思い知らされる。
なお本作はCDとアナログ・アルバム、またカセット・テープの3媒体でリリースされており、CD以外は限定生産のため興味を持った読者は早期に入手すべきである。
 shinowa OFFICIAL WEB SITE
(ウチタカヒデ)

 

☆竹迫倫太郎:『UNION』(K&T/KTRE2001)12月6日発売予定

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Facebookでもお馴染みの竹迫倫太郎さんが、2015年から1年のロンドン生活を経て、満を持して本作、『Union』が126日にK&Tレコードより発売される。「マスター・オブ・シティポップ」と呼ばれる竹迫さん、ご存知と思うが医師である。抗インフルエンザ薬のタミフルの原料の「八角」を栽培し、いつか来る危険なパンデミックのためのジェネリック薬品の準備と合わせ、政治・経済的に不安定なミャンマーの復興支援のための「八角平和計画」を歌にした「すべては愛のために(Theme Of S.A.P.P)」も収録して完成させた。ご本人も今までの最高傑作というだけあり、全10曲、高いクオリティの曲ばかりで驚かされた。ご本人は今までBeach BoysBrian Wilsonの影響を受けた曲が多かったが、今回はイギリスでの一年間の生活も含め、音楽を始めるきっかけとなったPaul McCartneyを意識して音楽原点のひとつであるブリティッシュ・ロックを意識したアルバムを作ったという。まさにPaulBrian、自分も含め、多くのロックファン(ポップファンとは言わない。「ロック至上主義者」の罠にはまるから。ロックが上でポップが下、ロックでも○○ロックとか勝手な見下したネーミングを付けるヘンなのと一緒になってはいけない)の最も好きな組み合わせで、どちらも意識してサウンド作りをしてくれることは嬉しい。ここで11曲、どこが何の影響で…などという聴き方は逆に全体に制約をかけてしまうので良く無い。だからアルバム全体を聴いたトータルな感想を書かせてもらいたい。曲はみなポップでメリハリがあり、日本的なウェットな感覚は感じらないのがいい。コーラスは全曲に非常に精緻に付けられていて、「Brian風」というものではなく、Brian Wilsonのようなハーモニーの技術でセンス良く曲にハーモニーが施されていた。リード・ヴォーカルは、あくまでも個人的感想だが、クセのまったくない桑田佳祐と言う感じでなかなかいいがどうだろうか。何よりも本作は竹迫さんが狙ったブリティッシュ・ロックへアプローチした曲作りだ。ビートルズ風のコードや歌のこぶしなど直接的なものはない。ただ、冒頭の「SUNDANCE」ようにアコースティックのパワフルなコードにギターが入るとブリティッシュの色が強く立ち上る。カッコいい曲だ。また「すべては愛のために (Theme Of S.A.P.P)」もただ歯切れがよくポップなだけではなく、ギターをリフ風に弾くなど細かいこだわりを見せてくれる。他の曲でPaul McCartney的なアプローチを感じるのは「星堕つ時代を越えて」ぐらいで、それよりもギターの音圧や音色が明瞭で力強く、メリハリの効いたキーボードのバッキング、いくつも織り込まれた様々なパーカッション、鉄琴など、従来のサウンドからブリティッシュも超えた竹迫ワールドが完成されている。シングルカットされる「Master Of Xmas」は、さらにアレンジ、コーラスが凝っていて、歌声と合わせて山下達郎が歌っているように聴こえたがどうだろうか。ご本人が最もBrian Wilson色が出ているという「Humoresque ~父と子の絆~」は最もコーラスワークが聴きものになっているが、間奏で一瞬弾かれる「雨雨降れ降れ」を入れるセンスもさすがだ。(佐野邦彦)


『Springs Live Picnic 2018』ライヴレポート

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2月10日に東京は千代田区神田神保町の楽屋(らくや)で開催されたSprings(スプリングス)のライヴ『Springs Live Picnic 2018』の模様を紹介したい。
Springsは、VANDA読者にはお馴染みの書籍『HARMONY POP』(2000年/音楽之友社)、『ソフト・ロック in Japan』(2001年/音楽之友社)に企画・構成、執筆で参加している音楽家のヒロ渡辺(渡辺博之)が、土屋剛、シンディ浅田と組んでいるソフトロック・グループである。
そもそもSpringsは 95年にドラマーでマルチ・ミュージシャンでもあるヒロ渡辺とヴォーカリストのシンディ浅田の二人により結成され、翌96年にセクサイト・レーベルよりミニ・アルバム『SPRINGS』でデビューした。同年デビュー作にも参加していたキーボーディストの土屋剛を正式メンバーに加えるもシンディの脱退により、翌97年に二代目ヴォーカリスト毛利公美子を迎え、同年アルバム『PICNIC』をリリースする。
その後活動休止の期間を経て、2009年のシンディのソロ・アルバム『I Remember You~メモリーズ・オブ・ローラ~』の制作をきっかけにオリジナル・メンバーでリユニオンし現在に至る。

さて今回の『Springs Live Picnic 2018』だが、2016年の『SPRINGS 20th ANNIVERSARY PREMIUM GIG』以降1年ごとに開催されているライヴのようだ。
ヴォーカルのシンディを中心に、アコースティック・ギターのヒロ渡辺(リード・ヴォーカルも取る)とキーボードの土屋剛がそれぞれコーラスをつけるというシンプルな3人の編成で、彼らやシンディのソロ・アルバム同様に中村俊夫氏がプロデューサーという繋がりから、ゲストにシンガーの原めぐみ(元アイドル歌手から女優、タレントに転身して活躍している)が参加していた。
当日のセットリストは以下の通りであるが、WebVANDA読者をはじめとするソフトロック・ファンには垂涎の選曲といえよう。


【第一部】
01. Don't Go Breaking My Heart
02. Workin' On A Groovy Thing
03. I'll Be Back
04. Snow Queen
05. The Carpenters Medley:
 I Won't Last A Day Without You~
 A Song for You~
 We've Only Just Begun~
 Top Of The World
06. Samba Take Seven (Lola’s Theme)
07. Under The Jamaican Moon
08. In The Morning

【第二部】
01. Our Day Will Come
02. There’s A Kind of Hush(All Over The World) ※ with原めぐみ
03. I Love How You Love Me ※ with原めぐみ
04. トビラ~Everlasting Love~ ※ with原めぐみ
05. Love On A Two Way Street
06. Guess I'm Dumb 07. The Drifter 

