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The Pen Friend Club☆藤本有華ラストステージ・ミニインタビュー

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弊サイト読者をはじめ耳の肥えたポップス・ファンを魅了していたザ・ペンフレンドクラブ(以下ペンクラ)の4代目ボーカリスト藤本有華が、2月22日のライブでバンドを去ることになった。

16年3月に加入後ライブ活動から加わり、翌17年の4thアルバム『Wonderful World Of The Pen Friend Club』からはレコーディングに参加していた。続く18年の5thアルバム『Garden Of The Pen Friend Club』はオリジナル・アルバムとしてはこれまでの最高傑作であり、藤本の貢献度も極めて高かった。また同年11月のクリスマスソング・アルバム『Merry Christmas From The Pen Friend Club』での名唱も忘れがたい。
筆者としては、今後これを超える傑作をメンバー達と一緒にクリエイトして欲しかっただけに、彼女のバンド卒業は極めて残念である。
楽器プレイヤーの演奏力は日々の鍛錬で備わっていく要素が強いが、いいボーカリストはそれを超えて天性も必要となるため、藤本の存在は非常に大きかった。

彼女のラストステージだが、詳しくは本記事文末に記載しているので、早期に前売チケットを予約して、バンド在籍最後の歌唱を是非聴いて欲しい。
ここではそんな藤本の最後の独占ミニ・インタビューをお送りしたい。


●約4年間ペンフレンドクラブのメンバーとして在籍した中で、思い出深いエピソードをお聞かせ下さい。

藤本有華:“メンバーとして"ではないのですが、初めてリハに参加した日を今でも一番よく覚えています。ボーカルを引き受けるか検討中の中、北千住のスタジオで初めてリハに参加しました。
ライブを一度観に行ったことはあったものの、音合わせや話すのは初めてでしたので行くまでは緊張でした(笑)。
ですが、リハの後に近くのファミレスに行くと、みんなとても気さくに話しかけてくれて"楽しく活動していけそうだな"と、ほぼその時には引き受けようと決めていたと思います。
もし私がボーカルになったら…のペンクラの一年先位までの仮のスケジュールがどんどん出てきて、それを楽しそうに話すリーダーとメンバーの姿(いつもの姿)が印象的でした。


●これまでのライブ演奏を通して、ペンクラのマイ・ベストソングを選んで下さい。僕個人的には、フィフス・ディメンションの「Love's Lines, Angles and Rhymes」のカバーはどのライブ会場でも歌唱力と表現力が秀逸だと思っていました。

藤本:かなり考えましたが、、ライブでのベストソングは、お客様たちが"一番良いよね!"と思って下さっているものが私にとってもベストソングなのです。ですので自分では選べません!(笑)

代わりに思い出深い演奏と、一番歌えてよかった曲を挙げさせて頂きます。


一番思い出深いのは、ライブで初めて「微笑んで」を披露した時です。

それまでにソロで出演する他のライブでは何度か披露していたのですが、ペンフレンドクラブのライブで、メンバーの演奏で歌ったことはその日まで一度も無く、それが初めて出来た時はかなり胸いっぱいでした。

そして一番歌えて良かった曲は、「恋人たちのクリスマス」です!

元々大好きな曲で、歌のレッスン教室の発表会などで歌ったりもしていたほどです。まさかこの曲をカバーしてCD音源として残せて、ライブでも披露できて、お客様にとても喜んで頂けて、こんな日が来るとは夢にも思っていませんでした!2019年はほぼ通年で歌っていましたしね(笑)。クリスマスソングなのに沢山歌えて嬉しい限りでした!



【微笑んで】

●最後にペンフレンドクラブのファンの方々に一言お願いします。

藤本:ペンフレンドクラブのボーカルを引き受けてからもうすぐ4年になります。"毎年ボーカルが交代する"というジンクスを破るという目標をたてて活動を始め、めでたく達成し、その後の数年はあっという間に過ぎて行った様に感じます。
数えきれないほどのライブ、CD発売、各種イベント、遠征、どれも掛け替えの無い良い経験、思い出です。
ここまで続けて来られたのはメンバー、スタッフ、関係者の皆様、そして何よりお客様のお陰です。本当に有難うございました!
WebVANDA さんにも、節目節目でいつも取り上げて頂き、ソロ活動についても紹介して頂いて感謝しております。
残り2回のライブ(+α?)、最後まで精一杯頑張りたいと思いますので、どうぞ宜しくお願いいたします!



【ザ・ペンフレンドクラブ・ワンマン  
Add Some Music To Your Day Vol,24】
2020/2/22(土) 
吉祥寺スターパインズカフェ
Main Act : The Pen Friend Club
Opening Act : カンバス
開場/11:00 開演/12:00
前売¥3000+1drink / 当日¥3500+1drink 


(設問作成/文:ウチタカヒデ)





The Beach Boys, 1969: I’m Going Your Way (Capitol/UMG, 2019)

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2020年を迎え、来年はThe Beach Boysもデビュー60周年を迎えることとなる、50周年の際はBrian一派を復帰させたが、来年はどうなることだろうか。
The Beach Boysの名跡はMike一派が長年取り仕切り、Mikeの新年のTwitterでは 自身の家族との写真を多用し、家族の繋がりやその価値の大切さを強調している。
これは共和党保守系シンパならではの所作であり、来る大統領選挙へのアピール なのかそれともBrian合流への秋波であるのだろうか?
2019年の年の瀬にようやくリリースとなった本作である、収録曲は3曲と少ない。理由としては既発表曲が多いのと、現段階では噂であるがSunflowrセッション周 辺の音源を集めたボックスセットのリリース前のサンプラーE.Pとしてのリリース であるとの憶測もある。

1969年のThe Beach Boysといえば低迷期の真っ只中であり、レコード及び興行 の米国内収入は落ち込み、年初リリースのアルバム20/20も国内セールスも同様 に伸び悩んだ。20/20とは日本で言うところの視力1.0である、視界良好どころか先のことなど見通せる状況ではなく自ら置かれた窮状への大きな皮肉となっている。


1969年4月のマネジャーのNick Grillo主導によるCapitolへの再監査そして訴訟、それらは主にCapitol側の売り上げやロイヤルティの過少計上などによるものであった、(1967にCapitol側へ同様の申し立てを行い、Brother Record設立とCapitolとの1969年中の契約満了という点では決着していたが)このことからCapitolとの関係はさらに対立を生んでいく。

Capitolとの契約解消を伝えるBillboard紙4月12日の記事
上記の記事では、訴訟はもちろんのこと、今後はBrother Recordを中心に原盤制作や他のアーティストのマネジメントや興行プロデュース、金融、医療、と多方面に渡る活動がうたわれており、また、16トラックレコーダーを備えたスタジオ建設まで約束していた。
華々しい未来を訴えながらも、Capitolとの契約解消が将来到来することに備えて、新たな契約先としてドイツ資本のDeutsch-Grammophoneレーベルに白羽の矢が建てられた。理由としては当時まだまだ海外での興行及びレコードセールスは順調であり特に英国での人気は衰えていなかったのでヨーロッパ市場の維持を考えていた。
ところが急転直下契約の話は立ち消えとなる、5月下旬シングルBreak Awayのリリースに先立って英Disc & Music Echoの記者のインタビューでなんとBrianが「2年近く前から実はThe Beach Boys帝国は崩壊の危機にあって財務上問題を抱えている」旨の発言をしてしまったからだ。現に上記の通り人気やセールスは低下し、Brother Recordからの様々な出資は不動産事業、医療機関、金融事業、マーチャンダイジングなどに投資されたものの、日本のタレント商法の末期と同様、回収不能となっていた。


 1969年5月30日付けのDisc and Music Echo見出しが「僕らは破産寸前!ビーチ・ボーイズ」

これでもか、というくらい不幸続きが頻発してしまうと、モチベーションも下がる と思いきや、1969年のレコーディング・セッションではForever,San Miguel,Got To Know The Woman,Celebrate The News,Slip On Through,とDennis作の名曲が上半期だけで集中して生まれている。このことはDennisの制作活動の活発さを物語っている。以下3曲を紹介させていただく。

1.I'm Going Your Way (Alternate Vocal Take)-Dennis Wilson- 

録音は7月8日Wrecking Crewの根城であったGold Star 
冒頭のカウントはHal BlaineでDennisが"Pick up those sticks"と叫んでいるのを聴くことができる。
長らくブートレグで出回ったきたタイトルではCalifornia Slideでおなじみの同曲であるが、本作ではブートレグで聴かれているヴァージョンと若干異なり、ヴォーカル部分が本作では重ね録りして2トラックでややステレオの位相を構成しているが、 ブートレグではシングルモノトラックであり、歌詞の2番目のあたりからブートレグではタンバリンの音が入っている。
両サイドのギター(Ed CaterとMike Deasy、前年MikeはTerry Melcherと同道しMansonの元を訪れ録音を手伝っていた)もブートレグでは埋もれがちな音質に対して、本作ではクリアになっている。おそらくMark Linettの手によるマスタリング時のEQあるいは、オリジナルの8トラックマルチマスターからギターパートを抜き出してシンクロさせているのかもしれない。
他にもまだ数十のテイクが存在しているらしいので、今後リリースかもしれないボックスセットに期待したい。
歌の内容については確かにヒッチハイカーの女性との逢瀬、そして性的な内容を暗示させる内容である。歌詞は未完成とはいえ、当時のCapitolのお偉方としてはリリースに踏み切れない部分があったであろう。初正式リリースの本作は未発表の背景としてManson Familyとの関係が取りざたされている。さらに深読みすれば、やはりMansonの思想との連関性に気づかずにはいられないのだ。
本作のレコーディングから一ヶ月を過ぎた直後の8月9日にManson主導のSharon Tate殺害事件が起きている、その背景にあるのはManson自身の終末思想であると 裁判では結論づけている。終末思想とは、いずれ到来するMansonが統治する世界の 前に人種間の大戦争が起きるという世界観を指し、The BeatlesのHelter Skelterが 歌詞の中で予言しているとMansonは思い込んでいた。


英国内のHelter Skelter 

実際のHelter Skelterは遊園地などにある遊具である。上の画像の通りぐるぐる回る 滑り台であって、この無意味な大騒ぎの様をThe Beatlesを楽曲にしただけであり、 ラウドロックの元祖となった。
Mansonはこの上昇下降の大騒ぎを人種間の支配が入れ替わる階級闘争と解釈し、ハルマゲドンが近づいていると夢想していたのだ。
Californiaは起伏に富み、当時のミュージシャンが多く集ったLaurel Canyonや北西部にはDevil's Slide、それからLos AngelsとMalibuの間にはTopanga Canyonがあり、 ここでNeil YoungがAfter the Gold Rushを制作し、Mansonも一時近所に根城があった。
歌詞の中のCalifornia Slide=Californiaの大地という大きな滑り台、である。Californiaの大地における支配層の入れ替わり、最終戦争〜新しい世界の到来という文脈がManson familyからすれば解釈できる。Dennis自身はMansonの思想にどこまで近づいたかは不明であるが、前年冬から両者は住まいも別々であったものの、Manson familyとの交流は1969に入っても続いていたことは雑誌のインタビューで明らかだ。


英Rave誌9月号で1969年5月に行われたインタビューDennisはMansonをWizardと誉めたたえる この時点ではまだMansonの犯行とは誰も思っていなかった 

冒頭にも述べさせていただいたが、The Beach Boysという大名跡を預かる Mikeは現在のブランドイメージを共和党保守層の価値観に設定している。 それがMikeの権力の源泉であり収益の源である以上、価値の維持のため 何があっても出したくない音源であろうことは間違いない。
Brian一派のカウンター・カルチャーやドラッグ体験の価値感をうまく芸術性 という美辞麗句に置き換え昇華させたMike一派にしては大英断ではないだろうか?
12月28日はDennisの命日でもあり、最期は酒色に耽り薬物の影響でバンド活動から遠ざけられたと聞く、これはDennisへの鎮魂なのだろうか?

2.Slip On Through-Early Version-Dennis Wilson-

言わずもがなアルバムSunflowerの第一曲目であり、ラテンやソウルのフレイバー漂う The Beach Boysの新たな方向性を示す名曲。録音は二回にわたり行われている。 本作セッションのヴァージョンは採用されず、二回目のBrian邸でのものが採用され ている。
本作は採用されなかったヴァージョンであり、録音スタジオはGold Star並びにSunset Soundで、1969年7月8日 9日 14日の三日間にかけて行われた。
冒頭"third generation take two"の声が聞こえるが、Slip On Throughの原タイトルを実 はthird generationではないか?と思ってしまうが、おそらくreduction mixの過程で生 じるテープの種類をthird generationと呼んでいたのであろう。
BrianもPet Soundで多用していたreduction mixの手法では4トラックレコーダーと8ト ラックレコーダーを多用する。

まずインストパートを録音、
(例)first generation tape
ギター トラック1
ベース トラック2
ホーン トラック3
ピアノ トラック4
そして上記のトラック1から4を一つにまとめた音を8トラックレコーダーへ録音
second generation tape
上記トラック1から4 トラック1にまとめる 残りのトラック2から8をヴォーカル及びコーラスを録音
(またはトラック2から3をヴォーカル及び4から8をそれぞれコーラスの二度録り)
そしてこれらをミックスした音源を録音したものが、
 third generation tape
となり最後にアクセントのある効果音やヴォーカルを追加し完成 

The Beatlesの場合は4トラックレコーダーをシンクロさせ事実上8トラックの録音を実現していた、両者の手法では理論上無限にトラック数が増やせることとなるが、 実際は録音を重ねるたびにノイズが増えたり、音質の悪化やピッチのズレが生じていた。

以下は私見ながら 本作の場合、エンジニアのStephen Desperはステレオ定位を好んだので
8トラックレコーダー二台を使用し(Wally Heiderからのレンタル)
first generation tapeでは(おそらく7月8日 Gold Star)
 ギター ベース ピアノ ドラム+カウベルまたはティンバレスetc をそれぞれ2トラックずつ録音
second generation tapeでは(おそらく7月9日 Gold Star)
上記の8トラックを2トラックにまとめつつ、残りの6トラックをブラスとタックピアノを重ね録り 
third generation tape では(おそらく7月14日 Sunset Sound)
上記の演奏をさらにミックスして2トラックにまとめたものに対し
ギターに2トラック Jerry ColeあるいはDavid Cohenのギターを録音
そして残りのトラックはヴォーカル及びコーラス用に空けておく といった内容ではないかと思われる

Sunflower収録の原曲と本作との違いは聴いてすぐわかる通りヴォーカル無しの ヴァージョンであり、演奏時間も数十秒長い。また本作の方がキーが半音程度低くなっている、原曲はレコーディング時に回転数を上げた可能性がある。
また、ブラスアレンジも異なっており本作の方はGold Star産のSpector作品にありがちな次第に音が重なり厚くなっていく劇的効果をもたらすアレンジである。
リズムセクションも本作ではドラムとキハーダにタンバリンとシンプルであるが、 原曲ではパーカッションも加わりリズムパターンが豊富な曲調となっている。
ドラミングについていえば、淡々としながら終盤に向かって劇的に盛り上げる奏法 であり、原曲と明らかに違いチューニングも低めであり、フィルの入り方などからHal Blaineである。
また、原曲で聴かれる発信音のような音はカウベルあるいはティンバレスにPhillips製のディレイをかけて処理したものであり、同じ手法はDo It Againのイントロで聴かれる。
ディレイマシンの再生ヘッドの間隔を近づけることにより歪んだ音像効果を得た もともとツアーでヴォーカル用に用意した機材をStephen Desperが活用した。


Phillips社テープディレイEL 6911 円形の部分の再生ヘッドの間隔を調整し発信器のような音を作った

原曲でのドラムはDennisでも違う方のDennis Dragon、兄弟のDarylと長兄のDougでCapitolから64年にThe Dragonsでデビュー後、元々Bruce JohnstonとDougが遊び仲間だったツテで1967以降のThe Beach Boysのツアーメンバーとなる。
生家がそもそも西海岸では著名なクラシック演奏家であった所以かアレンジなどで 頭角を表し、Darylはキーボーディストとしてツアーやレコーディングで活躍する。
1972年のアルバム『Carl & The Passions/So Tough』で参加するもツアーから脱退後はCaptain&Tenilleを結成しメンバーCaptainとして70年代にヒット曲を連発する。
Dennisは後年Surf Punksを結成、南カリフォルニアのサーファーの習俗とパンクを合わせたユニークなサウンドで80年代活躍する、なんとThe Beach Boysの対抗馬として父Murryの手がけたThe SunraysのI Live For The Sunをカバーしている。The SunraysのリーダーRick Hennは1969年の夏からBrianとSoulful Old Man Sunshineで関わっており、1977年Doragon家の長女Kateと結婚している。




3.Carnival(Over The Waves)-José Juventino Policarpo Rosas Cadenas-

Brian邸1969年12月録音と伝わる
1969年下半期になるとBrian邸での録音が増加する。理由としては、4月12日の記事の 通りに新スタジオの建設が終了し機材の更新があったためである。この頃から2インチのテープに対応した16トラックレコーダーの導入がレコーディングの効率化をもたらした。
機材の調達先はWally Heider Studio、Brian邸のスタジオ建設に初期から関わっている。
Brother Recordとエンタテイメント系会社Filmways(主に番組制作などが主業、Sharon Tateもタレント契約していた)の間でスタジオ建設投資に関するパートナーシップを結んでWally Heider Studioへの投資を行っていたので機材のリースも 有利な条件で契約することができた。


16トラックレコーダー 3M-M56


Quad Eight社のコンソール(Elecrrodyne ACC-1204をベースにQuad Eightカスタム仕様の30イン)


 Elecrrodyne ACC-1204

Capitolとの契約は満了したが、あと一枚アルバムリリースが履行事項として存在 していた(残念ながらリリースに至らず翌年70年Live In London-後に米国内ではBeach Boys '69に改題し76年発売-のリリースで決着する)同時にRepriseとの契約 がまとまったものの、アルバムリリースへのゴーサインがレーベル側から色よい 返事がなく、セッションを続けていた。本作はそれらのセッションの一曲。
以前からブートレグで聞くことはできたが、今回はほぼフルヴァージョンであり 音質もクリアである。理由としては上記のスタジオ機材の更新があったことと 16トラックレコーダーの機能を生かしたレコーディング方法が挙げられる。
インスト部の録音はおそらく4トラックにまとめて残りの10〜12トラック全てに ヴォーカルを充てている。おそらく五声のハーモニーに対してそれぞれ2〜1 トラックを充ている、従来ならば五声全部を一旦録音しもう一度別のトラックに 同じパートを録音していたが、本作では一声ずつなのでクリアかつリッチな分厚 さなエフェクトを得ることに成功しており、録り直しのリスクも減りある意味 働き方改革が行われている。
本作の原作者はJosé Juventino Policarpo Rosas Cadenas、メキシコの作曲家で 邦題では波濤を越えてで知られるワルツの名曲である。
1884年米国New Orleans で開催された万国産業綿花百年記念博覧会に於いて母国の楽団とともに演奏した のが初出とのこと。
この博覧会の日本ブースを取材で訪れたのがPatrick Lafcadio Hearn、後の小説家小泉八雲である。
小泉は縁あってこの後来日し、神戸でも居を構え新聞記者として生活していた、小泉も思い出のスマハマを散歩したのだろうか?