【アンコール】
01. God Only Knows 
02. Don't Take Your Time


冒頭の「Don't Go Breaking My Heart」から「I'll Be Back」、「Snow Queen」、ラストの「The Drifter」、そしてアンコールの「Don't Take Your Time」は、日本におけるソフトロックの聖典とされた『Roger Nichols & The Small Circle Of Friends』収録曲である。これはSpringsが男女3声のハーモニーを大事にしていることを如実に現している。
またカーペンターズ・メドレーでは、現在もカリフォルニア在住というシンディによるネイティヴな英語歌詞の発音と美声によりカレンの歌声を彷彿とさせた。実際シンディは多くの国内CMでカーペンターズのカバーを歌っているので、知らず知らずの内に耳にしている人も多いはずだ。
他にもニール・セダカの「Workin' On A Groovy Thing」やニック・デカロのカバーで知られるスティーヴン・ビショップ作の「Under The Jamaican Moon」、ルビー&ザ・ロマンティックスの「Our Day Will Come」、ブライアン・ウィルソン作で昨年逝去したグレン・キャンベルの「Guess I'm Dumb」など通好みのカバー曲で観客を唸らせた。

オリジナルの「In The Morning」や「Love On A Two Way Street」はライヴではお馴染みで、ファンにとっては欠かせないナンバーだろう。
シンディのソロ・アルバム『I Remember You~メモリーズ・オブ・ローラ~』からは「Samba Take Seven (Lola’s Theme)」が演奏されボサノヴァのリズムが心地よかった。
ゲスト・シンガー原めぐみのコーナーでは往年のファンの皆さん(メグミン隊か?)からの声援で大いに盛り上がったのは言うまでも無い。特に原自身が作詞して、渡辺が曲を提供し土屋がアレンジした「トビラ~EVERLASTING LOVE」は、ロネッツの「Do I Love You」の影響下にある完成度の高い曲である。


こんな素敵なライヴであったが、筆者的に最大のハイライトは、アンコールで弊誌編集長、佐野邦彦氏に捧げた「God Only Knows」の演奏だった。渡辺氏から語られる知られざるエピソードと心のこもった熱唱には思わず感激してしまった。
佐野氏もそのリユニオンを心より願っていたであろう、Springsの最高のパフォーマンスに心酔した一夜だった。


(文&写真:ウチタカヒデ / 写真提供:シンディ浅田氏、撮影:皆川幸男氏)

 

ウワノソラ:『陽だまり』(UWAN-003)

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2014年にバンド名をタイトルにしたファースト・アルバムでインディーズ・デビューしたウワノソラが、満を持してセカンド・アルバム『陽だまり』を10月11日にリリースする。
サイド・プロジェクトとしては、15年6月にいえもとめぐみと角谷博栄が"ウワノソラ'67"として『Portrait in Rock'n'Roll』、今年5月には桶田知道がソロ・アルバム『丁酉目録』をそれぞれリリースしていたが、バンド本体のニュー・アルバムを待ち望んでいた、ポップ・ファンも多かったと思う。

ミュージックビデオ「チャンネルNo.1」(『丁酉目録』収録)のレビューでも触れたが、桶田が今年の7月末日をもってバンドを脱退し、角谷といえもとの二人だけになってしまったのは残念であるが、基本的なサウンド・アプローチやスタイルに違いは感じられない。
それはプロデュースからアレンジ、エンジニアリングまでを担当する角谷がこのバンドの柱だったからだろう。
いえもとは初の試みとして、角谷と共作で「ときめきのブルー」の作詞に挑戦しており、今後も作詞面でも活躍してくれるかも知れない。
また桶田は置き土産として、初期の名作と言われる「Umbrella Walking」(アイドル・グループNegiccoのメンバーも好きらしい)と「打ち水」(曲は角谷との共作)のソングライティングを手掛けている。
リリース資料の角谷の文によると、この桶田作の「Umbrella Walking」を軸にアルバムは制作されたという。そこからアルバム・タイトルとなる『陽だまり』という架空映画のサントラのコンセプトが練られており、冒頭の「陽だまり -Prelude-」と「俄雨 -Interlude-」、「夕刻-Interlude-」が同じメロディを持つ変奏曲となっているのはそのためだ。

今回のレコーディングに参加した主なミュージシャンは、ファーストとウワノソラ'67の『Portrait in Rock'n'Roll』を通して関わっている面子が多く、キーボードの宮脇翔平、ベースの熊代崇人、バッキング・ヴォーカルとシンセサイザーに深町仰。新たにドラムには木村恵太、アデショナル・ギターとして西本諭史が参加している。
また初の試みとして、「遅梅雨のパレード」にゲストでカンバス(彼等は最近RYUTistの「想い出はプロローグ」にアレンジと演奏で参加していた)の小川タカシがリード・ヴォーカルを取っているのも興味深い。


では主な収録曲の解説しよう。
アルバムは本作のテーマといえる「陽だまり-Prelude-」から静かに始まる。弦楽五重奏の編成にハープと木管を加えたオケにいえもとのスキャットがリードを取る。アルマンド・トロヴァヨーリやピエロ・ピッチオーニなど60年代末期のイタリア映画のサントラを想起させて麗しい。
続く「画家と絵画」は、Love Generationの「Love Is A Rainy Sunday」やButterscotchの「Don't You Know (She Said Hello)」などソフトロックとブルーアイド・ソウルの良さを融合したような曲で、WebVANDA読者に最もお勧めしたい。筆者もファースト・インプレッションでは、本アルバムのベスト・トラックと感じた。
そして「Umbrella Walking」だが、シティポップ然とした曲調ながらTender Leafの「Countryside Beauty」(『TENDER LEAF』収録 82年)などハワイアンAORの匂いもする。Aメロはシュガーベイブもレパートリーにしていた、伊藤銀次の「こぬか雨」(『DEADLY DRIVE』収録 77年)を想起させる音符を詰め込んだ感じが初々しい。
『丁酉目録』のインタビューで作者の桶田も語っているが、ファースト収録の「摩天楼」同様に紆余曲折あったこの曲を角谷がアレンジで手助けしたのがよく理解出来る。