 (text by MaskedFlopper)

さとうもか:『melt bitter』(SOUND SKETCH,Inc./ANCP-004)

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さとうもかは岡山県出身の20代半ばの若い女性シンガー・ソングライターだ。今月22日にファースト・シングル『melt bitter』をリリースする。
彼女は2015年にファースト・ミニアルバム『THE WONDERFUL VOYAGE』でデビュー後、その個性的な歌声と唯一無二のソングライティングによる楽曲をライブで披露し、多くの音楽ファンを魅了してきた。これまでに『Lukewarm』(18年)と『Merry go round』(19年)の2枚のフルアルバムと、デジタル・シングル3枚、同EPを1枚リリースしている。


タイトル曲の『melt bitter』のテーマは、18年のデジタル・シングル『melt summer』の続編という位置づけでサウンド的にも新機軸となるバンド編成アレンジでトライされている。
ジャケットのイラストにも触れるが、スウィートでシュールな世界観をアメリカン・ポップ・アートとして昇華しているのは、大阪府出身のイラストレーター中島ミドリだ。
ではこのシングルの収録曲について解説しよう。

 

タイトル曲の「melt bitter」は所謂Ⅱ-Ⅴ進行を基調とした黄金のコード進行のソングライティングと、バンド・メンバー達とのヘッド・アレンジでサウンドはクリエイトされている。
さとうのヴォーカルとコーラスの他、エレキギターとベースは中川翔太、ドラムは金本聖也、ウーリッツァー系のエレピなどキーボードは小川佳那子がそれぞれ担当している。彼女の楽曲としては新境地サウンドであり、コーラス・アレンジにはチャカ・カーンの匂いもするのでR&Bファンにもアピールするかも知れない。

音楽通には説明不要で下記のプレイリストを聴いて理解出来ると思うが、グローヴァー・ワシントンJrとビル・ウィザースによる「Just the Two of Us」(『Winelight』収録80年)を代表とするⅡ-Ⅴ進行の名曲は多く存在し、それ以前もシェリル・リンの「Got To Be Real」(78年)やボビー・コールドウェルの「What You Won't Do for Love」(78年)が知られ、後年もアイズレー・ブラザーズの「Between the Sheets」(83年)、ジャミロクワイの「Virtual Insanity」(96年)も一部のパートはその系譜だろう。
日本ではFLYING KIDSの「幸せであるように」(90年)や椎名林檎の「丸ノ内サディスティック」(99年)、近年ではあいみょんの「愛を伝えたいだとか」(17年)等々と、そのアーティストにとって代表作となっている曲が多く、このコード進行によるマジックは聴く者の琴線に触れているので、さとうの曲もきっと注目されるだろう。


続く「ひまわり」は、アレンジとプログラミングにエズミ・モリ(ESME MORI)が参加しており、母子の愛情を綴ったハートウォームでナチュラルな歌詞に先ず惹かれるが、複数のパートで構成された曲の展開がとにかく素晴らしい。某大手化学メーカーの洗剤の動画広告としてタイアップ・ソングに抜擢されたのも記憶に新しい。
ラストの「かたちない日々」は、小川佳那子のアコースティック・ピアノだけをバックに歌ったドラマティックなバラードで、ローラ・ニーロに通じる叙情的なサウンドと歌声が耳に残って離れない。 
(ウチタカヒデ)


山下達郎ライヴ・クロニクル Part-2(1978~80)

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 2月4日は山下達郎さんの67歳の誕生日です。このタイミングで、今から40年以上前ブレイク以前のライヴ活動の軌跡を紹介出来るのは良い記念だと思う。

 Part-1では大学生だった頃に衝撃の出会い、そして初ライヴ体験をした1977年までをまとめてみた。この時期は大学4年で就活も始めており、卒業後は地元に戻るつもりだったので彼のライヴも見納めのつもりだった。しかし「オイル・ショック後遺症」の余波で地元企業の就職戦線は全滅となり東京で就活を始めた。ただ本音は留年覚悟で開き直っていた。そして度胸試しと大手企業ばかりに履歴書を送付。ところが予想に反して、立て続けに内定連絡が届き、やっと社会人の仲間入りができた。 
 そんな経緯で東京には1981年まで暮らすことになり、在京生活メリットを活かしてコンサートにはよく通っていた。おかげで1980年に達郎さんが<Ride On Time>でブレイクを果たす瞬間まで見届けることができた。
 
 このPart-2ではそんな達郎さんが全国区になるまで足を運んだコンサートについてまとめてみた。 就活から解放された1977年末から1978年年初頃には達郎さんの認知度は極めて低く、一人でも多くに知ってもらいたいとばかり、自分なりの広報活動をしていた。
 まず、飲み会があれば、ダンス・ミュージック用にと<Windy Lady><Solid Slider>のテープ持参で参加していた。またバンド仲間には、Gregg Allmanの『Playin’ Up Storm(邦題:嵐)』トップの<Come And Go Blues>は<Windy Lady>が元ネタだと唱えて2曲のテープを持ち歩いていた。 
 その頃「六本木PIT INN」で達郎さんのライヴが3月8・9日に開催されるニュースが飛び込んできた。さらにこのライヴは“ライヴ・レコーディング”されるという予告もあった。とはいえこの時期はまだまだ洋楽志向派で、2/8には『Silk Degrees』で大ブレイクを果たしたばかりのBoz Scaggs、それに2/22には本邦初お目見えとなったレーザー・ビームの飛び交うELOの「Out Of Blue Tour」を見に日本武道館へ足を運んでいる。

 そんな達郎さんのライヴを楽しみにしていたさなか、就職内定先から泊まり込みによる「新人内定者研修」の連絡が届いた。なんとその日程は達郎さんの「六本木PIT INN」ライヴにかぶる日程で、目の前が真っ暗になってしまった。ただその合宿先は「代々木オリンピック選手村」とあり、ライヴ会場とは至近距離だったことに気が付き、開催日の夜に宿泊所を抜け出すことに発想を切り替えた。と、そのつもりでいたのだが、予定よりも研修時間が長びき、しかも研修を実施している会社が数社あり夜の見回りはかなり厳重になっており、“ライヴ・レコーディング”に立ち会うという夢は泡と消えてしまった。

 そんなこともありながら、研修終了後は即入社式となり、正式に社会人の仲間入りをした。就職先は東証一部上場企業だったが、社内では罵倒が飛び交う業界でも悪名高い“ブラック会社”と知り、出社初日で逃げ出したい心境になった。とはいうもののGW帰省した際に、保証人の叔父より「石の上にも三年」と念を押され、しばらく籍を置くことにした。
 そんな五月病を何とか切り抜けつつあった5/24、3月の「六本木PIT INN」での達郎さんのライヴ・アリバム『it’s a Popin' Time』を手に入れた。その後しばらく、ライヴに立ち会えなかった無念を晴らすように聴きまくっていた。このアルバムの心地よさは、日ごろ会社での重圧を忘れさせてくれるほどの活力剤となった。

 この時期に東京FM(FM Tokyo)で、Suger Babeのラスト・ライヴが放送されるという情報を入手。最高の音質で残しておきたいと思い、初めてTDKのハイポジ・カセット「SA」を入手して、オーディオ・マニアの同僚に録音を依頼している。

 その後、仕事は相変わらず低調状態ではあったが、余暇のレコード探索とコンサート通いで何とか持ちこたえていた。そんな年末の12/3には英国メロディー・メーカー誌で「Band Of The Year」と「Best Live Act」に選ばれたGenesisの来日公演に新宿厚生年金会館へ出かけている。
 この時期には、達郎さんのニュー・アルバム『Go Ahead』が12/20発売と、12/26には「Go Ahead 発売記念コンサート」が渋谷公会堂で開催されるインフォメーションがあり、良い年末が送れそうで気持ちがはずんでいた。



 がしかし、12月の会議で「目標達成率以下の者は、年末年始休暇没収」という恐喝めいた訓示があった。8月にも「盆休み没収事件」もあり、その時期は何とか乗り切ったが、今回はかなりやばい状況だった。とはいえコンサート予習に備え12/19に佐々木レコード社へ駆け込み『Go Ahead』を入手。この新作は「週刊FM」でも高評価されており、一週間後のライヴがさらに楽しみになった。

 だが仕事は絶不調の毎日で食事ものどを通らず、前日12/25には“拒食症”による栄養失調で倒れ救急車で病院に担ぎ込まれた。その入院事件が功を奏したためか、翌日も静養で休みが取れ、堂々と渋谷公会堂に向かうことができた。

 ◎1978年12月26日(火) 『Go Ahead Concert』 渋谷公会堂 
 満杯とはいえない館内だったが、熱狂的な達郎マニアの熱気にあふれていた。ただ、ニュー・アルバムの予習はそこそこで、個人的には『it’s a Popin' Time』の新曲の方が馴染んで聴けた。なおこのライヴで鮮明に覚えているのは、クールズのプロデュースをニュー・ヨークでしてきた話と、達郎さんのライヴで初めてセットが登場した<Space Crush>のパフォーマンスだった。
 そして、メンバー紹介をフューチャーした<Let’s Dance Baby>、まだクラッカーは登場していない。ラストは<Circus Town>で、アンコールは私が初めてバンド体制で聴いた<Down Town>で大満足のライヴだった。
 しかし達郎さん初心者だった同行女子の帰路での感想「この人、きっとメジャーにはなれそうもないわ。」には相当テンションが落ちた。 

 といったところで、1979年に入ると来日公演のラッシュで頻繁に日本武道館に向かっている。まず2/26にはMicheal McDonaldが加入したばかりのThe Doobie Brothers、この公演は最前列近くの席が取れたが、テレビ中継が入っていたために見辛かった。3/2はLinda Lonsadt、3/26には<September>を発表したばかりの全盛期Earth, Wind & Fireと頻繁に武道館公演を楽しんでいた。 


◎1979年6月2日(土) 『Flying Tour Part 1』日本青年館 
 このライヴには弟と向かったのだが、初めての会場ということもあって、入場した時にはオープニングの<ついておいで>のコーラスが聴こえており、不覚にも遅刻した。 慌てて席に着くと<Windy Lady>が演奏され、新しいバンド・メンバーが紹介された。
 この当時は達郎さんも来場客もライヴ・ハウスのノリで、会場内は掛け声の応酬合戦だった。 <Paper Doll><Candy>と進み、一息ついてトークが始まる。
 そこではCMソングの話になり、勢い余って自ら“一生の不覚”とコメントして<いちじく浣腸>の弾き語りも飛び出し、大喝采を浴びた。その続きで「近々、Coca-ColaのCMが出るのでお楽しみに!」と期待をさせる話題も提供してくれた。
 トークのあとは<Love Celebration><Escape>と続き、以後達郎さんのライヴでは定番となる「アカペラ・コーナー」。この日は<Wind>を披露し、<Minnie><潮騒>とゆったりとしたナンバーに繋がった。 
 コンサートの後半は、フェイヴァリット・ナンバーと紹介して<On Broadway>から<Solid Slider><夏の陽>へと続く。ここで、達郎さんから「初めての方が多いみたいですが、いかがですか?」と投げかけられ温かい声援が飛ぶ。
 そして「最近、大阪のDiscoで流行っている曲を」と、噂の<Bomber>が登場。ここでは、田中章弘さんと上原ユカリさんの強靭なリズム隊に椎名和夫さんのギターが唸り、吉田美奈子さんと大貫妙子さんのコーラスも冴えわたった。 続く<Let’s Dance Baby>では後に恒例行事となる“クラッカー” が前方の席でさく裂!このサプライズには達郎さんも驚きで調子が狂い、しばらくはキーが安定しなかった。
 ラストは、石田ゆり子さんのCMデビュー作JAL沖縄キャンペーン・タイアップ曲<愛を描いて-Let’s Kiss The Sun->で総立ちとなった。 アンコールは手拍子で<So Much In Love>、そして昨年末の渋谷公会堂でも大いに盛り上がった<Down Town>の再演と、静岡から上京してきた弟も大満足のライヴだった。

  帰路に就くと会場の外では「ファンクラブ入会募集」のチラシや、年内発売予定の『MOONGLOW』告知フライヤーが配られていた。そのフライヤーには曲目も印刷されていたが、1曲目に<想い>(正式には<夜の翼(NIGHTWING)>になる)とあり、「大瀧さんのカヴァーがオープニング?」と勝手に勘違いをして、その場を後にした。 
 
 補足になるが、達郎さんは最近のサンソンで「クラッカー起源」を、「80年のライヴ・ハウス」と答えていらしたが、私はこのコンサートで体験した。しかも演奏中の達郎さんが驚いたくらいなのでここが発端だと思っている。 

◎1979年9月1日(日) 『Flying Tour Part 2』 関内・横浜市民ホール 
 ここにはファースト・コンサートに行ったバイト仲間と参戦。今回関東圏は横浜市民ホールだけだったので初めて関内への遠征だった。 
 10/21に発売予定の『MOONGLOW』から新曲が聴けるだろうとふんでいたが、トップに<夜の翼(NIGHTWING)>が登場し<Solid Slider>へ。2曲が終わると「ローディーが辞めてしまいまして、やる気にある方募集してます。」と切り出し笑いを誘う。 
 そして「6/2の日本青年館にいらしていた方はどれくらいいらっしゃいますか?」の問いかけに大きな拍手。「何回もすみませんね」とほぼ常連客で埋め尽くされた会場とコミュニュケーションをとりつつ進行し、<Paper Doll><ついておいで>と続いた。 
 その後のトークでは「最近頭が薄くなって、禿げたら引退します!」と笑いを誘い、「12/26に渋谷公会堂で大きなコンサートやる予定なので、是非いらしてください!」と勧誘告知。 続いてはお馴染み<Windy Lady><Candy>、終了後のトークでは「RCAレコード内に作った自身のレーベルAirからリリースする新作のシングル予定曲を初披露します」と<永遠のFULL MOON>を演奏。 
 そして、定番のアカペラ・コーナーでは<Blue Velvet>、その流れで<潮騒>。その後はレコーディングの話題で、達郎さんがプロデュースした『Ann Lewis/ Pink Pussy Cats』、さらには『限りなく透明に近いブルー』サウンド・トラックの話にふれる。そこで後者に収録した曲としてYoung Rascalsの<Groovin’>。レコーディングのテイクよりも、ハードで躍動感のある演奏だった。
  その後<Hey Their Lonely Girl>を挟んで、N.Yでのぼったくりタクシーを皮肉った<Yellow Cab>、<Hot Shot><Let’s Kiss The Sun>で閉め。アンコールは<Last Step><夏の陽>。 
 
 10/21に待望の新作『MOONGLOW』が発売になったが、今回の購入先は「佐々木レコード社」ではなく、当時住んでいた竹ノ塚駅近隣のショップだった。これは私なりの広報活動の一環としての行動で、店に入るなり「山下達郎さんの『MOONGLOW』ってアルバムが発売になったはずですが、入荷してますか?」と伺う。店員に探させたうえに、わざわざ視聴し、「これこれ!」と頷きながら購入した。 

◎1979年12月26日(水) 『Flying Tour Part 3』渋谷公会堂 
 この日のオープニングはドラムがけたたましく響く中、「Ladys And Gentlmen, Tatsuro Yamashita Super Concert, 1979 Shibuya Public Hall Tokyo」「Are You Ready? 」「Yaeh! O.K. Here We Go, Take it Easy, Hey! Tatsuro Yamashita Get it on! Joyin’ on」というやたら派手なDJのスピーチで<Bomber>がスタート。周りを見回せば、客層がそんな雰囲気。
 2曲目は<Paper Doll><ついておいで>といったいつもの達郎さんに戻り、やっと落ち着いた。そしてトークが始まり、このライヴからリズム隊の二人(B.:伊藤広規、Dr.:青山純)と、チキン・シャックのサックス・プレーヤー土岐英史氏が参加したことを報告、この布陣で80年代以降の達郎サウンドが担われることになった。
 その後、『MOONGLOW』からの新曲<Rainy Walk>が演奏され、ライヴが落ち着きを取り戻したところで難波弘之さんの初ソロ作『Sense Of Wonder』の紹介があり、達郎さんの提供曲<夏への扉>を演奏するも、出だしにコケでしまい仕切り直し。ここでは1番を達郎さん、2番を難波さんというリレー。このRobert A. Heinleinの小説をモチーフに仕上げたSFタッチの曲を「今年一番の出来」と断言していた。 
 続いて横浜のライヴでも披露されていた<永遠のFULL MOON>、ファンにはお馴染みになっていた「アカペラ・コーナー」。この日はThe Shanelsの話題にふれると「来てるぞ!」と反応があり達郎さんもタジタジ、そこで<Most Of All>を披露。
 アカペラに続いては<潮騒>、横浜でも演奏した新曲<Hot Shot>になるが、この日は椎名さんのギター・ソロがさく裂。<Monday Blue>で一息ついて、次のトークでは三波春夫さんの話で独演会状態となる。
 次は「「ひろったタクシー、パラノイア」とは何事だとタクシー業界からクレームがついた。」というエピソードが紹介された<Yellow Cab>を横浜に続いて演奏。 さらにファンク度を増した<Windy Lady><Solid Slider>。
 そして<Let’s Dance Baby>では「日本青年館公演」のでの噂が行き渡っていたかのように、より数を増したクラッカー隊がさく裂。この日の達郎さんは動じることはなかった。エンディングでは美奈子さんとター坊のコーラスに合わせて「♪Let’s Dance Baby♪」の大合唱。 さらに昨年の渋谷同様、ステージにセットが準備された<Space Crush>、エンディングでは達郎さんのアカペラが廻廊のようにドラマチックな轟き、ラストは<Circus Town>。 
 会場総立でアンコールは、メンバー紹介を挟んだ初披露の<Funky Flashin’> で幕。 
 

 なお私は達郎さん同様に、昨年11/12このライヴ後40年ぶりに渋谷公会堂(Line Cube Shibuya)に足を運んだ。その際私の隣席には小学生風の少女がお母さんに連れられて座っていたが、最初は場になれず「ふて寝」していた。
 それが、<クリスマス・イブ>で「どこかで聴いたような」といった雰囲気で目を開けると、<アトムの子>では「翻訳コンニャク(らしい)」で飛び出した「アンパンマン」に大喜び。さらに<ハイティーンブギ>になると、飛び跳ねてお疲れ気味のお母さんを立ちあがらせるほどだった。 
 私自身ソロ・デビュー以来長らく達郎さんのライヴに通いつめているが、こんな小さな子供が喜んでいる光景を見られる日が来るとは想像もしてなくて、ほんわかした

 年が明けた1980年1/26には芝郵便貯金ホールで、『Flying Tour Part 3 追加公演』が開催されているが、この時期は来日公演ラッシュでパスしてしまった。ちなみに、2/6には新宿厚生年金大ホールのDaryl Hall & John Oates、2/14は中野サンプラザPolice、2/17は新宿厚生年金大ホールのJ.D.Souther、それに3/9には中野サンプラザのTOTOといった面々の初単独ライヴを堪能していた。 この時期の私はかなりの来日公演に足を運んでいるが、当時の達郎さんはこれらのミュージシャンとも決してひけをとらない存在だった。

 

 そんな中、達郎さんがMaxellカセットテープのCMに起用されるというニュースを聞き、再び達郎熱が沸騰してきた。その新曲5/1の発売<Ride On Time>を前に、達郎さんが登場するCMとタイ・アップ曲を聴き、「凄い!」と感激した。  この曲をひっさげたツアーも発表となり、即チケット確保に走った。だがあり得ないほど入手困難状態になっていて、彼のライヴでは初めて二階席からの観覧となった。 

◎1980年5月3日(日) 『Ride On Time Concert ‘80』 中野サンプラザ・ホール 
 オープニングは今に繋がるようなコーラス~Overture~<Love Space>で、「渋谷公会堂公演」とはうって変わり原点回帰したような印象だ。なおこのライヴからコーラスが和田夏代子さんと鈴木宏子さんに変わり、吉田美奈子さんが外れている。 
 そして<永遠のFULL MOON><雨の女王>が続く。トークに入り「今日は思いっきりたくさん曲をやります!」に、「たつろ~ぉ」と黒い歓声が飛び交う。達郎さんの「キャンディーズ聴きに来てんじゃないんだから!」の一言で場内大爆笑。そんな流れで<Rainy Walk><Paper Doll><ついておいで>へ、ブレイク後初ライヴとあって、演奏側も聴衆側も充実した時間を共有している。 
 そして、もうお馴染みとなった「アカペラ・コーナー」、この日は<Blue Velvet><Alone>。引き続いての演奏は<Love Celebration><Storm><Touch Me Lightly>。後半は<Sunshine-愛の金色->、お馴染みの<Bomber>、<Let’s Dance Baby>、とノリノリ・ナンバーで退場。
 アンコールでは達郎さん初の大ヒット<Ride On Time>、そして<Down Town><Let’s Kiss The Sun>もきっちり聴けた。 



 ◎1980年8月2日(日) 『Ride On Time Concert In HAYAMA』葉山マリーナエメラルドプール 
 当時のキャッチフレーズ「夏だ!海だ!達郎だ!」をそのまま置き換えたようなシュチュエーションで行われたライヴ。当日は会社の研修で箱根におり無念の涙。なおこの日はShanellsとの共演予定だったが、彼らが「新聞沙汰」で没になり単独公演に。
 途中で雨天になり、達郎さんは初めてで「ライヴ・ハウスが洪水になったと思って」とコメント。 この模様はFM東京の「Maxcell Your Pops/Big Summer Present/Tatsuro Yamashita 」でオンエアされた音源での体験だった。 
 のっけから<恋のBoogie Woogie Train>、ここでは「この吉田美奈子の書いた素敵なフレーズを歌おう」とアゲアゲ、次は「僕がステージでやる曲で1番好きなナンバー」とコメントして<永遠のFULL MOON>。<潮騒>に続いて、「天気が良ければ真正面に陽が上がって、このミラーに反射するはずだったんだけど」と雨天を恨みつつ<夏への扉>。  
 この日のハイライトは達郎さんのフェイヴァリット<Groovin’>。エンディングでは難波さんと椎名さんのアドリブから達郎さんのギター・カッティングの応酬、さらに会場からリクエストを募って何と「100回!」のカッティング。  
 後半は<Bomber>、<Let’s Dance Baby>では、「心臓に♪」で演奏が止まりクラッカーの大砲撃、「ホント、よくやるよ!」と演奏再開、そして「Let’s Dance Baby~♪」の大合唱。ラストはノンストップでメンバー紹介をフューチャーした<Funky Flashin’>、そしてアンコールは大ヒット<Ride On Time>で約3時間のステージ。 

 そして待望の新作『Ride On Time』発売日は9/21だった。当日は月曜で会社での打ち合わせ後に、営業車でお茶の水に直行。着せ替えジャケット付きの特典LPをDisc Unionの開店時間まで待機し、11時ジャストに店内へ駆け込みゲットした。 




◎1980年12月28日(日) 『Ride On Time Concert ‘80』 中野サンプラザ・ホール 
 無伴奏での<I Beleve To My Soul>に続いては私が待っていた<夏への扉>! 作者の達郎さんも美奈子さんもお気に入りの<Rainy Day>、勝新太郎さんの一声でシングルB面となり“幻の名曲”と紹介された<いつか>は印象的だった。 
 そして個人的には初めてライヴで聴いた弾き語りの<過ぎ去りし日々’60 Dream>の選曲には驚いた。また12/5発売になったばかりの『On The Street Corner』の話で、「限定盤なんで持っている人は自慢しましょう。」と言って、今回のアカペラは未収録だった1959年Framingos<I Only Have Eyes For You>。 
 メンバーが登場して「僕のフェイヴァリット・ソング」と告げて<La-La-Means I Love You>、エンディング近くは<Let’s Dance Baby><Funky Flashin’><Ride On Time>とお馴染みのナンバーで畳掛ける。アンコールは<恋のBoogie Woogie Train>で決まり! 

 私は1981年3月に東京の勤務先を退職し、夏には静岡に戻り再就職している。そこでも1983年12/6の静岡市民文化会館公演を観覧していた。ただその後は頻繁に転勤を命ぜられ、仕事に邁進する日々で達郎さんに触れる機会は約10年間も遠のいてしまった。 

 そんな私がライヴ通いを再開するのは、長い転勤生活と管理職から開放され、滋賀在住になった頃だ。それはこの地でVANDA誌を通じ、佐野邦彦さんとの付き合いが始まったことがきっかけとなった。
 ある日彼から「達郎さんのファンクラブに入会すれば、入手し難いチケットが確実にゲットできるし、毎年未発表音源がもらえる」という話を聞き、即入会したことで完全にスイッチが入った。佐野さんとの付き合いが無ければ、今回のようなブレイク前夜の達郎さんの話をまとめることなどなかったはずだ。そういった意味でも、佐野さんとの記憶はいつまでも消滅することはないだろう。 
                              (鈴木英之)

SO NICE:『光速道路』(JET SET / KTYR001)

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昨今のシティポップ・リバイバルのきっかけの一つになったとされる伝説のバンド、so nice(ソー・ナイス)が代表曲の『光速道路』を新装7インチ・アナログ盤で2月19日にリリースする。
この『光速道路』は2014年4月19日のRecord Store Dayに初7インチ化され、直ぐに完売となった。筆者も開店前から店頭に並び手に入れたものだ。

2014年盤・鎌倉氏と江口寿史氏のサイン入り】 

そもそもso niceは、1976年に日本大学芸術学部の“フォークソング・クラブ”内で鎌倉克行と松島美砂子によって結成された、シュガー・ベイブ及び山下達郎の学生フォワー・バンドである。
バンド結成のきっかけとなったのは、リーダーの鎌倉が1975年5月24日のティンパンアレイ・フェスティバルを観に行った際、オープニング・アクトを務めていたシュガー・ベイブの演奏に感銘を受け、早速会場でアルバム『songs』を購入し音楽仲間に聴かせてコピーを始めたからだという。
その後1979年にビクター主催の『大学対抗フォークソング・コンテスト』に出場し、見事優勝するなど玄人筋(審査員には杉真理氏も)からの評価も高かったが、プロ・ミュージシャンは目指さず、同年卒業記念として自主制作盤で200枚のみリリースしたアルバムが『LOVE』である。 
このアルバムは28年後の2007年に某SNSのシュガー・ベイブ・コミュニティで突然取り上げられ、ネットオークションでも高値で落札されて話題となった。 1976~79年当時としてはこういったスタイルのバンドはマイノリティーであったと推測するが、鎌倉をはじめメンバー達の先見性には脱帽してしまう。


【so nice 現メンバー】 

今回紹介する『光速道路』は『LOVE』収録曲中屈指の名曲で、前出の通り2014年に続いて今回新装リワーク盤として7インチでリリースされる。 なお前回は収録時間の関係で回転数が33RPMだったが、新装版では待望の45RPMとなっている。改めて解説するが、タイトル曲は『songs』をコピーして研究した成果が滲み出ており、イントロには「SHOW」、ヴァースとフックには「今日はなんだか」の影響を感じさせ、現在聴いても色褪せることは全くない。

 
『光速道路』

カップリングはこの『光速道路』をDJ Bossa★DaとHF  International(平岩克規、福田征希)のによりリワーク(リアレンジ)されたバックトラックに、鎌倉が新たに歌入れしたレゲエ・ディスコ・ヴァージョンを収録している。このリワーク・ヴァージョンはパターン・ミュージックとしてのグルーヴが強調されており、DJユースとしては勿論だがシティポップ・ファンも新鮮な感覚で聴けるのだ。

またジャケットイラストは前回の2014年盤と同様、漫画家でイラストレーターの江口寿史氏が担当し、なんと新たに描き下ろしている。
一見前回の流用かと見間違えそうだが細かく見ると気付く筈で、光速をイメージする光のパース、女性のサングラスの影や後ろ髪の毛先、車内ではシフトレバーの微妙なポジション、バックミラーに写る人物、パネルの速度メーターとタコメーターやカーシガーソケットのライト、カーオーディオの型式などなどその違いを探すのも面白いかも知れない。
なおこの新装7インチ・アナログ盤は既に予約分が完売している店舗も多いので、興味をもったシティポップ・ファンは、リリース日に店頭分を早急に入手することをお勧めする。

リリース元: JET SETサイト 

(ウチタカヒデ)

集団行動ワンマン企画 「POP MAGIC vol.1」

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昨年筆者が選ぶ2019年の邦楽ベストソングにも選出した集団行動(しゅうだんこうどう)が、 今月28日にワンマン・ライブを開催するので紹介したい。
リーダーでギタリストの真部脩一を中心に、ドラマー西浦謙助、ベーシストのミッチー、そして紅一点のヴォーカリスト齋藤里菜の4人の他、サポート・キーボーディストの奥野大樹(ルルルルズ)を加えたパフォーマンスは、どのバンドとも異なる魅力を放っている。
またナンセンスな演出とMCも非常に面白く、トータルで楽しめるステージとなっているので興味を持った音楽ファンは是非足を運んで欲しい。


2020年2月28日(金) 渋谷LUSH
 集団行動ワンマン企画 「POP MAGIC vol.1」
 ●OPEN 18:30 / START 19:30
 ●ADV 3500 / DOOR 4000 (+1D ¥600 ) 
・ライブポケット URL:https://t.livepocket.jp/e/0228lush
 ・イープラス URL:https://eplus.jp/sf/detail/3162460001
※入場順 先行→ライブポケット→イープラス 


なお彼等は昨年4月のサード・アルバム『SUPER MUSIC』以降、配信限定シングルとして3ヶ月連続で3曲をリリースしている。遅くなったがそちらの曲にも触れておこう。

「ガールトーク」

19年9月第1弾の「ガールトーク」は真部と西浦がかつて所属した相対性理論の初期エッセンスを持った、真部ペンタトニック・スケールというべきメロディに齋藤のキュートな歌唱が上手くはまっている。


「キューティクル」

続く同年10月の第2弾「キューティクル」は、ブリリアントなシンセサイザーのイントロから小気味いいビートを刻む。フックはH=D=Hよろしくポジティヴなリフレインで高揚させる。


「マジックテープ」

そして11月の第3弾「マジックテープ」はよりダンス・ミュージックの色が強くなり、真部の16ビート・ギターカッティングやシンベのベースラインのファンキーさと、齋藤のクールな歌唱のコントラストが面白い。
以上の3曲は次作のフォース・アルバムにも収録されると思うので期待したい。 

(ウチタカヒデ)


1970年代アイドルのライヴ・アルバム(沢田研二・バンド編 Tigers期)

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 今回は20世紀最大の男性アイドルのひとり「ジュリー」こと沢田研二のライヴ・アルバムについてレビューする。このコラムは1970年代に活躍したアイドルについてまとめているが、沢田の正式デビューはグループ・サウンズ(以下、GS)のトップ・グループに君臨した「ザ・タイガース」で1967年だ。ただ彼の正式ソロ・デビューは1971年であり、そして1970年代におけるアイドル・シンガーとしての活躍ぶりは目を見張るものがあった。そんな1979年には当時のトップ・アイドルのひとり石野真子が<ジュリーがライバル>というタイトルの曲をヒットさせ、1970年代アイドルのひとりとして語る価値があると思う。

 そしてタイガース解散後は、GS界きってのトップ・グループから人気メンバーが集結した「PYG(ピッグ)」へ参加、その後正式にソロ・シンガーとなっている。そんな沢田の軌跡を「バンド~ソロ編」の順で紹介するが、今回は「バンド編」をGS期とロック期に分け、GS期のザ・タイガースでの活動を振り返ってみる。  

 まずは始動となった「ザ・タイガース」だが、バンドは彼を除く4人[森本太郎(以下、タロー)、岸部修三(現:一徳、以下サリー)、瞳みのる(以下、ピー)、加橋かつみ(以下、トッポ)]が大阪で見たザ・ベンチャーズに刺激され1965年1月に結成した「サリーとプレイボーイズ」だった。当初はインスト主体バンドだったが、ビートルズ等の影響でヴォーカリストを擁したバンドへの転換をはかり、専属ヴォーカリストを物色した。そんな彼らが目を付けたのが、四条河原町のダンスホール「田園」のハコバン「サンダース」バンド・ボーイ兼ヴォーカル担当の沢田だった。  
 そして1966年元旦、沢田はピーをリーダーとした「ファニーズ」に加入。当時の活動拠点は大阪・難波のジャズ喫茶「ナンバー一番」。当初は週2回のステージで、回数を重ねるごとに人気が上昇し、演奏回数も増えていった。そして、この年5月に京都会館で開催の「全関西エレキ・バンド・コンテスト」で、ローリング・ストーンズ(以下、ストーンズ)の<サティスファクション>で優勝に輝き、翌6月にはホーム・グラウンドでのトップ・グループに成長。

 その評判は東京方面にも伝わり、著名人が彼らのライヴに足を運び、東京のプロダクションと接触を持ち、彼らを高く評価した内田裕也(当時、ブルージーンズ専属ヴォーカリスト)からスカウトされる。そんな彼を経由して「テレビに出るチャンスが多い事務所」というメンバーの意向も反映され、渡辺プロダクション(現「ワタナベエンターティンメント」以下、ナベプロ)と契約を結ぶ。

  そして同年11月に東京に進出し、バンド名を「ザ・タイガース」と改名(すぎやまこういち命名)、リーダーもピーからサリーに変更された。なお彼らの初テレビ出演は、すぎやまこういちがディレクターを務めていた『ザ・ヒットパレード』(フジ系)で、そこではポール・リビアとレイダースの<Kicks>を演奏している

  その後、日本グラモフォンのポリドール(現ユニバーサル・ミュージック)と契約。翌1967年2月には<僕のマリー>でレコード・デビューを果たしたが、この時点では数あるGSの1つにすぎなかった。そして第2弾スタッフ間では「あまりに騒々しい」など難色を示す声もあった<シーサイド・バウンド>の発売で状況が一変。この曲はデビュー曲に不満を持つメンバーの意向が尊重され、ザ・ビートルズのEP<Twist And Shout>をモチーフにしたジャケットで発売し大ヒットを記録。続く<モナリザの微笑>も連続ヒットと、それまでGS界の頂点に君臨していたスパイダースとブルーコメッツの牙城を切り崩す最右翼に躍り出た。 



 そして、11月5日にはファースト・アルバム『The Tigers On Stage』を発表。これは8月22日東京・サンケイホールのリサイタル模様を収録したライヴ作であり、そのレパートリーは洋楽カヴァーが多く、彼らのテーマ曲も「ザ・モンキーズ」から拝借したものだ。ちなみに、デビュー・アルバムがライヴだったのは数あるGSでも彼らだけだ。その当時のGSはライヴにおいては積極的に洋楽カヴァーを演奏しているが、タイガースはその選曲センスも抜群だった。ストーンズの<Time Is On My Side>は彼らの演奏で有名になったとも言われ、またポール・ジョーンズ(元マンフレッド・マン)の映画主題歌<傷だらけのアイドル(Free Me)>が、日本で話題になったのも彼らが演奏していたからという説もあるほどだ。そんなファンたちはコンサートで、良質な洋楽の洗礼を受けていたといえるだろう。

 ただ、このアルバムが発売された当日は、皮肉にも奈良あやめ池の野外ステージで開催された公演にて、押し寄せたファンが将棋倒しになり、多くのファンが負傷するという事故が発生。この事件以来、世間からGSに対し「風紀を乱す存在」「見るのは不良行為」なる烙印が捺され、以後彼らのような“長髪GSは世間からボイコットされる。とくにGSのコンサートには、学校やPTAの厳しい取り締まりが始まった。更に過敏に反応したNHKは人気番組『歌のグランド・ショー』で、当時収録済みのタイガース出演部分をカットするという暴挙に出た。また『NHK紅白歌合戦』にも対象外とされるなど、あまりに偏見の強いものだった。とはいうものの、そんなタイガースも1989年『NHK紅白歌合戦』の「紅白40回記念大会の昭和を振り返るコーナー」に初出場、そこでは<花の首飾り><君だけに愛を>を演奏している。