角谷がリード・ヴォーカルを取る「プールサイドにて」は、70年代初期のニューソウル系シャッフルのグルーヴをキープしながら、マイケル・マクドナル加入後のThe Doobie Brothersが持つブルーアイド・ソウルのエッセンスを加味している。角谷のヴォーカルには北園みなみのそれを彷彿とさせる瞬間があり、控えめながらいい味を出しているのだ。横山貴生のアルトサックス・ソロも非常に効果的で曲を演出している。
ラテン・フレイバー漂う「エメラルド日和」は、Aメロはムーンライダーズの「週末の恋人」(『イスタンブール・マンボ』収録 77年)のテイストを醸しつつ、70年代末期のCRUSADERSに通じるラテン・フュージョンのエッセンスも感じさせる。曲の全編で玉田和平による各種ラテン・パーカッションが活躍しているのも聴き逃せない。
続く「パールブリッジを渡ったら」は70年代初期のブラス・ロックとフュージョン・ロックの色が濃く、西本諭史のギター・ソロと横尾昌二郎のトランペット・ソロもそちらのテイストでプレイされている。
アルバム・リリース前に先行でMVが公開された「夏の客船」は、ジノ・ヴァネリの「I Just Wanna Stop」(『Brother to Brother』収録 78年)にも通じるソフティなAOR感覚が漂うサウンドだが、歌詞の世界観は松任谷由実の影響大で、ひと夏の不毛な愛を綴った青春の1ページを現している。理屈抜きに純粋に良い曲である。


「鳥になったようだ」は完全なソフトロック・サウンドで、ブルース・ジョンストンの名作「Disney Girls (1957)」(『Surf's Up』収録 71年)に通じるメロディ感覚やサビのクローズド・ヴォイシングのハーモニーに打ちひしがれるだろう。儚く甘い微睡みが心地よい。
ミナス・サウンドの影響下にある「渚まで」はウワノソラとしては新境地だ。交流があるLamp染谷の作風にも近く、横山貴生のフルート・ソロはベベート(タンバ・トリオ)のそれを想起させる、繊細ながら野性味のあるプレイで聴き応えがある。
ラストの「ときめきのブルー」は、角谷のクラシック・ギターで奏でられるボッサのリズムにいえものとの美しい歌唱が聴く者の心を掴んで離さないだろう。


『Portrait in Rock'n'Roll』やNegiccoに提供した「土曜の夜は」での試みが本作での向上に繋がったのかも知れないが、ファースト・アルバムより数段クオリティが高くなったアレンジやサウンドと、ヴォーカリストとしてのいえもとの表現力は、Lampの『ゆめ』(14年)にも通じる2010年代を代表する「音楽通のためのポップス・アルバム」に仕上がっている。
なお本作は自主制作アルバムなので初回プレス枚数は少ないと予想されるので、興味を持った読者の方は下記のリンクから早急に予約して入手して欲しい。

(ウチタカヒデ)

☆Favorite Musician全音源コレクティング邦楽編第12回:L-R

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1991年にレコード・デビューしたL-Rは、グループのほとんどの曲を書きリードヴォーカルも担当していた黒沢健一、その弟の黒沢秀樹、ベースの木下裕晴の3人がメンバーで、92年から2年間、嶺川貴子がキーボードで参加していた時期をはさみ、97年までに9枚のアルバム、13枚のシングルを残して、正式ではないが事実上解散している。
メンバーはそれぞれその後、ソロ活動をはじめ、旧メンバーどうしのユニットもあったが、音楽的中心である天才、黒沢健一は2016年に病気のため僅か48歳で他界してしまった。そのためL-Rは永遠にもう再結成することはない。

デビューのミニアルバム『L』は9111月にリリースされた。冒頭の「Bye Bye Popsicle」で度肝を抜かれた。小手先だけのバンドが多い中、これだけ力強くポップなチューンで、中間部のオルガンの遊びの高度なセンスなど、いったい彼らは何者と驚くばかりだった。この曲は健一、秀樹兄弟の共作で、デビューシングルB面に配された。(A面は次作の「Lazy Day」)そして全編ファルセットの幻想的な「Love Is Real」を聴き、L-Rの音楽は黒沢健一という優れたミュージシャンでシンガーが生み出したものと分かった。
924月にすぐにフル・アルバム『Lefty In The Right~左利きの真実』がリリースされる。3曲は『L』から引っ張ってきたが、冒頭の「Lazy Girl」の冒頭のフィリップス時代のフォー・シーズンズのような雷鳴のようなドラムからスタート、曲は遊び心たっぷりで、ファルセットのハーモニーも素晴らしく聴き込んでいたら次の曲へのつなぎが、私がフーのアルバムでも3本の指に入るほど好きな『Sell Out』の曲のつなぎにつかった~wonderful radio London~が出てきて、もう泣けた。このポップセンスはまったく自分の好みと同じ、いやこれから自分でソフトロックと名付けていった音楽をいち早く送り出していたのだ。そして山下達郎、大滝詠一という我々も最も好きな日本のミュージシャンを目指すというだけあってア・カペラで「With Lots Of Love Signed All Of Us」を残すなど、意欲的である。
そして9211月はサードのフル・アルバム『Laugh+Rough』をリリース、冒頭の「Laugh So Rough」は持ち前の完璧なハーモニーを生かして、ホリーズのようなアコギでスタートした「Laugh So Rough」でまたやるなと心を掴まされる。続く「Younger Than Yesterday」は、また明快なポップ・ナンバーで、ファルセットのリードも素晴らしい。
Rights And Dues」はその流暢な英語と凝りに凝ったメロディ、ハーモニーで日本のレコードに見えないくらい。ただ私はポップな曲が好きなのでやはりセカンドシングルになった「(I WannaBe With You」がポップでハーモニーに溢れ爽快そのもの、ラストを飾るに相応しい。
なおこのアルバムから2年、女性メンバーの嶺川貴子が加わっている。936月にリリースした『Lost Rarities』は『L』に未発表曲をプラスした11曲仕様で、大滝のナイアガラの影響か、イントロの曲は英語のジングルで、その後に黒沢秀樹作のキャッチーな快作「Tumbling Down恋のタンブリングダウン」で、秀樹のベスト作品が登場する。この曲はL-Rのシングルで唯一の黒沢健一ではないA面曲だ。
以降は次の曲間に必ず20秒くらいの英語での様々なパターンのジングルが入る。英語なので大滝のナイアガラ時代よりセンスが上。自分は黒沢のポップな曲な大好きなので、アルバムにはロックナンバーも多くあるのだがそれは飛ばさせてもらい、アルバムのハイライトの「Raindrop Traces君に虹が降りた」の登場だ。この流麗なメロディとオシャレな感覚は、黒沢健一のセンスの凄さが溢れる傑作。中間のオルガンの間奏のアレンジが牧歌的でいいスパイスになっていてセンスがいつもいい。
9312月に時間を置いて2枚組の大作『Land Of Riches』をリリース、2曲目の「Now That Summer’s Is Here-君と僕と夏のブルージーン」はビーチボーイズ風と言われるが、曲自体はL-Rの曲の中でも最上級のポップチューンであり、ビーチボーイズ風は間奏での遊びのみであり、『Pet Sounds』風のベースとキーボードからみと「Good Vibrations」をワンフレーズ入れただけなのにそう書いてしまうライターが低レベル。4枚目のシングルとしてカットされている。
「American Dance」はジャズタッチのポップチューンでアルバム曲ではもったいない。ミディアムのバラードの「Rad & Blue」は、黒沢のヴォーカルの上手さが際立つ。メロディもいいし、聴き惚れた。