 このように世間からは逆風状況ではあったが、翌1968年1月リリースの<君だけに愛を>は、沢田の“指さしポーズ”に日本中のファンが熱狂し、GS史上でも屈指の名曲となった。ただ、当時一大旋風のアングラ・ソング<帰ってきたヨッパライ/フォーク・クルセイダース>が1位に君臨し、惜しくも2位止まりに終わっている。余談になるが、このようなノベルティー・ソングに1位を阻止された名曲には<木綿のハンカチーフ/太田裕美>がある。この時期には<泳げたいやきくん/子門正人>(史上初のシングル初登場1位・11週連続、454万枚以上)によってトップのチャンスを逃している。 


 話はタイガースに戻るが、この大ヒットにより彼らはGS界のトップ・グループに登りつめ、3月10日には日本人アーティストとして初の日本武道館単独コンサートを開催。そこには「月刊明星」3・4月号の招待券抽選に当選した1万2,000人ものファンが押し寄せ、スタッフは「あやめ池事件」の二の舞を踏まぬよう神経をとがらせていたという。当日は、初の主演映画『世界は僕らを待っている』主題歌となった5枚目のシングル<銀河のロマンス>と、映画の挿入歌でトッポ初リード曲<花の首飾り>(「月刊明星」1968年1~2月号で「タイガースの歌う歌詞」募集)の発表会も敢行した。そんな話題性と楽曲の素晴らしさもあって、このシングルは彼らにとって初のチャート1位(7週間)に輝き、売上げもGS史上最大のセールス(公称は130万とも200万枚超とも)を記録している。なお、募集歌は<ホリディ>(1967年/ビージーズ)を歌っているトッポをみたすぎやまこういちが、わずか30分で書き上げたものだった。ただ、歌詞の応募者の大半が沢田歌唱を想定とするがだったため、不満を漏らすファンもあったようだった。 

 さらに8月には彼らのファースト・アルバムに収録された<スキニー・ミニー>を連想させるような6枚目のシングル<シー・シー・シー>も連続1位(50万枚)を記録し、ゆるぎないGS界のトップ・グループに君臨した。余談になるが、当時中学生だった私は海水浴場やブール・サイドで、この曲を耳にタコができるほど聴かされた記憶がある。なお、GSには今も歌い継がれる名曲が多々あるが、1位獲得曲は彼らの2曲とテンプターズの<エメラルドの伝説>だけだった。補足ながら、当時はタイガースが「日本のビージーズ」、テンプターズは「大宮のストーンズ」とも言われた。だがタイガースはテンプターズ以上にストーンズ・ナンバーを多く歌い、沢田もミック・ジャガーを意識したパフォーマンスを展開している。なぜタイガースがビージーズと呼ばれていたかは、<マサチューセッツ>が日本で1位を獲得するほど人気が高く、所属が同じポリドールだからとも推測される。

  この爆発的人気を象徴するかのように、8月12日には日本における初の球場コンサートを後楽園球場で開催している。なおこのコンサートは一般にも大きな話題となり、当時の漫画「歌え!!ムスタング」(原作:福本和也、画:川崎のぼる/少年サンデー)の一コマに取り上げられている。どのように書かれているかは、国会図書館や京都マンガ博物館等の所蔵でチェックされたし。 
 そんなこの時期にはテレビで彼らを見ない日はないほどの人気頂点にあった。特に1967年12月からオンエアされた「明治製菓」のCMソングは、一般のヒット曲以上に日本列島の隅々まで響き渡った。そして、1968年春~69年秋までの間(合計3回)には「ザ・タイガース声の出るソノシート」(*1)が購入者プレゼントとして企画(包み紙150円分と切手70円が一口)された。 

 そして、1968年にはザ・モンキーズの来日公演(同年10月3・4日本武道館)の際に、彼らの希望で直接会う栄誉を持つ。さらに、テレビ番組『モンキーズ・ショー』のスポンサー(明治製菓)の絡みもあってトッポがタイガースを代表してディヴィー・ジョーンズとマイク・ネスミスとの対談に臨む機会を持っている。そこでは、トッポが持参したセカンド・アルバム『世界は僕らを待っている』を手にしたマイクから、「素晴らしいジャケットだ!」の称賛から始まった。そしてトッポは、「12月には僕の自作を収録した最新作が出る」とコメントするとディヴィーが興味を示し有意義な音楽談義に花を咲かせていた。

 そんなトッポ自作<730日の朝>収録したサード・アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』は、ゴールデン・カップスの『ブルース・メッセージ』と並び、GSが生んだ大傑作と今も語り継がれているものだった。このアルバムは「旧約聖書」をコンセプトにしたトータル・アルバムで、メンバーのオリジナル曲も含む意欲作だった。その収録曲は、名曲の誉れも高い<忘れかけた子守唄>をはじめクオリティも高く、名作に恥じない楽曲が並び、日本の音楽シーンを牽引していた彼らにふさわしいものだった。さらにタロー作の<青い鳥>はシングル・カット(別テイク)され、大ヒット(4位:33.6万枚)。当時LPは驚異の20万枚超えの大ベストセラーとなった。 
 また、アルバム発売に先駆け<廃墟の鳩 / 光ある世界>(3位:30.3万枚)がリリースされているが、そのジャケットは伝説のバンド、バファロー・スプリングフィールドのサード・アルバム『Last Time Around』をモチーフ(その後、<美しき愛の掟><嘆き>にも)にしたものだった。
 

 そして、同月には主演第二作『ザ・タイガース 華やかなる招待』も公開され、タイガースはGSブームの牽引者として、さらに揺るぎない地位を確立している。しかし3月にはトッポがバンドを脱退し、一大ショックが日本中を駆け巡った。ファンにとっては<青い鳥>カップリング曲<ジン・ジン・バンバン>のエンディングで、メンバー同士による和気藹々とした笑い声を聴いていただけに青天の霹靂ともいえる事件だった。当時中学3年だった筆者の学校でも女子たちの動揺はすさまじいもので、なかでも私の憧れだった「ジュリーと同じポイントにほくろのある女子」を筆頭にこの話題に騒然としていた。とはいえ、新メンバーがサリーの弟・岸部シロー(以下、シロー)と報道されるや、「すごくハンサムらしい」と胸を膨らませており女心の移り気の速さに驚かされた。 

 シロー加入後の3月25日にはトッポ在籍時録音済みの<美しき愛の掟>を再録音版でリリース、4位(26.7万枚)と健在ぶりをみせた。その人気は海外にも伝わっていたようで、翌1969年3月1日にはアメリカの音楽雑誌『ローリング・ストーン』 (Vol.28) の表紙にメンバー写真が掲載されている。これは日本版が刊行される前の同誌において、日本人が表紙を飾った最初で最後の栄誉だった。
  そんななか7月にシロー加入後、3作目の主演映画『ザ・タイガース ハーイ! ロンドン』を公開。また同月には映画の撮影で滞在したロンドンでの録音、ビージーズのギブ三兄弟提供曲<Smile For Me>(3位:28.4万枚)が発売された。このシングルは日本のB面曲<淋しい雨>をA面にして英国発売するなど、この年も話題に欠くことはなかった。ちなみにこの映画にはバリーが友情出演している。なお、この曲はビージーズがデモを録音したと聞くが、残念ながら筆者は未聴だ。当時この二大グループのジョイント・コンサート計画があったらしいが、ビージーズ多忙のため実現しなかったようだ。 

 この頃には急速にGSブームは完全に終焉に向っていたが、相変わらず沢田の人気は絶大だった。それはこの年に修学旅行で京都観光に出かけた際に感じさせられた、それは女子の一番気を惹いたスポットは「沢田の実家」だったからだ。何せバスガイドが「右手をご覧ください」とコメントすると、女子が右に寄りすぎバスが傾くほどだった。 
 そんな12月には沢田がソロ・アルバム『JULIE』をリリース(公式データは6.9万枚だが、予約で15万枚あった報道も)、ここから<君を許す>(両A面<ラヴ・ラヴ・ラヴ>/18位:11.6万枚)がカットされた。1970年に入ると、岸部兄弟がソロ・プロジェクト『サリー&シロー トラ70619』を発表、タローはアイドル吉沢京子のデビュー曲を手掛けるなどメンバー個々が新たな道の模索始めている。

  この時期、所属事務所は沢田を将来的にソロ・シンガーとしての活動を目論み、沢田をバンド内で優遇して他のメンバーを「バック・バンド」として差別した。しかし彼はタイガース解散に最後まで反対し、あくまでバンド活動に執着した。そんな状況のなか同年3月リリースの<都会>は10位(14.4万枚)と健闘し最後のトップ10ヒットになった。 

 翌4月26日には日本万国博覧会のEXPOホール・水上ステージでの「ザ・タイガース・ショー」を開催、また7月には沢田初の書き下ろし曲<素晴しい旅行>(15位:13.4万枚)をリリースするなど健在ぶりをみせている。ちなみに、この曲のモチーフは<シーサイド・バウンド>らしいが、井上堯之によるアレンジで<I Feel Fine/ザ・ビートルズ>を連想してしまった。
 そんな沢田はザ・ピーナッツに<男と女の世界><東京の女>(47位:6.7万枚)、ロック・パイロットには<ひとりぼっちの出発>などを提供し作曲家としての活動もはじめた。ちなみに、彼の作曲家最大ヒットは、1982年にアン・ルイスへ提供した<ラ・セゾン>(作詞:三浦百恵/3位:35.4万枚)だ。  

 この1970年後半にはGSの存在は完全に過去のものとなり、ブームを牽引していた多くのグループが解散した。ただ、タイガースはそんな逆境を拭い去るかのように11月には、12月発売予定の第5作アルバム『自由と憧れと友情』からの先行シング<誓いの明日>(18位:5.7万枚)をリリースした。しかし、12月7日ついに王者タイガースも解散を表明し、翌1971年1月24日に日本武道館で開催の「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」を最後に解散した。この模様は、ニッポン放送で3時間にわたって生中継され、1月30日にはテレビで録画放映(フジ系)された。そしてこの模様を収録したライヴ・アルバム『ザ・タイガース・フィナーレ』は7月10日に発売されている。ただ、このアルバムの発売に先駆け2月に『サウンズ・イン・コロシアム』が発売されている。この内容は1970年8月22日に田園コロシアム(東京・大田区)にて開催された『田園コロシアム ザ・タイガース・ショー』のものだ。元々はライヴ映像として、同年11月頃からファンクラブ用に上映さていた音源らしい。解散という旬な時期のリリースということもあってアナログ2枚組ながら、国内チャートで3位を獲得。これは彼らの最高位で、改めて人気の高さを証明 した



※このライヴは1960年代リリースのため、参考リストとして収録曲のみ紹介しておく。 『タイガース・オン・ステージ』
 1967年11月5日 / Polydor / MP-1377 国内チャート 3位 / 3.7万枚 
2013年5月29日( ユニバーサル・ミュージック/USMジャパン UPCY-6698 )

 ①ダンス天国(Land Of 1000 Dance)(カニンバル&ザ・ヘッドハンダース:1965/ウィルソン・ピケット:1967/ ザ・ウォーカー・ブラザース:1968)~LA LA LA (シャムロックス:1966 )、②タイガースのテーマ (Theme Of The Monkees) (ザ・モンキーズ:1966)、③Ruby Tuesday(ストーンズ:1967)、④Lady Jane(ストーンズ:1966)、⑤Time Is On My Side (カイ・ワインディングと彼のオーケストラ:1963/・ストーンズ:1964)、⑥As Tears Go By (マリアンヌ・フェイスフル:1964/ストーンズ:1965)、⑦Skinny Minnie (ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ:1958/トニー・シェリダン&ビート・ブラザース:1964)、⑧僕のマリー、⑨シーサイド・バウンド、⑩モナリザの微笑み、⑪Everybody Needs Somebody (ソロモン・バーク:1964/ストーンズ:1965)、⑫Pain In My Heart (オーティス・レディング:1964/ストーンズ:1965)、⑬I'm All Right (ボ・ディドリー:1958/ストーンズ:1965) 、⑭ハーマンズ(G-クレフス:1961/フレディ&ドリーマーズ:1964/ハーマンズ・ハーミッツ:1964) 



『サウンズ・イン・コロシアム』 
1971年2月20日 /  Polydor /  MP-9361/2 国内チャート 3位 / 3.7万枚 
2013年5月29日( ユニバーサル・ミュージック/USMジャパン UPCY-6703 ) 

①Introduction~Honky Tonk Woman(ストーンズ:1969)、②(I Can’t Get No)Satisfaction(ローリング・ストーンズ:1966)、③Susie Q(デイル・ホーキンス:1957/ストーンズ:1964/クリーデンス・クリアーウォーター・リヴァイヴァル(以下C.C.R.):1968)、④I Put Spell On You(スクリーミン・ジェイ・ホーキンス:1956/ C.C.R.:1968)、⑤Route 66!(ナット・キング・コール:1946/チャック・ベリー:1961/ストーンズ:1964)、⑥(Sitting On The)Dock Of The Bay(オーティス・レディング:1967)、⑦Bee Gees Medley[a. 獄中の手紙(I’ve Gotta A Message To You)(ビージーズ:1968)~b. Words(ビージーズ:1968)~c.ジョーク(I Started A Joke)(ビージーズ:1968)]、⑧Looky Looky(ジョルジオ:1970)、⑨Cotton Fields (ハリー・ベラフォンテ:1958/バック・オーエンズ:1963/ビーチ・ボーイズ:1969/C.C.R.:1969)、⑩監獄ロック(Jahilhouse Rock)(エルヴィス・プレスリー:1957/ジェフ・ベック・グループ:1969)、⑪Travelin’ Band(C.C.R.:1970)、⑫Lalena(ドノバン:1968)、⑬What’s I Say(レイ・チャールズ:1967)、⑭都会 ⑮ザ・タイガース・オリジナル・メドレー(花の首飾り/坊や歌っておくれ/モナリザの微笑/青い鳥/坊や歌っておくれ)⑯Smile For Me、⑰散りゆく青春、⑱美しき愛の掟、⑲想い出を胸に、⑳ヘイ・ジュテーム(Mon Cinema)(アダモ:1969)、㉑Anyboday’s Answer(グランド・ファンク・レイルロード(以下G.F.R.):1969、㉒Heartbreaker(G.F.R.:1969)、㉓素晴らしい旅行、㉔怒りの鐘を鳴らせ、㉕ラヴ・ラヴ・ラヴ  

  ザ・タイガースの解散直後に発表された通算第6作で2枚目のライヴ・アルバム。 
 当日の前座は、ハプングス・フォー、アラン・メリル、ロック・パイロットが務め、またタイガースの演奏には、かまやつひろしが⑬などにヴォーカルやオルガンで、㉕にはハプングス・フォーのクニ河内がオルガンで参加しているようだ。  長年のライヴ活動の成果もあってか、バンドのコンビネーションは良好で、とくに要となるサリーとピーのリズム・セクションも盤石で、サイケ調のフレージングを聴かせるタローのギターもあわせ、彼らがライヴ・バンドとしても円熟していたことを証明している。 
 ここでは、各メンバーが選曲したナンバーでヴォーカルを取り、各自の嗜好がうかがえて興味深い。ちなみに沢田以外のヴォーカル・ナンバーは、「⑤タロー、⑥サリー、⑦⑫シロー(⑫のバックは、ブレッド&バター)、⑧ピーだ(トッポのリード曲はシロー)。なお⑧では沢田がドラムを披露、これはタイガースが沢田のバック・バンドではないことを再認識させている。また、③④⑪㉑㉒といった選曲や、プレスリーで有名な⑩では、ジェフ・ベック・グループのカヴァーをお手本にしたプレイ、⑨は英国で話題となっていたビーチ・ボーイズのテイクで披露するなど、当時のトレンドにも敏感に反応している。 