ディスク2では「Equinox」が素晴らしいゴージャスなバラードに仕上がっているなとうっとり聴いていたらオーケストラアレンジがDavid Campbellだった。
アコギをバンドのビートサウンドへの乗せ方が巧みだった「Telephone Craze」もいい出来だ。作曲は黒沢健一と木下裕晴の共作。このアルバムで嶺川は脱退し、L-Rはデビュー時の男3人に戻る。
9410月にリリースされた『Lack Of Reason』はやはり5枚目のシングルとしてヒットした「Remember」が、L-Rマジックというか、黒沢健一マジックというか、ビートが効いていてこれほどキャッチーというのが本当に見事。そして個人的な好みなのがギターのリフがカッコいい「It’s Only Love Song」。ハーモニーもいいし、もっともリフを生かしたアレンジにすればさらに良かったが…。健一&秀樹兄弟の共作だ。エンディングはビートルズお得意のコードで締める。
アップビートで快調な「Seventeen」もアルバム曲として気分よく聴けるが、間奏がオルガンが少しダサい。ラストは大ヒットした6枚目のシングル「Hello It’s Me」で、明快でポジティブなメロディ、メリハリが付いたサウンドと、L-Rの王道シングルで文句なし。9512月にリリースされた『Let Me Roll It』は、7枚目のシングルでなんとミリオンセラーを記録した「Knockin’ On Your Door」がやはり素晴らしい。キャッチー、パワフルなシングル用L-Rサウンドに、バックにリフが潜んでいたり、雷鳴のようなドラムを入れたり、総集編のような曲だ。このアルバムは11曲中、黒沢秀樹の単独作が1曲、木下裕晴の単独作が2曲収録される。しかし実際には黒沢健一の曲がその他3枚シングルカットされた。
8枚目のシングル「Bye」は歯切れのいいビートに載せたポップチューンでシングルとしては合格、9枚目のシングル「Day By Day」はアコースティック感を生かしたサウンドに、サビで厚くキャッチーに盛り上がっていく構成が良く、アソシエイション風のコーラスを織り込んだりさすが。10枚目のシングル「Game」は、最もキャッチーなサビを頭に持ってきた構成が良く、これも合格点と、ポップで質の高い黒沢健一のナンバーが並んだ。
974月リリースの『Doubt』は12曲中、黒沢秀樹が2曲、木下裕晴が3曲作曲し、黒沢健一の曲は6曲となる。他の2人の曲作りの能力はアップしたものの、黒沢健一のレベルにはやはり遠く及ばず、11枚目のシングルは健一の「Nice To Meet You」で、インド音楽の楽器のようなギターを使いながらポップな曲で快調そのもの、12枚目のシングルも健一の「アイネ・クライネ・ナハト・ミュージック」で、今までのL-Rのシングルと違ってビートが強く歌もR&B調だった。
13枚目のラストシングル「Stand」は、ポップなビート・ナンバーで、サビスタートのイントロの後のAメロの展開とパーカッションの使い方が面白い。この曲は前作よりよりシングル向け。
結局、この最後のアルバム2枚は他のメンバーの曲の比率が大きく増したがシングルは7枚全て黒沢健一で、アルバム曲でも、いいフックがあっていいなと思った「First Step」やトロピカルな異色作で面白いなと思った「Couch」は黒沢健一の曲で、L-Rの音楽的中心は変わらないということを逆に証明してしまった。
7年間の活動だが、これだけのクオリティの楽曲を作り続けた日本のバンドは例を見ない。今になってその思いはさらに強くなった。
(佐野邦彦)
LR


☆オリジナル・アルバム

1991  L』※5曲入りミニアルバム

1992 『Lefty In The Right』(ポリスター)84

1992  Laugh+Rough』(ポリスター)※嶺川含むメンバー4人。97

1993 『Lost Rarities』(ポリスター)54

1993 『Land Of Riches』(ポリスター)※嶺川含むメンバー4人。47

1994 『Land Of Riches Reverse』※前作のアウトテイク「Telephone Craze」「Equinox」「Red Blue」「Land Of Riches-2」の4曲のみ。※嶺川含むメンバー4人(ポリスター)

1994 『Lack Of Reason(ポニーキャニオン)14

1995 『Let Me Roll It(ポニーキャニオン)5

1997 『Doubt(ポニーキャニオン)9

1997 『Live Recordings 1994-1997』※4枚組のライブ(ポニーキャニオン)


☆必要なコンピレーション

1994 『Singles & More(ポニーキャニオン)※「Laugh So Rough」は『Laugh+Rough』収録のものに比べ歌が始まる前のドラムの2拍がない。「Younger Than Yesterday」は『Laugh+Rough』収録のものは前の曲の「Laugh So Rough」のエンディングがイントロと被るようにつながっていたため、0.5秒くらいイントロが長い。そしてバッキングのドラムの大きくミックスされ、特に後半はかなり曲にメリハリが出ている。40

1995 『四姉妹物語』(ポニーキャニオン)※同名映画のOSTL-R4曲参加。L-Rの「Dream On」はこれのみ。「Hello It’s MePiano Version)」も収録され、ピアノはMasahiro Hayashiでクレジットされている。ちなみに「Hello It’s Me」はSingle Versionで収録されている。

1997 『L+R』(プロモ盤『R』(「Lazy Girl」「Motion Picture」「7Voice」「I Love To Jam」「With Lots Of Love Signed All Of Love」「Dounuts Dreams」)とセット。初回限定盤には「Paperback Writer」「Both Sides Now」のCDシングル付でリリースした。ビートルズのカバー「Paperback Writer」は他では聴けない。「Both Sides Now」は4枚目のシングル「君と夏と僕のブルージーン」に収録)

1997 『Singles & More Vol.2(ポニーキャニオン)※「Knockin’ On Your DoorSingle Version)」は17秒から33秒までのホーンのミックスが大きい。「ByeSingle Version)」はイントロのギター、エンディングのピアノが大きく間奏のオルガンが小さい。「Day By DaySingle Version)」は1分から15秒くらいの間のオルガンがほとんど聴こえない。「GameSingle Version)」はギターが大きくミックスされているがアルバムより11秒短い。「Nice To Meet YouSingle Version)」は歌のAメロなど電気処理したようなミックス。その他「DaysAlternate Mix)」「僕は電話をかけない(Alternate Mix)」収録。なお「Hello It’s M」はAlbum Versionだった。