参考1:カヴァー収録曲について 
①Honky Tonk Woman 
 1969年にストーンズがリリースした傑作ナンバー。オリジナル・メンバーのブライアン・ジョーンズ脱退後の初シングルで、後任ギタリスト、ミック・テイラー初参加曲。結果として、英米1位(英5週、米4週)に輝く大ヒットとなり、以後、彼らのライヴでは欠かすことのない定番曲。なお、この曲でプレイされている「オープンGチューンング」は、このセッションに参加したスライド・ギターの名手、ライ・クーダーが発案したとも言われている。なおこの曲は彼らが長年所属したDeccaでのラスト・シングル。 
②(I Can’t Get No)Satisfaction 
 ストーンズが1965年に発表した初の全米1位(4週間/年間3位)とミリオン・セラーを記録した彼らを世界的なバンドに飛躍するきっかけとなった代表曲の1つ。この原型はキースが寝ている間に思いついたメロディと、ミックが考えたバラードとラップ的なフレーズを合わせた曲で、当初二人はシングル化をこばんでいたという。 印象的なノイジーなギター・リフは、チャック・ベリーの<30ディズ>(1955年)などをヒントに生み出した。この曲があったからこそ、彼らはビートルズの最大のライヴァル的存在になり、今なお現役バンドとして活動出来ているといっても過言ではない。 
③Susie Q 
 オリジナルは、1957年のデイル・ホーキンスで全米27位(R&B7位)を記録。1964年にはストーンズがセカンド・アルバムでカヴァーしたが、一般にはC.C.R.が1968年のファースト・アルバムに収録した8分超ヴァージョンが有名。なお後に短縮版シングルが全米11位を記録し、C.C.R.快進撃の起点となっている。 
④I Put Spell On You 
 ショック・ロックの元祖とも称されるスクリーミン・ジェイ・ホーキンスが1956年に発表した彼の代表作。1968年になってC.C.R.がファースト・アルバムに収録し、その後シングル・カットされ全米58位を記録。 
⑤Route 66 
 ジャズ・ピアニストで、ジャズ歌手ジュリー・ロンドンの夫としても知られるボビー・トゥループが1946年に書き下ろした代表作。「ルート66」とはイノイ州シカゴとカルフォルニア州サンタモニカを結ぶ国道で、歌詞には沿線の地名などが登場。 同年、ナット・キング・コールがヒットさせ、以後多くのアーティストによってカヴァーされスタンダードとなった。1961年にチャック・ベリーのカヴァー(第5作『New Juke Box Hits』)が発表されると、このヴァージョンをお手本にストーンズ(英米ファースト)やゼムなど、ロック・フィールドにも広がり、さらに幅広いジャンルでカヴァーされる。ストーンズは1969年ツアーのオープニングに取り上げ、同ツアーの正規ライヴ盤以前に出回っていた海賊盤『Liver Than You'll Ever Be』で確認することが出来る。 なお、1960年には、NHKやフジテレビで放映された米国(CBS系)同名テレビ・ドラマのテーマになり、主演のジョージ・マハリスが唄ってリヴァイヴァル・ヒットした。 
⑥(Sitting On The)Dock Of The Bay  
 1960年<Gettin' Hip>でデビュー、<Respect>(1965年/全米35位;R&B4位)、<Try A Little Terderness>(1967年/全米85位;R&B20位)などのヒットで知られる“ビッグ・オー”ことオーティス・レディングの最大ヒット。1968年発表のこの曲は、彼にとって初の全米1位となったが、彼はその前年12月に飛行機時事故で故人となっていた。なお、この曲は1960年代で初めてアーティストの死後にチャート1位を獲得したものとなった。 
⑦a. 獄中の手紙 
 1963年にオーストラリアでデビューしたギブ兄弟を中心に結成されたビージーズの1968年のヒット曲。彼らは、1967年に<ニューヨーク炭鉱の悲劇(New York Mining Disaster 1941)>英米デビューを果たしており、この曲はその8枚目のシングル。全米で8位を記録し、全英では<マサチューセッツ>に次ぐ2作目の1位を獲得。 
b. Words 
 ビージーズ1968年の第6作シングル。全米では15位、全英は8位を記録。
 c.ジョーク 
 ビージーズ1968年の第9作シングル。全米で6位を記録。 
⑧Looky Looky  
 後に、ドナ・サマーのプロデューサーとして一世を風靡するジョルジオ・モロダーが、ジョルジオ名義で1970年に発表したポップ・ソング。スイスでは3位を記録するなど、ヨーロッパを中心に大ヒットとなり、ゴールド・ディスクに輝いている。
 ⑨Cotton Fields 
 1940年に黒人民謡の王者レッドベリー(ハディ・レッドベター)が、<コットン・ソング>のタイトルで歌ったカントリー・ソング。この曲が広く知れ渡ったのは、ハリー・ベラフォンテが1958年にヒットさせ、1959年の名作『カーネギー・フォール・ライヴ』のレパートリーにしたからといわれている。1962年にはハイウェイメンがヒットさせ、その後バック・オーエンズ(1963年)やニュー・クリスティー・ミンストレルズ(1965年)などがこぞってカヴァーし、カントリーの定番となった。 そして、1969年にはC.C.R.が第4作『Willie And The Pour Boys(クリーデンス・ロカビリー・リヴァイヴァル)』に収録、1970年にメキシコでシングル・カットされ堂々の1位にまたビーチ・ボーイズも1969年の『20/20』に収録し、1970年にはシングルが英国では5位(全米103位)と大ヒットとなっている。 
⑩監獄ロック 
 1957年にエルヴィス・プレスリーが7週連続全米1位を獲得した大ヒット曲で代表曲のひとつ。なお、全英では史上初の初登場で1位獲得曲となっている。また、この曲はプレスリー3作目の主演映画『監獄ロック』の主題歌でもあった。 1958年には日本でも、小坂一也&ワゴン・スターズや平尾昌晃などにカヴァーされ、ロカビリー時代を代表するヒット曲となった。さらに1969年には、ヴォーカルにロッド・スチュワートを擁したジェフ・ベック・グループが、セカンド・アルバム『Beck-Ola (Cosa Nostra)』でカヴァーし、大きな話題となった。 
⑪Travelin’ Band
 1968年から1970年代初頭にかけて大ブレイクしたC.C.R.が、1970年に放った12枚目のシングル。このシンプルなロックン・ロール・ナンバーは、当時ロカビリー・リヴァイヴァルのブームに乗り2週連続全米2位の大ヒットを記録した。なお彼らには、この曲を入れて5曲[<Proud Mary>(3週連続)、<Bad Moon Rising>、<Green River>、<Lookin’ Out My Back Door>]も全米2位を記録しているが、全米No.1を獲得出来なかった歌手、音楽グループの中で最多の全米2位楽曲を持つという珍記録を持っている。 
⑫Lalena 
 1965年に<Catch The Wind>でデビューし、イギリスのボブ・ディランと呼ばれた吟遊詩人ドノバンが、1968年に発表した13枚目のシングル。1960年代中頃を象徴するようなサイケデリック色の濃いメランコリックなフォーク・トラッド・ナンバーで、全米では33位を記録している。ただ、英国では契約の関係でシングル・リリースされなかった。 ⑬What’s I Say 
 スティービー・ワンダーも敬愛した盲目の黒人シンガー、レイ・チャールズがアトランティック時代に発表した代表曲のひとつ。1959年全米6位(R&Bチャート1位)を記録。 
⑳ヘイ・ジュテーム
 サルバトーレ・アダモ1969年秋のヒット。日本では1972年に発表された日本語アルバム『アダモより愛をこめて(“bonjour amis japonais!”)』の収録曲で知られる。 
㉑Anyboday’s Answer 
 1969年に結成された米国を代表するハード・ロック・バンドG.F.R.が、1969年に発表したデビュー・アルバム『On Time』の収録曲。 
㉒Heartbreaker 
 G.F.R.1st収録曲で1970年には4thシングル。大ヒットではないがライヴの定番曲で、日本でよく知られるようになったのは、1971年7月後楽園球場初来日公演での暴風雨の中の観客による大合唱から。 

 『ザ・タイガース・フィナーレ』 
1971年7月10日 /  Polydor /  MR-5004 国内チャート 10位 / 3.6万枚 
2013年5月29日( ユニバーサル・ミュージック/USMジャパン UPCY-6705 ) 
①Time Is On My Side、②青春の光と影(Both Sides Now)(ジュディ・コリンズ:1968/ ジョニ・ミッチェル1969)、③Yellow River(クリスティー:1970)、④ヘンリー8世君(I'm Henry The Eighth I Am)(ハーマンズ・ハーミンツ:1966)、⑤どうにかなるさ(サリー&シロー:1970/かまやつひろし:1970)、⑥出発のほかに何がある、⑦友情、⑧僕のマリー、⑨シーサイド・バウンド、⑩モナリザの微笑、⑪花の首飾り、⑫青い鳥、⑬銀河のロマンス、⑭君だけに愛を、⑮誓いの明日、⑯ アイ・アンダスタンド(I Understand Just How You Feel)、⑰ラヴ・ラヴ・ラヴ 
※当日の【ビューティフル・コンサート】の全演奏曲は下記の通り 
第1部 1. Time Is On My Side、2.Susie Q、 3.I Put A Spell On You(アンソニー・ホーキンス:1956/C.C.R.:1968)、4.青春の光と影(Both Sides Now)5. The Dock Of The Bay、6. Yellow River、 7.ヘンリー8世君(I'm Henry The Eighth I Am、8. Honky Tonk Women、9.Cotton Fields、10.Lalena、11.ヘイ・ジュテーム(Mon Cinema)、12.Gimme Shelter (ローリング・ストーンズ:1969/G.F.R.:1971)、13.あの娘のレター(The Letter)(ボックス・トップス:1968/ジョー・コッカー:1970) 、14.光ある限り(Long As I Can See The Light) (C.C.R.:1969)、15.Anybody’s Answer、16.Heartbraker 
第2部 17.都会、18.白い街、19.どうにかなるさ、20.出発のほかに何がある、21.友情、22.世界はまわる、23.僕のマリー、24.シーサイド・バウンド、25.モナリザの微笑、26.花の首飾り、27.青い鳥、28.銀河のロマンス、29.スマイル・フォー・ミー、30. 淋しい雨、31.君だけに愛を、32.美しき愛の掟、33.素晴しい旅行、34.怒りの鐘を鳴らせ、35.誓いの明日、36. アイ・アンダスタンド(I Understand Just How You Feel)、37.ラヴ・ラヴ・ラヴ 

 1971年1月24日に日本武道館で開催されたタイガースの解散コンサート(ビューティフル・コンサート)を収録した、彼らにとって通算第7作、第3作目のライヴ・アルバム。 
 実際は『~コロシアム』のライヴ同様、第1部は当時のシーンを意識したナンバーや、長年演奏してきたお馴染みの洋楽カヴァーが演奏されている。そして2部では近年のオリジナル・ナンバーとヒット曲を演奏し、まさにフィナーレを飾るにふさわしい長丁場の公演(3時間超)だった。 
 しかし、このリリースされた公式アルバムは、当日の演奏曲が大幅にカットされており、大変物足りない仕上がりになってしまっている。GSの終焉では仕方ないとは思うが、トップ・グループのラスト・アルバムとしてもう少し敬意を払っていただきたかった。 

参考1:カヴァー収録曲について 
①Time Is On My Side 
 ノーマン・ミードの書き下ろしで、1963年にジャズ・トロンボーン奏者カイ・ワインディングと彼のオーケストラがオリジナルといわれる。その後、1964年にソウル・シンガー、イルマ・トーマスとストーンズがカヴァー[セカンド・アルバム(米『12×5』、英『No.2』)]した。なお、ストーンズ版は4枚目のシングルとなり、全米6位を記録。 
②青春の光と影 
 1961年『A Maid of Constant Sorrow』でデビューした“青い眼のジュディ”ことフォーク・シンガー、ジュディ・コリンズが、1967年に大ヒット(全米8位)させた彼女の代表曲。同年、グラミー賞ベスト・フォーク・パフォーマンス・オブ・ザ・イヤーを受賞し、アン・マレーやフランク・シナトラなど多くがとりあげ、スタンダード・ソングの仲間入り。この曲の作者ジョニ・ミッチェルも1969年のセカンド・アルバム『Clouds(邦題:青春の光と影)』でセルフ・カヴァーしている。 
③Yellow River 
 1967年<When The Work Is Thru'>でデビューしたジェフ・クリスティー率いる英国3人組クリスティーが1970年に発表した第4作。この軽快なナンバーはまたたくまに全英1位に輝き、全米でも23位を記録、日本はじめ世界26ヶ国で1位となった。彼らはこの曲に続く<想い出のサンバーナディーノ(San Bernadino)>が全英7位(独1位)、翌1971年の<うわさの男(Man Of Many Faces)>も独で2位と気を吐いている。 
④ヘンリー8世君 
 1964年に<朝からゴキゲン(I'm into Something Good)>でデビューした英国バンド、ハーマンズ・ハーミッツが1965年にリリースした米国6枚目のシングルで、<ミセス・ブラウンのお嬢さん(Mrs. Brown, You've Got a Lovely Daughter)>に続き、全米1位を記録した彼ら代表曲のひとつ。 
⑤どうにかなるさ  
 ザ・スパイダースのかまやつひろし(以下、ムッシュ)が、グループ在籍中の1970年に発表したソロ・デビュー曲(50位)。元々はザ・タイガースのサリーとシローのアルバム『サリー & シロー トラ70619』への提供曲だった。この曲はムッシュのルーツとも言われるハンク・ウィリアムスの<淋しき汽笛((I Heard That) Lonesome Whistle)>をモチーフにしたといわれている。なお1971年6月、スパイダース解散後に発表されたムッシュのセカンド・アルバム『どうにかなるさ/アルバムNo.2』に収録。 
⑯アイ・アンダスタンド 
 1961年に米国コーラス・グループ、G-クレスフが<蛍の光(Auld Lang Syne)>をモチーフに全米6位に送り込んだヒット曲。その後、1964年にフレディ&ドリーマーズやハーマンズ・ハーミッツがカヴァー。ちなみにタイガースのカヴァーはハーマンズがベース。

*1)A面は5種類で、「あなたに電話するピー」(盤の色は青、BGM「君だけに愛を」~ただし、タイガースの演奏ではない、以下同)、「あなたとドライブするサリー」(盤は黒、BGM「シーサイド・バウンド」)、「あなたとデートするトッポ」(盤は緑、BGM「落葉の物語」)、「あなたと散歩するタロー」(盤はオレンジ、BGM「モナリザの微笑」)、 「あなたにささやくジュリー」(盤は赤、BGM「星のプリンス」)。いずれも本人のナレーションが収録されており、メンバーの個性がよく分かる内容になっている。B面は共通で、全員が出演する「お部屋でおしゃべりタイガース」だが、最後に2曲収録されている。  この2曲のクレジットの記載はないが、ジュリーが「愛しのデラ」と紹介して始まる曲(作詩=山上路夫、作・編曲=すぎやまこういち)と、「チョコレートは、めぇ~い~じぃ~」のフレーズでおなじみの明治チョコレートCMソング(タイトルは「明治チョコレート・テーマ」で、作詩・作曲=いずみたく)。 後者は間奏部分に<落葉の物語>のフレーズがインサートされるタイガース・ヴァージョンだが、アレンジはすぎやまこういちによるものと思われる。 
                              (鈴木英之)

The Pen Friend Club:『Along Comes Mary/Love Can Go The Distance』リリース・インタビュー

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 2月22日のステージをもって4代目ボーカリスト藤本有華が脱退したThe Pen Friend Club(ザ・ペンフレンドクラブ)が、今月11日にCDシングル『Along Comes Mary/Love Can Go The Distance』をリリースする。
 シングルとしては18年12月にライブ会場限定販売したRYUTistとの『Christmas Delights / Auld Lang Syne』、オフィシャル・シングルとしては18年4月の7インチ・アナログ『飛翔する日常 / Don’t Take Your Time』以来と約2年振りとなる。

 両タイトルとも既存曲のカバーだが、メインタイトル「Along Comes Mary」を見て驚喜するは、弊誌監修の『ソフトロックA to Z』や弊サイト読者をはじめとする熱心なソフトロック・ファンだろう。
 オリジナルは1966年3月8日にアソシエイションが発表したサード・シングルで、ビルボートとキャッシュボックス共に10位以内にチャート・インし彼等の出世作となった記念碑的曲でもある。 ソングライティングはタンディン・アルマーで、のちにビーチボーイズの「Marcella」(『Carl And The Passions – "So Tough"』収録 72年)や「Sail On, Sailor」(『Holland』収録 73年)をブライアン・ウィルソンらと共作しているミネアポリス出身のソングライターであり、当時ブライアンとも親しく交流していた。
 オリジナルを聴いて分かると思うが、ハル・ブレインの特徴的なドラミングを中心にレッキングクルーの巧みな演奏をバックにした、サイケデリックで独創的なコーラスが肝になっている。このコーラス・アレンジこそ当時アソシエイションのプロデューサーだったカート・ベッチャーのアイディアであり、彼等の成功のきっかけを作ったキーマンだったのである。


 カップリングの「Love Can Go The Distance」は、ご存じ山下達郎氏の『On The Street Corner 3』(99年11月)に収録のオリジナル・アカペラ曲で、先行シングルとしてリリースされて同年のNTTコミュニケーションズのCMタイアップにされたのを皮切りに2003年にはジャックス・カードのCM「アンモナイトと六法全書編」で再び使用されて話題となった。山下の楽曲にアラン・オデイが英語歌詞を付けた美しいバラードで、On The Street Cornerシリーズで取り上げるドゥーワップを主体としたカバー曲よりコンテンポラリーな曲調である。同アルバムではテディ・ペンダーグラスの「LOVE T.K.O.」(80年)カバーとともにいいアクセントとなっていて聴き飽きない。

 さてここではザ・ペンフレンドクラブのリーダー平川雄一、弊サイトでは『ガレージバンドの探索』を連載しているベースの西岡利恵、名ドラマーの祥雲貴行の3人におこなったインタビューをお送りする。

 ※写真前列左より 
大谷英紗子(Sax) / 藤本有華(Main Vo, Cho) /
平川雄一(各種Gt, Cho) / リカ(AGt, Cho) /
ヨーコ(Organ, Cho) / 中川ユミ(Per) / 
西岡利恵(Ba) / 祥雲貴行(Dr)  

●ザ・ペンフレンドクラブ(以下ペンクラ)としては久し振りの新作リリースですが、やはり本作はボーカルの藤本さんが脱退するメモリアルとして企画したんでしょうか?

平川雄一(以降 平川):はい、そのとおりです。実は次の7thアルバムの収録曲としてこの2曲をやる予定だったんですが、藤本有華脱退により急遽、現体制でのラストシングルに切り替えて作成しました。階段のジャケ写もアルバム用だったんです。

●収録曲はいずれもThe Associationと山下達郎氏のカバーですが、選曲した理由は?
 これまでカバーしてこなかったThe Associationは、VANDAの書籍でも取り上げてきたソフトロック・グループですが以前から愛聴していましたか?

平川:はい、勿論です。ただ「Along Comes Mary」に関しては、西岡利恵が「これやりたい」と言ったのがきっかけで取り上げました。
 「Love Can Go The Distance」は僕が以前から大好きで、いつかやりたいと思っていた曲です。90年代後期にNTTのTVCMで初めて聴いたときは本当に衝撃的でした。

●ペンクラならではとして拘ったアレンジのポイントはなんでしょうか?
 またメンバーのお二人にはカバーするにあたって演奏面で気を付けたことを聞かせて下さい。

平川:「Along Comes Mary」は僕の宅録は最小限に、ペンフレンドクラブのメンバーで出来ることを重視し、現在のバンドの音を形にする事を大切にしました。コーラスも普段なら僕の多重録音で済ませるところを近年加入したリカとそいと僕の3人でハモりました。リカのアコギもしっかり入れました。(普段のレコーディングでは竿類は全部僕がやります。) ライブではタンバリンとカウベルを中川ユミが担当しているので、そのまま彼女のプレイを録りました。(普段ならパーカッションも僕がやっています。) 
 あとオリジナルにある笛を大谷英紗子のサックスに置き換えたり。オリジナルのハンドクラップの音量が大きすぎると感じていたので適正な音量にしたり。そんなとこですかね。

 「Along Comes Mary」の藤本有華の歌唱はこれまでで最難関だったことと思います。実際、大変苦労していました。ただ藤本の歌でしか実現できなかったカバーでもあります。少なくとも日本人による「Along Comes Mary」の説得力のあるカバーは後にも先にもこのペンクラのヴァージョンを於いて他にないでしょう。エッヘン。(すごい狭いとこで勝負してるなあ…。だがそこがいい。)

 「Love Can Go The Distance」は「Along Comes Mary」とは違い、藤本のリードボーカル、リカとそいによるコーラス最高音部や掛け合いコーラス以外は全て僕の歌唱、演奏です。
 ただただ原曲の風合いを壊さないように作りました。テンポが非常に大事な曲で、原曲と全く同じクリックを作成し、それに合わせて演奏しました。とはいえラスト、勝手に転調しちゃっていますけどね・・・最後に半音上がるのが好きなんです。「日本一のラスト転調男」と呼んで頂いて構いません。

 西岡利恵(以降 西岡):サードアルバム以降ベースは自宅録音だったので、スタジオで録るのは久しぶりだったんです。

 『Along Comes Mary』はライブでもやっていた曲だったのと、ドラムと一緒に録ったのもあって、録音を意識しすぎずライブみたいな感覚で弾きました。

祥雲貴行(以降 祥雲):サビのブレイク前のフィルはどうアレンジしようか迷った末、ほぼ原曲そのままにしました。自分ではあまり思いつかないような長めでちょっと特殊なフィルだったので、自分がやるとどんなニュアンスになるのかを観察しながら叩きました。

 サビのそれ以外の箇所、基本パターンの頭打ちのリズムでは、かっこいいコーラスをさらに盛り上げるようにストレートなビートになるよう意識しました。

 

●このシングルで藤本さんが参加するラスト・レコーディングとなりますので、彼女に向けたメッセージをどうぞ。

平川:藤本さん、あのとき大ピンチだったペンクラに加入してくれて本当にありがとう。長い間歌ってくれてありがとう。藤本さんでよかった。お疲れさま。体冷やさないようにね。

西岡:藤本さん、スタジオで最初歌う時なんとなく試してみます~みたいな感じでふわふわしているのに(笑)歌い始めると完璧にこなしちゃうのがかっこよかったです。のびやかで綺麗な歌声だけどパワフルな表現もできたり、英語の曲もなんなく心地よく聴かせる藤本さんの魅力、歌唱力を感じるのにこのシングルの2曲は最高。形に残せて嬉しい。メンバーがやめていくのは一番つらい大きな変化だけど、これまで一緒に長く活動してきたこと大事にします。


祥雲:とにかく体調に気を付けて、自分のペースでこれからも音楽を継続してください。(あと例の連中と今度こそ飲みに行きましょう。)


●最後にこの『Along Comes Mary/Love Can Go The Distance』のアピールをお願いします。

平川:買わないなんてウソだろ?

西岡:どちらの曲もカバー作品として良いものにするのはとても難易度が高い、普通なら選ぶのを躊躇してしまいそうなほどの原曲ですが、ペンフレンドクラブだからこそ実現できた、第5期の集大成としてふさわしいものになっていると思います。 ぜひ長く聴いていただきたいです。


祥雲:「Along Comes Mary」は原曲の独特な渋さを残しつつ、よりタイトで新鮮な感じに仕上がっていると思います。上の質問で回答した点にも注目して楽しんでみてください。 


 「Love Can Go The Distance」はレコーディングには参加してないですが少し書かせてください。

昨年の12月、銀座のライブで藤本さんがソロで歌った「Love Can Go The Distance」には、会場の空気全体をあたたかく包み込むようなパワーがあり、ある種の神がかり的な領域に入っていたようにも感じました。そしてこのシングルにも、あのときと同等の力が確かに込められています。

 思い返してみるとあのライブの日、歌い手と聴き手双方の意識が一か所に集中していたという印象があり、それが特別な雰囲気を作り上げていたように思います。 またそのときに自分が最も強く感じたのは、藤本さんの脱退を惜しむ気持ちというよりは、これからのことに思いを馳せたくなるようなポジティブなものでした。


なので、できれば皆にもあまり感傷的にならずに聴いてほしいと個人的には思っています。 いずれにしても心を傾けて聴く価値のある名演であることには違いないので、ぜひCDを手に取ってじっくりと楽しんでください。 


 (インタビュー設問作成/文:ウチタカヒデ)




『SPLIT EP SERIES VOL.3』リリース・インタビュー(*blue-very label*/blvd-010)

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昨年11月にクリスマス・コンピ『Natale ai mirtilli』を紹介した*blue-very label*(ブルーベリー・レーベル)から今月25日に『SPLIT EP SERIES VOL.3』がリリースされる。このシリーズはカセットテープ・フォーマット(デジタル音源のダウンロードコード付き)という形式で、拘り派音楽ファンにも人気のようだ。



今回は弊サイトでも高評価している女性シンガーソングライターの小林しのと、ネオ・アコースティック・バンドSloppy Joeのリーダーで、ボーカル兼ギターの岡人史によるソロユニットIvory Past(アイボリーパスト)が各々3曲提供している。 
弊サイト読者にはお馴染みだが、小林しのはharmony hatch(ハーモニー・ハッチ)のヴォーカリスト兼ソングライターとして99年にデビューし、coa recordsより2枚のアルバムをリリースして02年に解散し、ソロへと転身し、ファースト・アルバム『Looking for a key』(16年)、18年には7インチ・シングル『Havfruen nat』をリリースしている。

My Coffee Momentの主メンバーで結成されたSloppy Joe(スロッピー・ジョー)は、06年にミニアルバム『trying to be funny』でデビューし、11年にはフルアルバム『With Kisses Four』をリリースしており、カジヒデキ氏がファンを公言するなど同業者にも人気が高い。
Sloppy Joeを率いた岡人史のソロユニットIvory Pastは、12年にTrixie’s Big Red Motorbikeのライブ・イベント用スプリット・カセット参加のために活動を開始した。16年にはMiles Apart Recordsからカセット・シングル、18年にはSnow flakesとのスプリット・カセットを各リリースしている。
ユニット名は英国バーミンガムのネオ・アコースティック・バンド、Felt(フェルト)の同曲タイトル(『The Pictorial Jackson Review』収録 88年)からインスパイアされていると思われるが、そんな80~90年代の英国ギターポップ・バンドからの影響を受けて活動を続けている。
筆者は昨年とあるライブ・イベントで、Ivory Pastの演奏を聴いて岡の声質やスタイルにやられてしまった。ザ・スミス信奉者だった十代の頃の血が騒いだと言って過言ではない。
さてここではそんな岡と小林におこなったミニインタビューをお送りしたい。

●今回のリリースの参加された経緯を教えて下さい。 またコンセプトについてレーベルオーナーの中村氏からサジェスチョンはありましたか? 


Ivory Past(岡 人史)

岡人史(以降 岡):下北沢にBlue-very Recordsがあったころにお会いして以来、中村さんにはかれこれ20年以上お世話になってきました。その中村さんのレーベルの記念すべき第1弾コンピレーションに、僕が別に活動しているSloppy Joeで参加させていただきました。 
そして今回ソロ名義のIvory Pastでお誘いをいただきました。特別なサジェスチョンはありませんでしたが、レーベルコンセプトのひとつにネオアコやギターポップといったものを感じていましたので、自然体で臨ませていただきました。  


小林しの

小林しの(以降 小林):レーベルオーナー中村さんが経営するレコード店、ディスクブルーベリーに私が所属するレーベル「philia records」の全作品を置いてくださったご縁で、数年前からよくお店に伺うようになりました。
2018年に中村さんが「ブルーベリー・レーベル」を始められ、「Split ep series」という2組のミュージシャンによるスプリット音源をシリーズでカセットテープで出していくという企画にお誘いいただきました。中村さんからは英詞曲で提供してほしいとのご依頼をいただきました。 

 ●提供曲について、ソングライティングとレコーディングの時期を教えて下さい。

岡:2019年の11月から12月に曲作りを行い、年末年始にレコーディングからミックスまでを行いました。なかなか曲を作り貯めておけるタイプではないので、いつもリリースのきっかけがあって制作することが多いですね。 
今回の収録曲は、曲調はそれぞれ違いますが、いずれも故郷の景色、故郷への思いなどをイメージしています。ストレートにハッピーな曲も好きですが、自分の曲作りでは、憂愁、刹那、晩秋、夕景といった感情や情景が感じられるものにしたいと思っています。

小林:B-1「forget me not」は私の作詞作曲、編曲は高口大輔さん(the Sweet Onions)で、2019年に作りました。B-2「Large gate」は作詞作曲が近藤健太郎さん(the Sweet Onions、The Bookmarcs)、the Sweet Onionsの2000年頃の未発表曲を提供していただきました。 B-3はthe orchidsの「a kind of eden」という曲のカバーです。
「Split ep series」はカバー曲を1曲という決まりがあり、レーベルオーナー中村さんが好きな曲とのことでご提案いただきました。編曲はこちらも高口さんです。レコーディングは3曲とも2019年の夏~秋にかけて行いました。



●レコーディング中のエピソードで何か特筆すべきことはなかったですか?

岡:収録したカバー曲は、中村さんからCherry Red周辺から選んでみてはとお話をいただき、いくつかの候補で悩みましたが、一番初めにCherry Redでネオアコと言えばと頭に浮かんだThe HepburnsのThe World Isを選びました。
そして小林しのさんがカバーしたのも大好きなThe Orchidsで、とても素敵なカバーに驚きました。僕がmy coffee momentとして活動していたおそらくこちらも20年ほど前、小林しのさんのHarmony Hatchとは何度か共演しました。それ以来の共演にも、いろいろなご縁を感じながらレコーディングしました。

小林:「forget me not」、「a kind of eden」はThe Laundriesの遠山幸生さんにギターを弾いていただいたのですが、その際、遠山さんのご縁で作曲家青木多果さんのスタジオで録音させていただきました。どんどん重なっていく魔法のようなギターフレーズに感動しました。 
「Large gate」は高口さん、近藤さん二人でアレンジを考えてくださり、宇宙に漂うような美しい曲になりました。 「a kind of eden」の間奏のハミングはthe Carawayの嶋田修さんで、光が差したような温かさが生まれました。 また、「forget me not」は私もギターを弾いています。今回は英詞と風邪でボーカル録音に苦労しましたが、その時にしか出せない声質になったような気がして満足しています。

●ソングライティングやレコーディング中に聴いていた曲を5曲ずつ選んで下さい。

岡:○ Will She Always Be Waiting / The Bluebells 
  ○ Downhill / Days
  ○ In an Empty Hotel / Northern Portrait
  ○ Anything Anything / The Holiday Crowd
  ○ Letters To The Girl / The Proctors 


小林:○ A Kind Of Eden / THE ORCHIDS
   ○ Svensktalande Battre Folk / Anna Jarvinen
   ○ D.S.P.S / DSPS
   ○ Birthday / Gia Margaret
   ○ Hard to Forget / Natalie Evans




●最後にこのSPLIT EPの魅力をアピールして下さい。

岡:80年代~90年代初期の英国インディバンドたち。今でも彼らの音がたまらなく好き!そしてそんな音に思いっきり影響を受けた現代のバンドも大好き!そんな方にニヤケながら聴いてもらえたら嬉しいです。
僕も単純にそんなバンドたちが好きで、自分でもそんな音が作れたらなと思って活動していますので。逆にIvory Pastを聴いてそういったバンドを聴いてみたくなったという方がいたら、更に嬉しいです。そんな方は是非Disques Blue Veryへ!  

小林:私はHarmony hatchというインディーギターポップバンドを昔やっていて、きらめいたり歪んだりするギターの音が大好きなんです。
ソロ活動をはじめてからは日本語でポップス寄りな曲を作っていましたが、今回は原点回帰と新境地をあわせたような気持ちで、このカセットテープに私の大好きなインディーギターポップが詰まっています。
小林しの名義での発表ではありますが、編曲の高口さんやthe Sweet Onionsはじめ、参加ミュージシャンの皆様やブルーベリー・レーベル中村さんの発案のおかげでいつもとはまた違った面のある特別な音源になりました。また、スプリットということでA面のIVORY PASTさんのきらめく曲たちから続けて聴くと、とても深みのある作品になっていると思います。

 Disques Blue Very予約サイト:http://blue-very.com/?pid=148625190 

(インタビュー設問作成/文:ウチタカヒデ)

1970年代アイドルのライヴ・アルバム(沢田研二・バンド編 PYG期)

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  1968年にピークを迎えていたGSブームは、1969年3月ザ・タイガースのトッポ脱退、更に追い打ちをかけるように発生した5月のオックス赤松愛の失踪・脱退で、彼らが在籍していたバンドだけでなくGSブームそのものが終焉に向かうきっかけとなった。 そして1970年にはGSの存在は完全に過去のものとなり、ブームを牽引していた多くのグループが解散の道を選んでいる。少し余談になるが、この連鎖で引退した中には才能ある人材も多々あり、最も惜しまれた筆頭はザ・テンプターズの松崎由治といえる。この見解については故鈴木ヒロミツ(元モップス)も公の場で発言している。 

  そんななか1960年代末に、台頭していたニュー・ロックのバンドを結成する計画を目論みが発生していた。そのメンバーはザ・テンプターズの萩原健一(以下、ショーケン)と大口広司、ザ・スパイダースの井上堯之と大野克夫で、そこにザ・タイガースのサリーが加わった。そして沢田がこの「構想」に呼びかけられ、ザ・タイガース解散直後に井上堯之をリーダーに、本格的ロック・バンドを目指す「PYG(ピッグ)」が結成されることになった。 
  そんな沢田をソロにと目論んでいたナベプロも彼を会社に残すため、新バンドを同社に所属させるという条件でこれを認め、新バンドやメンバーのマネージメントを行う子会社「渡辺企画」を設立している。

   当時、欧米ではクリームを解散したエリック・クラプトンとジンジャー・ベイカーが、元トラフィックのステーヴィー・ウィンウッドと結成したブラインド・フェイスがスーパー・グループと呼ばれていた。そんなこともあって、GS界のトップスターたちで結成された彼等は、日本のスーパー・グループとして大きな話題となって取り上げられた。なおこのグループ名は、同じナベプロ所属だったアラン・メルリ(ジャズ・シンガー、ヘレン・メルリの実子、1979年<I Love Rock' N Roll/ジョーン・ジェット>の作者)のアイディアで「豚のように蔑まれても生きてゆく」を元に、本来の「PIG」を「PYG」にもじったものだった。 

  このように周囲の期待を大きく集めたPYGのデビュー・コンサートは、1971年3月20日に京大西部講堂で行われた第1回 MOJO WEST になった。しかしこのフェスの共演が当時から伝説化していた村八分であったことも重なり、会場に集結した硬派なロック・ファンから、“GS残党の寄せ集めバンド”と反発され聴衆から猛烈な罵声を浴び、その場は大混乱となっている。そんな騒動は主催者側の内田裕也が聴衆を説得し、収拾する結末という散々なものだった。
  さらに4月に開催された日比谷野外音楽堂の「日比谷ロック・フェスティバル」に出演した。ところがここでも会場に詰めかけたロック・ファンから関西地区と同様に嵐のような「帰れ!」コールを浴びせられる。そんななかで始まったPYGの演奏だったが、その最中にステージに物が投げられるなどの大騒ぎが発生している。また客席側でも沢田とショーケンのファン同士のいざこざが発生しており、物々しい状態になった。 

  こうしてPYGの船出はまさに暗中模索ともいえるとなった。そして4月10日にファースト・シングル<花・太陽・雨>(30位:8万枚)が発売され、8月10日にはファースト・アルバム『PYG!』も発売された。なおこのアルバム初回盤は、ジャケットに描かれた豚の鼻を押すと泣き声が出る特殊仕様で話題を呼び、また沢田たちを支える熱狂的ファンの絶大な支持もあって、チャートの10位(2.4万枚)を記録している。


  ただこの<戻れない道>で幕を開けるアルバムは、ヴォーカルを際立たせるためか楽器の録音レベルが抑えられ、特にドラムスに至っては極端に低く(この時期のPolydor特有)、そのせいかバンド色が薄く感じられた。それは、この時期の海外で主流となっていた(敏腕プロデューサー、フェリックス・パパラルディがクリームで試みた)ドラムスの演奏パートを中央に据えたライヴの臨場感溢れるものとは逆行したものだった(シングルではやや解消)。
  また7月には今も沢田によって演奏される機会の多いセカンド・シングル<自由に歩いて愛して>(24位:9.3万枚)をリリース。ちなみにこの曲はアルバムの<ラヴ・オブ・ピース・アンド・ホープ>に日本語詞をつけたものだった。 そして11月10日には、8月16日の田園コロシアムで開催したライヴ盤『FREE with PYG』が発売となっている。そこには当時のロック・シーンを象徴するナンバーが数多く収録されているが、タイガース時代のレパートリーも見受けられるなど、目指す方向性が定まっていないようにもとれた。ただここでの収録模様はスタジオ作とは違い、バンドとしてのグルーヴ感がしっかり録音され彼らの熱気が伝わってくるものだった。 

  しかしこのライヴがリリースされる直前の同年9月、ドラムスが大口広司から原田祐臣(元ミッキー・カーチス&サムライ)にメンバー・チェンジしている。その新体制での11月1日には「萩原健一+PYG」のクレジットでサード・シングル<もどらない日々>(91位:0.5万枚)がリリースされた。 
  そんな中、同日には沢田が初のソロ・シングル<君をのせて>を発表する。今では飛鳥のカヴァーでも知られる名曲だったが23位(10万枚)止りだった。さらに12月にはセカンド・アルバム『JULIE IN LONDON』が発売となり、まるでバンドから離脱するかのような活動に至っている。 

   翌1972年にはショーケンが主役扱いのテレビ・ドラマ『太陽にほえろ!』が大ヒットし、彼の俳優としての評価が徐々に高まる。この時期にはショーケンが参加できるときはPYGとして、参加できないときには「沢田研二と井上堯之バンド」(または井上堯之グループ)として活動するようになっている。 
  また、のちに井上堯之バンドの代表曲と言えるほど有名になった『太陽にほえろ!メインテーマ』や同ドラマのサウンド・トラックも、レコーディング時は「PYG」としてレコーディングされ、マスターテープのラベルや録音日誌には「PYG」と明記されているという。 その後沢田は本格的にソロ歌手へシフト、ショーケンも同年7月にソロで<ブルージンの子守唄>(92位:0.5万枚)をリリースする傍ら俳優へ、そして残りのメンバーはそのまま「井上堯之バンド」へ移行していった。 