2012  Who Is The Stars? Wits+Z Compilation Vol.2-20th Anniversary Edition(ウルトラ・ヴァイヴ)93年のライブ6曲収録


☆必要なシングル ※重要なのは★の14

1992 ★「Bye Bye Popsicle[Version]Single Version)」※最後が『Lefty In The Right』収録のものと同じエンディングがシンフォニックなアレンジのヴァージョンだが、ドラムが『Lefty In The Right』は左なのに比べ、シングルは右。そして15秒から21秒までの間奏のドラムが僅かに大きくミックスされた。(ポリスター)

1992 ★「Passin’ ThroughSingle Version)」※314秒以降のエンディング部分はこのシングルのみ。A面の「(I WannaBe With You」は222秒から53秒までと、310秒から33秒までをEditしたSingle Version。(ポリスター)

1993 「恋のタンブリングダウン」のシングル:「恋のタンブリングダウン(Edit)」※『Lost Rarities』よりフェイドアウトが16秒短く、その後、間をおいての24秒のジングルがない。「君に虹が降りた(Edit)」※『Lost Rarities』でのフェイドアウト後、間をおいての14秒のジングルがない。★「恋のタンブリングダウン(Reprise)」は1分の後の「素直になれたなら君のそばに届く笑顔を見せておくれ」の歌詞の部分はこのシングルのみ(ポリスター)

1994 ★「夜を撃ちぬこう」※アルバム未収録。A面は「Remember(ポリスター)

1994 ★「Hyper Belly Dance」★「Hello It’s MeInstrumental Version)」※2曲ともアルバム未収録。A面は「Hello It’s MeSingle Version)」で2017年版『Lack Of Reason』にもボーナス収録。シングルは『Lack Of Reason』収録のものに比べヴォーカルにエコーがかかっておらず310秒から30秒弱く続くシンバルが小さくミックスされている。(ポリスター)

1995 ★「Music Jamboree ‘95」※アルバム未収録。★「It's Only A Love Song」は『Lack Of Reason』収録のものと比べ曲が終わった後に8秒、アナログのプツンプツンという針音が加えられている。A面は「Knockin’ On Your DoorSingle Version)」で『Singles & More Vol.2』にもボーナス収録。(ポニーキャニオン)

1995 ★「Chinese Surfin‘」※アルバム未収録。A面は「ByeSingle Version)」で『Singles & More Vol.2』にもボーナス収録。(ポニーキャニオン)

1995 ★「Cowlick(Bad Hair Day)」※アルバム未収録。A面は「Day By DaySingle Version)」で『Singles & More Vol.2』にもボーナス収録。(ポニーキャニオン)

1996 ★「Good Morning Tonight」※アルバム未収録。A面は「GameSingle Version)」で『Singles & More Vol.2』にもボーナス収録。(ポニーキャニオン)

1996 ★「Game(Live Version)」※1994年のライブでアルバム未収録。A面は「Nice To Meet You」の5インチシングルに収録。「Nice To Meet YouSingle Version)」は『Singles & More Vol.2』にもボーナス収録。(ポニーキャニオン)

1997 ★「そんな気分じゃない("JAM TASTE" Version)」※『Doubt』収録のものとはまったくの別ヴァージョン。演奏もアレンジも別物で、例えば間奏がブルースハープではなくボトルネックギターであったり、アルバムのヴァージョンは完奏するがこちらは37秒短くフェイドアウトする。

1997 ★「Stranded(Single Version)」※『Doubt』収録のものは冒頭9秒間にスタジオチャット的なギターが聴こえたがシングルではそれがなく、シングルのエンディングは逆に演奏が3秒長いが、パッと終わる演奏の後のカセットのスイッチを切るような音がカットされている。そしてシングルのみ312秒から32秒までのギターにジェットマシーンのようなシュワシュワした音がかかっている。A面は「Stand」。(ポニーキャニオン)


参考チャート・イン・シングル

94 Remember 42位、Hello It’s Me 10位、95 Knockin’ On Your Door 1位、Bye 6位、Day By Day 15位、96 Game 10位、Nice To Meet You 14位、97 Stand 26


●参考:サンプル盤のみ

1992 『Rough And Rough』(ポリスター)※「What "P" Sez?Long Version)」「Laugh So RoughRough Version)」

1993 『Land Of Riches Edit Sampler』(ポリスター)※「Both Sides Now(Long Version)」「Telephone Craze(Alternate Mix)

1994 『Listen To The Disc(ポニーキャニオン) ※『Lack Of Reason』より。「Easy Answers(Out Take)」「It’s Only A Love Song(Out Take)

1995 『Hello It’s Me Rare Tracks(ポニーキャニオン)※グリコの抽選でもらえる『四姉妹物語映画先取り缶』に入っていたCD。「Hello It’s Me(Strings Version)」「Hello It’s Me(Alternate Piano Version)」「Making Of Hello It’s Me(ナレーション入りだがDemo Track)

1997 『Doubt Promotion Sampler(ポニーキャニオン)※「僕は君から離れてくだけ(Alternate Version)」「アイネ・クライネ・ナハト・ミュージック(Alternate Mix)」「そんな気分じゃない(Alternate Mix)」


(作成:佐野邦彦)


THE LAKE MATTHEWS:『Gimme Five!!』 (Happiness Records/HRBR- 006)

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今回紹介する“THE LAKE MATTHEWS”(ザ・レイク・マシューズ)の『Gimme Five!!』は、過去筆者によるレビューで評価が高かった女性シンガーソングライターの杉瀬陽子が、自身のイベント企画のために結成した“一夜限りのミステリーバンド"のファースト(ラスト?)・ミニアルバムで、今月の6日にリリースされる。 

メンバーは杉瀬のサポート・バンドからは、ベーシストの伊賀航(細野晴臣バックバンド等に参加)、ドラマーの北山ゆう子(曽我部恵一のバックや流線形等の参加で知られる)がピックアップされ、加えてゆずやキリンジ(KIRINJI)など多くのメジャー・アーティストのセッションやライヴ・サポートからアレンジャーとして活躍するキーボーディストの伊藤隆博が参加している。
そして何より特筆すべきは、元キリンジからソロに転向した堀込泰行が、杉瀬と共にフロント・メンバーとしてヴォーカルとギターを担当していることだろう。
杉瀬のアルバム『肖像』(15年)収録の「五月雨二鳥」を2人で共作したことで、彼女のライヴにもゲスト出演した機会があり筆者も聴いたのだが、2人のハーモニーのブレンドは実に調和していて味わい深かった。