  そんなPYGは同年11月の第5作シングル<初めての涙>以降、一度もPYG名義でのレコード発売はない。ライヴも同年夏の「日劇ウエスタン・カーニヴァル」を最後にPYGとしての主だった活動がなく(12月には「沢田研二と井上堯之グループ」で出演)、正式に解散が発表されたわけではないが、結果論的に「消滅」あるいは「解散」となったものとされている。

  沢田自身、1975年頃までは、PYGのオリジナル曲やレパートリーを積極的にコンサートに取り上げ、雑誌インタビュー記事などで彼が井上堯之バンドのことを「PYGの仲間」と表現し「一人の歌手として、またPYGの一員として…」などと自分の抱負を語っているのが散見されるこの。ことから、メンバー内の意識は1973年以降もしばらくPYGのままであったと推測される
 ところが1974年5月27日「夜のヒットスタジオ」で沢田とショーケンのジョイントによる「PYG」のパフォーマンスが披露されるというサプライズが発生した。このようにPYGは翌1975年にオリジナル・メンバーのサリーが脱退し俳優に転向する頃までは、ショーケンが参加できればPYGとしての活動も継続していく意向があったようにも思える。

 その後、PYGのメンバーが公の場で顔を合わせるのは1977年になる。そこは「第16回日本レコード大賞」にて沢田が<勝手にしやがれ>で大賞を授賞式した晴れ舞台だった。その壇上にはショーケン、それにピーを除く元ザ・タイガースのメンバーが並び、そしてこの曲の演奏を担当したのは作曲者の大野克夫が在籍する井上堯之バンドと、ほぼPYGのメンバーが勢揃いすることになった。
  なお翌1978年夏に行われたショーケンのコンサートには沢田が、翌日に開催された沢田のナゴヤ球場ライヴにショーケンが飛び入りして、そこでは<自由に歩いて愛して>を歌っている。 

 ここまでが、沢田のバンド時代の軌跡を追ったものだ。この時代におけるシングル売上げ(ザ・タイガース、PYG)は約426万枚で、当時としてはトップ・クラスだったというのは言うまでもない。そんな後の大活躍については次回以降の「ソロ編」でふれることにする。

 ここからは補足となるが、1981年1月に有楽町日劇取り壊しを前に、内田裕也が中心となって「さよなら日劇ウエスタン・カーニバル」が開催された。そこには往年の人気GSが再結成して参加し、その中にはピーを除くザ・タイガースの姿もあった。
  そしてこれをきっかけに1981年11月に解散時のメンバーにトッポが参加した「同窓会」と銘打った再結成(~1983年)に繋がっている。なおこの時期に集結したのは、トッポを盛り立てるという目的もあったといわれている。
 そこでは単にライヴ活動をするだけでなく、オリジナル・アルバム『THE TIGERS 1982』を発表している。そして久々の新曲<10年ロマンス>(20位:16.4万枚)<色つきの女でいてくれよ>(4位:42.7万枚)をヒットさせ、改めて根強い人気を証明している。



 
  またさらに30年を経た2013年12月3日には、ファン待望となる44年ぶりにピーとトッポが揃った1969年以来のオリジナル・メンバーによる復活ライヴが日本武道館で実現。その12月27日の東京ドーム公演には、病を押してシローがゲスト登場し、これにより結成以来初めて6人のメンバーが公の場で一堂に会することとなり、歴代メンバーが全員勢ぞろいしたオリジナル・メンバーでの「ザ・タイガース復活コンサート」が開催されている。
 このような催しに今なおファンが詰めかけるのは、ザ・タイガースは単に懐かしのGSというだけでなく、今も燦然と輝く永遠のアイドル・グループであり、沢田は「星の王子様ジュリー」として輝きを失っていないことを証明したといえるだろう。 

 ◎PYG 『Free With PYG』 1971年11月10日 /  Polydor /  MP-9096/1 国内チャート 24位 / 0.8万枚 
2019年7月24日( ユニバーサル・ミュージック/USMジャパン UPCY-7597 ) 
①Black Night (ディープ・パープル:1970)、②Walking My Shadow (フリー:1969)、③Every Mother’s Sun(トラフィック:1970)、④Country Comfort(エルトン・ジョン:1971/ロッド・スチュワート:1971)、⑤Bitch(ストーンズ:1971)、⑥ Speed King(ディープ・パープル:1970)、⑦Cowboy(ランディ・ニューマン:1971/ニルソン:1971/スリー・ドック・ナイト:1971)、⑧Love In Vain(ロバート・ジョンソン:1937/ストーンズ:1970)、⑨To Love Somebody、⑩Traveling In The Dark(マウンテン:1971)、⑪ 淋しさをわかりかけた時、⑫何もない部屋、⑬悪魔(Sympathy For The Devil )(ストーンズ:1968/ブラッド、スエット&ティアーズ:1969)、⑭I Put a Spell on You、⑮自由に歩いて愛して、⑯ハイヤー(I Want To Take You Higher)(スライ&ザ・ファミリー・ストーン:1969)、⑰ゴナ・リーヴ・ユー(Babe, I'm Gonna Leave You) (ジョーン・バエズ:1962/レッド・ツェッペリン:1968)、18. 祈る 

 約1年前、タイガース田園コロシアム公演が収録された同じ場所で、8月16日(月)に開催されたPYGのライヴ・アルバムだ。タイガースの『サウンズ・イン・コロシアム』と聴き較べると、プレイ・スタイルがより当時の音楽シーンに敏感に反応していることがよくわかる。 デビュー時は、その結成の成り立ちに罵倒されることが多く、満足な演奏をさせてもらえなかったようだが、このコンサートは好意的な観客ばかりのようで、これまでになく気持ちの良さそうな雰囲気が伝わってくる。 
 選りすぐりのメンバーがそろっただけあって、バンド自体の力量は聞きごたえ十分のプレイに満ちている。また演奏だけでなく、②③④⑤⑦⑧⑰といったロック・ファンを唸らせるような選曲をしているところでも、彼らの本気度が伝わってくる。特に⑰でのジュリーはロバート・プラントを彷彿させる迫力が伝わってくる。 欲を言わせてもらうなら、⑮のようなロックっぽいオリジナルがもう数曲あれば、洋楽カヴァーとのバランスがとれ、さらに充実した仕上がりになった感もする。   

参考1:カヴァー収録曲について
 ①Black Night 
 1970年、ヴォーカルにイアン・ギランを擁した第二期ディープ・パープル(以下、パープル)のファースト・シングル。この曲は当時「ロックは絶対にヒットしない」と言われていた名古屋で火が付き全国ヒットに繋がったと言われている。これをきっかけに彼らの1972年来日公演は実現した。そしてこの公演を収録したライヴ盤『In Japan』が日本のみ発売となったのはご存じの通りだ。なおこのアルバム初回盤には、特典として公演のネガ・フィルムがついていた。その翌年には『Made In Japan』のタイトルで英米リリースの運びとなり、世界的な名声を手中に収めることになった。 
②Walking My Shadow 
 1969年3月にリリースされたフリーのデビュー作『Tons of Sobs』収録曲。このアルバムは1960年代後期のブリティッシュ・ブルースの影響が色濃く反映され、本国では不発で、米国でも197位程度の反応しか得られなかった。 
③Every Mother’s Sun 
 1970年4月に発表されたトラフィック第4作目アルバム『John Barleycorn Must Die』収録曲。このアルバムはブラインド・フェイス加入のためバンドを離れていたステーヴィー・ウィンウッドがソロ用に制作を始めたものだが、結果として1969年の『Last Exit』以来となるトラフィックの新作に発展したものだった。当時、バンドの再結成作として大いに話題となり、全米5位全英11位を記録し、バンド史上最も成功したものとなった。この曲の作者はスティーヴィーと長年の相棒であるドラムス担当のジム・キャパルディ。
 ④ Country Comfort 
 邦題:故郷は心の慰め。1970年に<僕の歌は君の歌(Your Song)>で、頭角を現したエルトン・ジョンが、1970年に発表したサード・アルバム『Tumbleweed Connection(エルトン・ジョン3)』の収録曲。同年には、ロッド・スチュワートがセカンド・アルバム『Gasoline Alley』でカヴァーしている。 
⑤Bitch
  1971年にストーンズが、自身のレコード会社ローリング・ストーンズ・レコードから第1作としてリリースした『Sticky Fingers』収録曲。この曲はアルバムより先行シングルとなった全米1位(全英2位)など、世界的大ヒット<Brown Sugar>のカップリング曲。 ⑥Speed King 
 1970年、第二期パープルのファースト・アルバム『In Rock』のトップ収録曲。ここでのイアン・ギランによるリトル・リチャードばりの度肝を抜くシャウトは、ハード・ロック・ファンに大きな衝撃を与えた。このアルバムの登場により、彼らは日本でハード・ロック界のトップ・グループに躍り出た。 
⑦Cowboy 
 米国のいぶし銀ソング・ライター、ランディ・ニューマンの1968年発表のファースト・アルバム『Randy Newman』収録の牧歌的ナンバー。1970年に<うわさの男(Everybody’s Talking)>のヒットで、その名が知れ渡ったニルソンが第6作『Nilsson Sings Newman』に収録。また同年にはスリー・ドック・ナイトが、第4作『It Ain’t Easy』でカヴァー。 ⑧Love In Vain 
 邦題:むなしき愛。ストーンズのキース・リチャードをはじめ、多くのギタリストに影響を与えたといわれるブルース・ギタリスト、ロバート・ジョンソンが、1937年のセッションで残したナンバー。1970年にストーンズが発表した、彼らを代表する傑作アルバムのひとつ第10作の『Let It Bleed』でカヴァー。 
⑩Traveling In The Dark  
 邦題:暗黒への旅路。伝説のスーパー・ロック・トリオ、クリームのプロデューサーとして一世を風靡したフェリックス・パパラルディが、巨漢ギタリストレスリー・ウエストを擁して結成したマウンテンのナンバー。1971年発表の傑作サード・アルバム『Nantucket Sleighride(邦題:マウンテン3)』(全米16位/全英43位)収録曲。日本では独自にシングル・カットされている。 
⑬悪魔
  邦題:悪魔を憐れむ歌。ストーンズが1968年にジミー・ミラーをプロデューサーに迎え、発表した第8作『Beggers Bunquet』に収録された代表曲のひとつ。なお、この曲のレコーディング風景は、ジャン=リュック・ゴダール監督による音楽映画『ワン・プラス・ワン』として記録された。また、翌1969年にはブラッド、スエット&ティアーズが、サード・アルバム『B,S&T. 3』で大幅にアレンジしたカヴァーを発表している。 
⑯ハイヤー 
 ジャズ界の巨匠マイルス・ディヴスにも影響を与えたといわれるファンク・ソウルの祖スライ・ストーンが、1969年に自身のバンドを率いて第4作『Stand!』で発表した一大傑作ナンバー。この曲は1969年に開催された伝説のウッドストック・フェスティヴァルでの白熱のパフォーマンスで有名になり、彼らの代名詞的ナンバーとして語り継がれている。 ⑰ゴナ・リーヴ・ユー 
 元々は1962年にフォーク・シンガー、ジョーン・バエズがサード・アルバム『In Concert』で演奏し、その存在が知られるようになった。さらに1968年にはレッド・ツェッペリンがデビュー作『Led Zeppelin』で取り上げ、ロック・ファンにも幅広く知られるようになっている。なお、近年になって1950年代に女性シンガー、アン・ブレドンによって書き下ろされたナンバーということが判明している。 

  1982年に「ザ・タイガース同窓会」と銘打ち、3月17日日本武道館と4月4日大阪フェスティバルホールで復活コンサートを開催。この模様は空前の3枚組(CDでは2枚組)で完全収録盤がリリースされた。参考にセット・リストのみ掲載しておく。 

『A-LIVE 』 1982年5月10日 /  Polydor /  MP-9096/1 国内チャート 24位 / 0.8万枚 CD 1994年5月21日( VICL-61241/4 Disc3 ) 
2002年4月24日(初回限定紙ジャケ)
①十年ロマンス、②僕のマリー、③銀河のロマンス、④廃墟の鳩、⑤シーサイド・バウンド、⑥星のプリンス、⑦落葉の物語、⑧白夜の騎士、⑨朝に別れのほほえみを、⑩忘れかけた子守唄、⑪.風は知らない、⑫スマイル・フォー・ミー、⑬淋しい雨、⑭Time Is On My Side 、⑮Under My Thumb(ストーンズ:1966/ザ・フー:1967)、⑯ひとりぼっちのあいつ(Nowhere Man) (ザ・ビートルズ:1965)、⑰Do You Love Me (コンチュアーズ:1962/ブライアン・プール&ザ・トロメローズ:1963)、⑱Twist And Shout (ポップ・ノーツ:1961/アイズレー・ブラザース:1962/ザ・ビートルズ:1963)、⑲Tell Me (ストーンズ:1964)、⑳Yellow River、㉑Holiday (ビージーズ:1967)、㉒ジョーク(I Started A Joke)、㉓Lalena、㉔Look Up In The Sky、㉕BA・BA・BANG、㉖野バラの誓い 、㉗生きてることは素敵さ、㉘色つきの女でいてくれよ、㉙君だけに愛を、㉚モナリザの微笑み、㉛青い鳥、㉜花の首飾り、㉝誓いの明日、㉞ラヴ・ラヴ・ラヴ、㉟美しき愛の掟、㊱シー・シー・シー、㊲十年ロマンス、㊳色つきの女でいてくれよ 
                               (鈴木英之)

Once upon a time in Hollywood

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 2019年公開の映画『Once upon a time in Hollywood』は批評家からの評価も高く、 日本国内興行成績は『Kill Bill』に次ぐ2位を記録した。さらに第92回アカデミー賞では10部門ノミネートの上、出演者Brad Pittは助演男優賞を受賞するという栄誉 まで得た。

 本作は1969年8月9日をピークにそれまでの半年間を架空の人物と実在の人物が 混在するストーリーとなっており、ラストシーンでは史実であるCharles Manson とその配下達(以下Family)が引き起こした連続殺人事件の一つRoman Polanski 邸でのSharon Tate殺人事件に向けた監督Quentin TarantinoからのHollywood流リベ ンジといえよう。犯罪サスペンスものとして一流の内容であるのは確かであるものの 今回は弊誌読者流視点の楽しみ方を紹介させていただく。
 前回拙稿でも述べさせていただいたが、The Beach BoysメンバーDennis Wilsonと Charles Mansonとの出会い・親交は1969年にあっても続いていた。そのあたりの 消息を匂わせるセリフが本作でも出てくるのだ。
 Charles MansonがPolanski邸に侵入し『Dennsi Wilsonの知り合いだがTerryはいるか?』 とPolanski邸の人物に尋ねるシーンがある。 TerryとはTerry Melcher、山下達郎もオマージュを捧げたBruce&Terryのメンバーに してByrdsなどのプロデューサー。このシーンで流れるのはPaul Revere & the Raiders の『Hungry』プロデューサーはもちろんTerry Melcher、作曲はBrry Man/Cynthia Weil 思わずニヤリとせずにはいられないシーンである。
 このシーンは実際の出来事に基づいており、検察の記録からわかるのはTery Melcher は現地(以下Cielo Drive)から転居済みであったので、既に不在であった。 Cielo Driveでは女優のCandice Bergenと同棲しており、下記の図のゲストハウスに 住むオーナーから本宅を借りて住んでいた。


Terry MelcherとCandise Bergen

Cielo Driveが空室予定なのを聞いて Roman PolanskiとSharon Tateが入居契約を結んだのが1969年2月12日、入居日が 2月15日であった。
 また、Charles MansonがPolanski邸に侵入した際(3月23日)の対応した相手が、 史実ではSharon Tateのお抱え写真家のShahroh Hatamiであった。映画では元交際 相手のJay Sebringであり、Jayは当時の大人気ヘアスタイリストで多くの有名人を 顧客に持っていた。


1963年4月5日のThe Beach Boysこの時もJayのスタイリング

 なお、The Beach Boysもデビュー以来お世話になっており、Brianも一時期Jayの店舗 を行きつけにしていた。
 また、guest houseに住んでいたオーナー宅へ夜間に再度侵入したとの証言も残っている。
 本作ではアウトテイクになったが、別の家でTerryを探し求めるMansonのシーンがある。 そこでは『実はThe Beach Boysの20/20に入ってる曲を提供している』などとMansonに 言わせているのだ!正式テイクに採用されていればファンも身を乗り出しているだろう。
 また本作の主役の一人、Leonaldo DiCaprio演ずる俳優人生の岐路に立つハリウッド俳優 Rick Daltonの邸宅はPolanski邸の正門の向かって右側に位置しており、史実とは違う設定。
 当然架空のキャラクターの家なので実在しない場所ではあるが、作品のところどこに虚実混ざっているところが本作の魅力だ。


1967年には閉鎖されていたが何故か映画の中では1969年に復活

 同様のことが撮影セットでもあり、1969年には閉店していたナイトクラブPandora's Box が再現されている。同所は結成当時のThe Beach Boysがよく出演していた場所であり、Brianの最初の妻Marilynとの出会いの場でもあった。
 その他のキャスティングとして若き日のSteve McQueenや女優である一方girl singerとして 弊誌ではおなじみConnie Stevens、またサウンドトラックでも使われている"Mama Cass" Elliot に Michelle PhillipsのThe Mamas and The Papas勢。制作にはColumbiaが関わってい たので、Screen-GemsやOdeつながりでLou Adler役もいるかと思ったが残念ながら出演なし。

 2019年はMansonとFamilyが起こした連続殺人事件からちょうど50年、米国内では事件 発生時から熱烈に追いかけるウォッチャーがおり、その当時を回顧する著作や企画が 多く行われた。


Tom O'Neillによる20年間にわたる労作 

 それらの中でも弊誌向けの内容となっているのが本作である。 そもそもManson事件は法廷では殺人罪による有罪判決済みであるが、本作の筆者は 事件の再整理をしていくうちに公判記録と警察や検察の尋問記録と様々な証言との 食い違いを発見していく。筆者は真摯にこれらの現実に向き合えば合うほどタイトルの とおりChaos=混沌に包まれていく。と、いう内容であり大きな陰謀や超自然的な存在 を取り出すような奇抜な仕掛けもない。