このTHE LAKE MATTHEWSの活動としてはライヴの他、今年9月に7インチ・シングル「Pegasus」をリリースし既に完売状態だという。その後押しもあり、このミニ・アルバムに至ったという見方も出来る。
収録曲はこの「Pegasus」以外は各メンバーが選んだ昭和時代の楽曲カバーということで、各々のルーツや趣向が垣間見られて興味深い。
楽曲と選曲者は下記の一覧を参照してほしい。

1. 氷の世界 <井上陽水カバー>(選曲:杉瀬陽子)
2. 星くず <久保田真琴と夕焼け楽団カバー>( 選曲:北山ゆう子)
3. 水に挿した花 <中森明菜カバー>(選曲:伊藤隆博)
4. 渚・モデラート <高中正義カバー>(選曲・伊賀航)
5. Pegasus  <THE LAKE MATTHEWSオリジナル>
6. 地球はメリーゴーランド <GAROカバー>(選曲:堀込泰行)

 

ここでは筆者が気になった主要な曲を解説したい。 
冒頭の「氷の世界」は説明不要と思うが、国内初のミニオンセラー(100万枚)となった井上陽水の同名アルバム(73年)のタイトル曲である。アルバム『氷の世界』は、当時の日本における『狂気(The Dark Side of the Moon)』(ピンクフロイド 73年)のようなロングセラー・モンスター・アルバムだった。
この曲はロンドンのソーホーにある、かのトライデント・スタジオで全面的にレコーディングされており、当時としては非常にファンキーなアレンジが施されているのが特徴的だ。現地のセッション・ミュージシャンは、後にロキシー・ミュージックに関わるベーシストのジョン・ガスタフソンや彼と同じくクォーターマスのメンバーだったピート・ロビンソンがクラヴィネットをはじめキーボードを弾いており、コーラスには後にグリース・バンド(ジョー・コッカーのバックバンド)と合流してココモの母体となったアライヴァルのヴォーカリスト3名も参加している。なんでも当時陽水達はスティーヴィー・ワンダーの「迷信 (Superstition)」 (73年)にインスパイアされたサウンドを目指していたという。
前置きが長くなったが、THE LAKE MATTHEWSのヴァージョンでは、べースラインにデオダートの「摩天楼(Skyscrapers)」(『Deodato 2』収録 73年)のそれをモチーフにしており、原曲以上にバックビートを強調している。数々のセッションをこなしている伊賀と北山のリズム隊のコンビネーションは完璧と言える演奏でたまらない。また肝心のヴォーカルだが、1番と2番でワンコーラスずつ堀込と杉瀬で分け合い、間奏後に2人のツイン・ヴォーカルとなり曲を盛り上げている。

先行のオリジナル・シングル「Pegasus」は、杉瀬1人によるソングライティングだが、堀込とのヴォーカルを想定したようなミディアム・メロウな曲調であり、嘗て堀込がキリンジ時代に残した稀代の名曲(最近CMに起用されている)「エイリアンズ」(『3』収録 00年)に通じる、心情風景を背景とした不毛の愛がテーマとなっている。
堀込の荒削りなギター・ソロに続き、アレンジにも貢献したと思しき伊藤隆博が自らプレイするトロンボーン・ソロのコントラストも非常に効果的だ。
そしてラストはガロの「地球はメリーゴーランド」であるが、原曲が和製ソフトロックとしてエヴァーグリーンな存在であることは、古くからのVANDA誌読者なら言わずもがなだろう。自らもその読者だったらしい堀込ならではの趣味性と言え、前曲「Pegasus」からの流れからもこのミニ・アルバムの着地点としてこれ以上相応しい選曲はないかも知れない。
ニール・ヤングの「Out on the weekend」(『Harvest』収録 72年)を彷彿とさせるダウントゥアースなビートをバックにして、堀込の叙情的なヴォーカルに寄り添う杉瀬の無垢なハーモニーは慈愛に満ちあふれている。この曲を歌うために組んだのではないかと思わせる必然性に感動するばかりだ。
興味を持った音楽ファンは入手して是非聴いてほしい。
(ウチタカヒデ)

集団行動:『充分未来』 (ビクター/VICL-64912)

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昨年6月にバンド名をタイトルにしたアルバムでデビューした集団行動(しゅうだんこうどう)が、セカンド・アルバム『充分未来』を早くもリリースした。
耳の早い音楽ファンならご存じかも知れないが、このバンドは相対性理論の初期中心メンバーでメイン・コンポーザーでもあった真部脩一が昨年1月に結成したプロジェクトで、理論時代からの盟友でドラマーの西浦謙助と、ヴォーカリストとして某アイドル・オーディション出身の齋藤里菜(さいとう りな)が正式メンバーである。
本作のレコーディングにはライヴのサポート・メンバーでもあったルルルルズの奥野大樹(キーボード)とVampilliaのミッチー(ベース)が新たに加わっており、特に奥野はアレンジ面でも貢献している。
アルバム全体的な印象では前作以上にバンドらしさが滲み出てファースト・アルバムを経て肩の力も抜けているとは思うが、そこは一筋縄ではいかない真部ワールドなので聴き込む内に隠し球のようなマジックを垣間見ることができるのだ。

   

では本作で筆者が気になった収録曲を解説していこう。 
冒頭の「会って話そう」は前作での「ホーミング・ユー」のようなインパクトこそないが、ファンク・ミュージックをベースにした齋藤と真部のヴォーカルが掛け合うラヴ・ソングだ。メロディ・ラインはキャッチーながら唯一無二で独特なペンタトニック系スケールが耳に残る。
続くタイトル曲の「充分未来」や「フロンティア」は一聴して往年のギターポップ・ファンにもアピールするサウンドだが、前者には理論時代の「品川ナンバー」(『ハイファイ新書』収録 09年)を彷彿とさせるTR-808系のハンドクラップが飛び道具的に使われ、後者は同じく「さわやか会社員」(『ハイファイ新書』収録)に通じるジョニー・マー経由のハイライフからブラジリアン・サンバに発展させるリズム・センスが真部らしいハイブリッドなセンスといえる。
一方新境地なのが詞曲共に彼等らしくない「春」であり、比較的ストレートなギターポップ・サウンドに不毛の愛が綴られていてアルバムの静かなアクセントになっている。
小曲の「モンド」からラストの「オシャカ」への流れも触れずにいられない。前作での「バックシート・フェアウェル」の位置にある「オシャカ」のプログレッシブな構成は、このバンドが数多溢れている無味乾燥なロック・バンドとは一線を画していることを証明している。

前作同様この『充分未来』も拘り派のロック、ポップス・ファンにお勧め出来る内容であることは間違いないので、興味を持った音楽ファンは入手して聴くべきだろう。 
また前作に続きこのリリースを記念した単独公演「充分未来ツアー」が3月におこなわれるので、詳細は下記のリンクからチェックしてほしい。 
https://www.syudan.com/news-1 
 (ウチタカヒデ) 


佐野邦彦氏との回想録9・鈴木英之

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    今回は1998年6月に発行された「24」での佐野さんとのやりとりを回顧していく。この号には昨年、「企画22年・発掘作業5年」を費やした収録音源が全て初録音という“奇跡”の発掘音源『ロジャー・ニコルス・トレジャリー[デモ&CMトラックス](Roger Nichols Treasury)』を完成させた濱田高志さんの「Roger Nichols Interview」、また比類なきポップ・ソングの研究家“サラリーマン浅田”こと浅田洋さんの「Tony MaCaulay」などが掲載され、VANDA誌は、「ポップス研究誌」としてさらに充実したものになっている。

   

    私自身はVANDAを通じて、このお二人にはかなり影響されているので、そのいきさつなどを紹介しておく。まず今や“Michel Legrand研究家”として著名な濱田高志氏。私は常々佐野さんから「どこへでも足を運んで交渉取材する鈴木さんにいつも驚かされています。」と言われていたが、その活動のルーツは彼から伺った濱田さんの行動に感化されたものだった。 

   前回で「国会図書館」へ滋賀から通うようになったと書いたが、それは濱田さんがMichel LegrandのWorksをまとめたい一心で単身フランス在住のご本人の元へ出かけたという話を聞いたのがきっかけだった。ただ私の方は家計に負担を与えない最低限の範囲で通うという程度で、スケールは比べ物にならないので、決して誰かに自慢できるようなものではなかった。また「どこへでも」は、その昔佐野さんが「巨匠宮崎駿氏」との飛び込み取材に成功した武勇伝に少なからず感化されていたからかもしれない。 

   また「国会図書館」以外にも当時から通い始めた場所がもう1ヵ所ある。その場所は、石川県の金沢工業大学にあるPMC(ポピュラー・ミュージック・コレクション)だ。ここについては、偶然見た「めざましテレビ」(フジ系)の「ローカル鉄道の旅」なるコーナーで、「駅周辺の施設」として紹介されたのを見たのがきっかけだった。この地区は昔勤務経験があり地の利もあったので、翌週に車で訪問した。ところが何回か出向くうちに帰路がしんどくなり、もっと楽でかつ安上がりの移動手段を模索するようになった。そんな時に後輩から「青春18きっぷ」のことを聞き、金沢まで「朝6:00出発で現地10:00着、帰路は18:30発で22:30着」と日帰りが可能とわかり、頻繁に足を運ぶようになった。そんなある時、PMCスタッフNさんから「よく来場されていますが、どちらから?」と聞かれ「滋賀から青春切符で」と答えると、その行動に感激されたあるスタッフさんから「私に出来ることなら、何でも言ってください」と言われ、以後担当者は変わったが現在も頼もしい協力者として良好な関係を築いている。

   さて話は私が影響されたもう一人浅田さんになるが、彼は“サライター(サラリーマン・ライター)”と名乗っているように、バリバリの企業戦士で平素は激務をこなしながら独自のポップス研究に邁進されている。またいち早くHP.も開設されているという姿勢には、さらに頭が下がる思いだ。そして私がVANDAでチャート記事をまとめていることを知ると、以前の投稿でもふれた「All Japan Pop 20(以下AJP)」についてまとめているM氏を紹介いただき、彼とも情報交換するようになり私のコラムに大きく寄与していただいた。さらに彼は私の敬愛する故八木誠さんや、国内外のミュージシャンとも交流を持つ頼もしい友人でもある。  

 

   そんな精鋭のお二人に加え、この号では15Pというヴォリュームの「Cliff Richard」で松生恒夫さんが登場している。彼は現役の医師で本業の分野では専門書を数多く出版し、近年では健康をテーマとしたテレビ番組にも数多く出演されている。

    では、彼がVANDAに参加するきっかけとなった経緯を含めたエピソードを紹介しておこう。 彼のことを初めて知ったのは、佐野さんとの会話の最中だった。突然「鈴木さんCliff Richardって詳しい?」と聞かれ、「ある程度なら」と返すと、すかさず「実はCliff をやりたいって人が、売り込みをかけてきているんだけど、私の周りにはあまり詳しい人がいなくて困っているんです。鈴木さん一度見てくれませんか?」と頼まれた。数日後、その原稿が届き、ざっと目を通したところ、その内容のコアさぶりに圧倒された。即、その感想をそのまま佐野さんに伝えると、「そうですか、では次回の号に掲載することにします。ところで言い忘れましたが、あれ書いたのお医者さんなんですよ。」と返された。

  その後、渋谷で開催されたVANDA関係者のミーティング会場で松生さんと会うことになった。そこで彼から積極的にアプローチを受け、2つ違いと世代的にも近いこともあり音楽談義に華が咲き、あっという間に意気投合した。そこで、彼があるクリニック勤務の医師だと知り、Cliff以外に加山雄三さんやボサノヴァの研究もしていることを知った。これほどコアに話が弾んだのは、後輩のK君や佐野さん以来だったので、お互いに有意義な時間を共有できた。それ以降、彼から毎日のように連絡が入るようになったが、その頻繁さと長さに、あっという間に家族にもお馴染みとなるほどだった。ちなみに彼はメールを使用しないので、今もその連絡は電話オンリーだ。  

    前置きがだいぶ長くなってしまったが、この号に寄稿したコラムについての話に移ることにする。まず連載の「Music Note」に加えて、まとめたものは元祖カナダ・ロック界の雄「The Guess Who」だった。このコラムも佐野さんとの何気ない雑談から発展したもので、常々「ヴォーカルのBurton Cummingsはルックスが良ければ、Paul Rogerよりも人気が出たかもしれない。」と力説していたことが発端だった。その成り行きから「そんなに好きなら、絶対にまとめるべき!」と勧められ、早速1969年のRCAでのデビューから1975年の解散を経て、リーダーBurtonのソロまでをまとめはじめた。

   ところが「マニアには本格的に全米進出を始めたRCA以前が注目されている。」と佐野さんに助言され、彼らがこのバンド名を名乗る前まで遡ることにした。とはいえ1960年代初期のアルバムはかなりの貴重盤で、当田舎在住の私には簡単に入手できるようなものではなかった。本来であれば全音源をチェックしてまとめるべきではあったが、今回はディスコグラフィーを完璧に仕上げることで、一部未聴音源があることは目をつぶっていただき、悪戦苦闘の末に完成した。

   その内容は『「American Woman」のみのバンド』というパブリック・イメージを払拭するレベルにまとめることが出来た。特にこのコラム用に制作した1961年から1988年までの「Family Tree」に関しては我ながら良くできたという達成感があった。また当時、佐野さんから「今回取り上げたことでRCA以前の音源がさらに注目されているようです。」と連絡をいただき、いつかは未聴音源をチェックして完全版をまとめたいという想いが強くなった。

    

 そして「Music Note」の1973年だが、年初は受験勉強真最中でまめにチェック出来なかった。またこの当時はアイドル歌手の麻丘めぐみさんにはまっており、愚かにも洋楽チャートよりも彼女の出演番組や、音楽雑誌よりも芸能雑誌の発売が気になっていた。そんな状態ゆえ勉強にはあまり集中しておらず受験は失敗、4月からの浪人生活は在京大学志望だったので上京し、新宿の親戚宅に居候させていただき予備校通いとなった。

  そんな東京での生活は、これまで受信できなかった民放FMが聴け、ラジオ局も複数、なおかつテレビ局も多く、「イン・コンサート」(注1)や「リブ・ヤング!」(注2)など映像でも音楽番組が見れるなど静岡とは全く別世界だった。さらにHunterなど中古盤のショップが都内に溢れ、その恩恵であらゆるジャンルのレコードがリーズナブルに入手することができた。ただそんな恵まれた環境ゆえ、受験勉強はより身が入らなくなってしまった。

  受験の友であった深夜放送も高校時代は『オール・ナイト・ニッポン』オンリーだったが、上京した頃には亀チャンや糸井(五郎)さんがいなくなったこともあって、定番は『セイ・ヤング』に移っていた。当時は今や“氷河期”を自称するせんみつ(せんだみつお)さんの放送にはまり、また当時の彼は「AJP」の司会も兼ねるほどの人気絶頂期で、彼のウィットに富んだ曲紹介は今も耳に焼き付いている。それはTom Jones並に高額となった来日公演チケット(S席18,000円!)が話題となっていたEngelbert Humperdinckの「A Place In The Sun(太陽のあたる場所)」の紹介には「ちょっとトイレがつらそうなヘ●デルベ●ジョ・フン●ルディンク!」、グラム・ロックのT.Rexでも「恐るべし、20センジ●リー・ボーイ!」などキレキレのギャグを連発していた。とはいえこんな話は佐野さんにはお叱りを受けそうでしばらく封印していたが、一言発したら前回紹介した「見せる●ルノレフ」同様に大爆笑だった。

   

 さらに深夜放送では名物コーナー「天才・秀才・バカ」を擁するチンペイ(谷村新司)さんの『セイ・ヤング』の影響もあって日本のロックやフォークもよく聴くようになっていた。それが加速するのは、秋頃に『ぎんざNOW!』(注3)の「新人歌手コンテスト」にエントリーされていたユーミン(当時:荒井由実さん)がピアノ弾き語りで歌う「きっと言える」を見てからだった。それはアイドル登竜門コーナーゆえ、会場審査員からの支持は1票で落選したが、彼女の登場は衝撃的だった。それ以降はコアな和物も聴くようになり、これが後に山下達郎氏(Suger Babe)に辿り着くきっかけとなった。この話題は佐野さんも知るところだったが、それをじかに見たうえリアルに記憶していることには驚かれていた。

   

 このように、この頃には和洋混在に聴いていたせいもあって、南沙織さんの「純潔」がVan Morrisonの「Wild Night」がベースになっているといっ事が気になるようになり、Albert Hammondの「It Never Rains In California(カリフォルニアの青い空)」が堺正章さんの「さらば恋人」が元ネタかも(?)と感じるようにもなった。こんな話は米国でも多々あり、有名なところではGeorge Harrisonの「My Sweet Load」がThe Chiffonsの「He’s So Fine(イカした彼)」に訴えられるなどだ。個人的には1972年のヒットClimax「Precious & Few(そよ風にキッス)」はAssociationの「Cherish」が元ネタと言われて騒ぎになっていたが、私は前者が大のお気に入りだった。そんな話を佐野さんにしたところ、「それならWeb.VANDAにコーナーを作るのでそこに投稿したらどうですか!」と言われ、以後Web,の「Sound Of Same」にコツコツ書き込みをはじめるようになった。

 こんな感じで、「24」の制作過程では前号以上に余計なことに気が回り、原稿の仕上げがまたまた遅延し、依頼されたコラムは「3月末締め切り」が、GWに突入した5月になってしまった。その完成した「24」が届けられた際、そこ差し込まれていた手紙には「今号より、VANDAは年1回、毎年6月刊となりました。」で始まり、「約半年で8,000を超すアクセスがあったWeb.VANDAを速報性のあるメディアとして活用する。」とあった。ただ、末尾には「基本はVANDA、年1回の発刊協力よろしく。」と締め、これまでのスタンスは崩さない意思も宣言していた。

 次回は、VANDAがさらに世間の注目が集まり、佐野さんが単行本やCD復刻のなどで、多忙化していく時期となった「25」の制作時期について紹介させていただく予定です。

(注1)1973年頃に東京12チャンネル(現:テレビ東京)で放送されていた海外アーティストのライヴ映像を放映するプログラム。コメンテーターは鈴木ヒロミツ氏(当時、The Mops在籍)が務め、ロック・バンド以外に、The Mopsの敬愛するソウル・グループの映像も頻繁に紹介されていた。

(注2)1972年4月から日曜の夕刻(74年からは深夜枠)にフジテレビで放映されていた若者向けの音楽、映画、ファッション等を紹介する情報番組。初期は愛川欽也氏が司会を務め、最先端の歌手やバンドのライヴ演奏や、来日アーティストもゲスト出演することもあった。また、この番組を一躍有名にしたものとして、1972年10月8日に行われた「ロキシー・ファッション企画」だった。ここに登場した矢沢永吉率いるキャロルは、他を圧倒する熱演を披露し、彼らはこの出演をきっかけに同年12月25日に「ルイジアンナ」で衝撃のデビューを飾る。また、73年12月20日には同年10月23日にフジテレビ第一スタジオにて収録した『ライブ・イン“リブ・ヤング”』をサード・アルバムとしてリリースしている。

 (注3)1972~79年にかけて毎夕刻 TBSで生放送されていた(東京ローカル)情報バラエティ公開番組。収録場所は東京銀座のスタジオ「銀座テレサ」で、初代司会はせんみつ氏。清水健太郎さんやラビット関根(現:関根勤)さんなどを輩出した「素人コメディアン道場」が有名だが、ブレイク前のキャロル(木曜)、フィンガー5(月曜)などがレギュラー出演していたことは有名。 

2018年2月27日18:00
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