本国ではベストセラーかつManson研究の入門書

 Manson事件を研究する上で必須といえば、Manson事件では検察官を務めたVincent Bugliosi によるHelter Skelterである。Manson事件を総括する目的で書かれた本であり、事件の指揮をとった人物による公判記録の解説本と言っていい内容となっている。この公式見解の中の矛盾をTomはVincentへのインタビューを行ったり 愚直に食らいついていく。
 Terry Melcherについては公判ではほとんで証言がなく裁判の中では、Mansonとは面識はあったものの向こうから会いにくるのみで数度会った後、事件前には 交流もフェード・アウトしたことになっていた。ところが、警察などの公式記録を調べると なんと犯行前後に渡って会ってレコーディングなどに立ち会っていた、と言う証言まで出てくるではないか、さらにはVincent自身がTerryから同様の証言を得ていることも判明する。他のManson本と違い本作の面白いところはTerry Melcherへ筆者が突撃インタビューを行う所だ。筆者をなだめすかすかと思えば、逆上したり生々しい生前のTerry Melcherの様子が窺われるのは本作のみだ。同時にDennis Wilsonの共作者として有名なGregg Jakobson("Celebrate the News", "Forever"が有名)の果たす立場の大きさが今まで以上であったことが、行動範囲の大きさから分かる。
 Greggは孤児であったが養家がLos Angelesになったので地元の学校では多くの有名人の子弟と交流し、次第にHollywoodで芸能関係の職を得ることとなった、スタントマンやタレントスカウトを経てBruce & Terryとも仕事をするようになった。The Beach Boysがハワイ公演の際、前座がBruce & Terryだったので彼らを通して Dennisとは意気投合し、それ以来親交を深めてきた。

 GreggはMansonの裁判でも積極的に参加し多くの証言を行っており、当時の内幕の一部をLance Fairweatherの変名でRolling Stone誌へ寄稿している。Greggの一連の行動は実はDennisや Terryの代理と思われる行動もあり、実際そのように行動している記録もあるため謎はまだまだありそうだ。
 現在でもThe Beach Boysサイドから積極的にMansonに関するコメントは殆どない。
 1968年リリースのリングルB面Never Learn Not To LoveはManson作であったことは今では明らか であるが、1971年のRolling Stone誌のインタビューで実はManson作であったことと、作曲者の クレジットは行わない代償として10万ドル相当の物をMansonに渡したことをDennisが答えているのが初出である。その後原曲Cease To ExistからNever Learn Not To Loveへと改作されたことに激怒したMansonはDennisiと親交を断ったことが多くの評伝類で記されているがDennis本人は明言していない。



 1971年Rolling Stone誌"Beach Boys: A California Saga, Part II"で DennisがManson作品『Cease To Exist』を元にした旨認めた 過去の取り上げ方を手元の資料で確認してみると 。

●Friends/20/20(CDP 7 93697 2)米国盤 
 1990年にCDで未発表曲を加えた過去のリマスター盤が好評を博した ここにおいても、Never Learn Not To Loveについての解説は原曲はCease To Existとだけ言及し Mansonの記述は一切ない、ライナーの最後にあるBrianのコメントも一切ない。 。

●The Beach Boys/David Leaf (1985edition) 
 The Beach Boys伝の中でも基礎的文献になるであろう名著、David Leaf 自身も彼らからの厚い信頼を得ている。
 なんとわざわざCharles Mansonの章(2ページ)を設けている、基本的にVincentの著書からの公判記録であり何故かNever Learn Not To Love改作のくだりがすっぽり抜けている。

●Heroes And Villains True story of the Beach Boys/Stevens Gaines
 1988年に邦訳でも上下2巻で出版され、当時としてはスキャンダラスなバンドヒストリーを 描いたものとして話題となった。
 レコードコレクター誌でも”『ビーチ・ボーイズ リアル・ストーリー』が生み出した 新たな誤解/山下達郎”という記事が出るほどであった。
 オリジナルのペーパーバック版では19ページにわたりVincentの著作プラス独自取材から得た Mansonとの関わり、Never Learn Not To Love改作時のMansonの怒りも記述している。

●The Nearest Faraway Place/Timothy White
 邦訳でも出版され、バンドヒストリーというよりは生活文化誌を徹底した取材と解説で彩る名著。
 アカデミックな分、Mansonについては1ページ半の記述ありNever Learn Not To Love改作時のMansonの怒りについては記述なし。

 ●The Real Beach Boy/John Stebbins
 バンドというよりDennis Wilson伝なのでMansonとの関わりは避けられず、独自取材による逸話も 多い。Mansonについては11ページの記述ありNever Learn Not To Love改作時のMansonの怒りについては記述なし。

 現在でもManson案件は上記の様な取り扱いであり、音楽的な見地からのアプローチはないかと 思っていた矢先、2019年にDVDのリリースがあった。


Manson Music From An Unsound Mind(2019 DVD) 

 Mansonの事件前からの音楽面での軌跡を辿るという企画で見ごたえのある内容となっている。以前にもドキュメンタリー映画で『Cease To Exist』(2007)があったが過去映像の編集 が大半であり、DennisやTerryに見捨てられたMansonが両者に怨恨を持ち犯行に至るストーリー となっている。
 本作はインタビューも豊富でGregg Jakobson, Stephen Desper, Phil Kaufman, Ed Roach, Ernest Knapp, Jon Stebbins, Dominic PrioreとThe Beach Boys関連の関係者総動員でファンも楽しめる内容となっている。
 本作で述べている犯行動機が他と少し違い、例の終末思想というより、ヒッピー・コミューン指導者の裏の顔として行っていたが 薬物取引でのいざこざから起きた殺人を隠蔽し警察捜査撹乱のためBlack Pantherの仕業に見せかけた、というものだ。また、音楽業界へのキャリアの可能性を最後に断ち切ったのはTerryと印象付けているが、Mike Love界隈からの同調圧力か?
 最後に本作及び手元の資料から分かるMansonのセッションを記録しておく。


 人生の大半を矯正施設や牢獄で過ごしたMansonであったが、幼少より歌声に優れ、またギターを戦前のギャング団の大物Alvin Karpisから教わり、遂には年に数十曲の自作曲も持っていた。獄中生活中にThe Beatlesの米国上陸にも影響された、その間独学でScientologyや 洗脳技術を身につけ、1967年西海岸へ移送された。
 Frankie Laineばりの歌声とギターの腕前を評価したのが、当時薬物所持で入獄中だった Phil Kauffman、後にGram Parsons死去時彼の遺体を無断で持ち出し火葬した奇行で有名になるが、当時はHollywoood界隈で端役俳優やRolling Stonesの運転手を勤めていた(どこか 映画Once Upon A Time In Hollywoodに重なるところが面白い。)
 両者は釈放後連絡を取り合い、既にFamilyを率いつつあったMansonに目をつけたPhilは「イエス・キリストみたいなイかれた連中がいる」と、Universalへ映画と音楽両方で売り込んだ。その後UniのGary Strombergよりレコーディングのオファーが届く。セッションは3時間以上行われるが、 音楽及び映画についての話は進展しなかった。マスターテープは現存しており、上記ドキュメンタリー映画『Cease To Exist』の中でBrian邸での録音と称されて使われている。
 その後、Familyが増え根城をMalibuにある廃屋Spiral StarecaseへMansonは移した、 短期間であったがバンドThe Milky Wayを結成しライブは短期間だけで解散する。
 その当時 Mansonは作家Robert A. Heinleinの作品を耽読していた、この事は後に終末思想へと影響を 与えたと言われている。
 ちなみにHeinleinの『夏への扉』山下達郎にも影響を与えており インスパイアされた同名の曲がアルバム『Ride On Time』に収録されている。



 1968年8月頃(殺人事件のちょうど1年前)にGold StarまたはVan Nuys近郊のスタジオで セッションが行われる、後に出るMansonのアルバムLIEのマスターテープとも言われている。ちなみにVan NuysはOnce Upon A Time In Hollywoodの主役の一人Cliff Boothが暮らす トレーラーハウスの近くにあるドライブインシアターがある場所だ。
 同時期にBrian邸でのセッションが行われた、これはDennisがMansonを自身の Brother Recordからデビューさせようと決めたので、デモテープ作成の必要があったためだ。Steven Desperの証言では制作にはTerry Melcherも関わっていると話しており、目的は不明である。レコーディングはMansonとハウスエンジニアのSteven Desperとの二者で行われた。レコーディング中はMansonとFamilyの奇行に辟易し、特にBrianの妻Marilynは彼らの不潔さには激怒していたとのこと。当時のテープは事件後も破棄されていない模様。
 さらに1968年末から1969年初頭にDennisの家でTerry MelcherはMansonとデモを試聴し、Cielo Driveへ移動後Columbiaとの契約の可能性を探りレコーディングの話をしていた。 その後Gregg JakobsonからMansonの意を受けたのか?
 Manson一味が当時暮らしていた Spahn Ranch(映画の中でも再現されており、盲目のオーナーまで登場 映画村のような場所)へ来訪を促される。それを受けてTerry Melcherはwrecking crewの一員でもあるギタリストMike Deasyを同道させた、彼は野外録音システムを持っていたからだ。現地では愛と平和のコミューンが待っているかと思われたが、実際は暴力と洗脳が支配するデストピアであることが間もなく分かり幾つかの演奏を収録した後退去した。その後もGreggを通じで何度もオーディションの申し出がMansonよりあったが、Terryは固辞し続けた。
 また同時期目的は不明であるがLos AngelesのWilder Brothers Studioでレコーディンが行われている、このことは公判記録にもあり、あくまでMansonとGreggとの間で行ったことになっている。Wilder Brothers Studioは名前のとおりWarner,Walter,Georgeの三兄弟で戦前/ 戦後をコーラスグループで活躍し、その後スタジオ業も営んでいた。なお、Wilder BrothersがLes Brown楽団にいた当時、メンバーの一人Georgeはリードシンガーと結婚する 。 その名はDoris Day Terryの実母である。
 Greggの行動を見ると、どうやらTerryやDennisの意を受けてMansonとの間に立って重要な役割を果たしていたようだが、現在でもGreggは当時の自身の状況を話してくれているが The Beach Boys周辺には悪影響が及ばないようなスタンスを続けている。
 近年Steven Desperがネット上で明かした事実によれば、上記Brian邸でのセッションは 『心して聞いていただきたい、(あのセッションは)"event"の起きた数週間前だった』 とのことである。"event"がManson一味の殺人事件であるならば、実際は1年後の1969年7月頃になってしまう、そうなれば今までのTerryやDennisの行動が全く違うものになる。

 前回の拙稿でも述べたとおり、Dennisは1969年中葉までマスメディアにはMansonとの親し身をアピールしている、Stevenの発言は逆にこれを補完することになってしまうのだ。
 今後もThe Beach Boysサイドはこの件は明確なコメントもなく避け続けるであろう。
 1969年4月9日人気テレビ番組The Mike Douglas ShowにThe Beach Boysは出演し、当時リリースしたばかりのシングル『I Can Hear Music』に続き、Mansonの曲『Cease To Exist』を下敷きにした、『Never Learn Not To Love』を演奏した。
 『I Can Hear Music』のB面は 『All I Want To Do』である、あえて全米にこの曲を披露したDennisの内面はいかに?
 Mansonへの決別だったのか? それともMansonエバンゲリストとして全米に向けた第一声であったのか?


Mike Douglas Show出演時の画像

Manson逮捕後リリースされたアルバム『LIE』より


The Beach Boysと同郷のバンドRedd Crossのカバー

 (text by MaskedFlopper)

WACK WACK RHYTHM BAND :『THE 'NOW' SOUNDS』(WWRB / WWRB004)

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 傑作ファースト・アルバム『WEEKEND JACK』を2年前にリイシューしたのが記憶に新しいWACK WACK RHYTHM BAND(ワック・ワック・リズム・バンド)が、オリジナル・アルバムとしては、『SOUNDS OF FAR EAST』(05年)以来約15年振りとなるフォース・アルバム『THE 'NOW' SOUNDS』を4月4日にリリースする。

 彼等ワック・ワック・リズム・バンド(以下ワック)は、92年にフリーソウル・ムーヴメントの立役者の一人で東京モッズ・シーンの顔役である山下洋(ギター)の仲間達からリーダーを小池久美子(アルト・サックス)にして結成された。
 当時のクラブ・シーンを背景にUK経由のR&Bをベースとしたインスト・グループだが、そのヴァーサタイルなスタイルは他に類を見ない唯一無二な存在と言えよう。

 本作には18年の10月と11月の7インチ・アナログ盤でリリースされた、『Easy Riding / I’ll Close My Eyes』と『Madras Express / Stay-Pressed』に収録された4曲をはじめ、エキゾチック・サウンドの大家マーティン・デニー(Martin Denny 1911年4月~2005年3月)、70年代からブルーアイドソウル~AOR界きってのシンガー・ソングライターであるボズ・スキャッグスのカバーまで全12曲を収録している。ここでは前回レビューした7インチ収録曲以外で筆者が気になった曲を解説したい。



 冒頭の「Everyday Shuffle」はキーボードの伊藤寛による作品で、イントロのジャングル・ビートに導かれたビッグバンド・サウンドをバックに伊藤のピアノがリードを取るシャッフル系のラウンジ・ナンバーだ。
 2コーラス目からは伊藤さおりのトロンボーン、仲本興一郎のソプラノ・サックスへとソロ楽器が受け継がれる。 
 続く「Flyaway on Friday」はベースの大橋伸行とトランペットの國見智子のソングライティングで、90年代UKジャズファンク経由のレアグルーヴなリズム・セクションにニューソウル系のムーディーなコード進行とヴォイシングが効いている。國見とパーカッションの福田恭子(仲本と共にVacation Threeのメンバーでもある)の女性2人のダブル・ヴォーカルが魅力的だ。


【wack wack rhythm band New Album THE 'NOW' SOUNDS trailer】 

 マーティン・デニーのカバーは「Something Latin」(『Latin Village』収録 64年)で、テナー・サックスとメイン・ソングライターでもある三橋俊哉の選曲らしい。オリジナルではアタックの強いアコースティック・ピアノとヴィブラフォン主体のエキゾチック・ラウンジだったが、ここでは鍵盤がウーリッツァーとなり、山下によるエレキシタールや福田によるスティールパンとクイーカが加わったことで豊かなアレンジになって新鮮に聴けた。
 一方ボズ・スキャッグスの方はサードアルバム『Moments』(71年)から冒頭の「We Were Always Sweethearts」を取り上げている。所謂「Tighten Up」(Archie Bell & The Drells 68年)に通じるシェイク系ファンクで、フリーソウルのルーツとしても面白い選曲だ。ここでは山下のヴォーカルもオリジナルを意識しているが、ベースの大橋とドラムの和田卓造のリズム隊の切れ味もあり、ワックの演奏に軍配が上がりそうだ。
 続く「Finish feat. Lemon」はタイトル通り、元ワックのメンバーで女性ヴォーカリストのLEMONがフィーチャーされたスカ風味の光速R&Bである。その圧倒的でソウルフルな歌唱はアルバムの中でも存在感を放っている。作曲は三橋で作詞は元ザ・ハッピーズで現中村ジョー&イーストウッズを率いる中村ジョーである。
 因みにこのイーストウッズにはワックから三橋、國見、福田の3名が参加している。蛇足だが弊サイト連載企画の「ベストプレイ・シリーズ」に参加した松木俊郎(ベース)と北山ゆう子(ドラム)はこのバンドの結成時からのメンバーである。 


 「Stay-Pressed」とラストの「Right and Bright」はいずれも三橋のソングライティングによるインスト・ナンバーで、前者はブッカー・T&ザ・MG'sよろしく古き良きスタックス・ソウル感漂うオルガン・ダンサーだ。後者は弊サイトではお馴染みのトニー・マコウレイが手掛けたファウンデーションズに通じる良質なノーザンソウルで、エレキとアコギを使い分けた山下のプレイが光る。 両曲ともフロアを熱くするに違いない。
 なおミキシングは大橋が10曲と、國見とマイクロスターの佐藤清喜が各1曲手掛けており、エンジニアリング面でもセルフ・プロダクションが行き渡っている。
 このレビューで興味を持った弊サイト読者や音楽マニアは是非入手して聴いて欲しい。
 (ウチタカヒデ)


追悼 志村けん~音楽で語るAnother Side

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  去る2020年3月29日に昭和・平成年間を通じ、日本はもとより世界中に笑いを発信し続けていた「日本の喜劇王」の一人、志村けんさんが「新型コロナ・ウィルス」感染による肺炎のために、70才の生涯を全うされた。 

 私は1954年生まれで彼とは5歳違いだ。彼が荒井注さんの脱退を受けて、正式にドリフターズのメンバーに加入した1974年4月には既に大学生になっており、当時さほど興味を持っているわけではなかった。 

 そもそも私がドリフに夢中になっていたのは1969年の中学生時代までで、その頃も『8時だよ全員集合!』よりも『コント55号の世界は笑う』に興味が移っていて、彼がドリフに加入した時期は完全に「ドリフ離れ」していた。しかも1985年9月に幕を下ろした『8時だよ!~』の末期には、『オレたちひょうきん族』に夢中になっていたので、彼を語るのはおこがましいものかもしれない。 

 ただ、私はハナ肇とクレイジー・キャッツ(以下、クレイジー)にはじまるコミック・バンドへの興味が高く、いかりや長介とザ・ドリフターズ(以下、ドリフ)はもとより、ドリフ脱退組のドンキー・カルテットやウガンダ・トラ在籍時のビジー・フォー(彼らも渡辺プロダクション)あたりまで、かなりコアなコミック・バンド・マニアだ。 特に1960年代、「シャボン玉ホリデー」等で繰り広げられた、クレイジーとドリフのジャム・セッションによるアドリブから発展するギャグの応酬には心ときめいたものだった。

 ちなみに、志村さんが1968年にいかりや長介さんへの弟子入りを目指したのは、「音楽性の面」からだったという。そこから彼も私同様にクレイジーとドリフのコミック・セッションに心惹かれていた一人だったとも推測される。補足になるが、志村さんは中学以来熱狂的な「ビートルズ・ファン」だったということで、1966年7月2日に日本武道館公演でのザ・ビートルズ日本公演に足を運んでいると聞く。その時に隠し撮りした「ジョンのサン・グラス着用」写真をパネルにして持っているとのことだ。 

 ちょっとした笑い話になるが、私は1971年9月23日にレッド・ツェッペリンの初来日公演を日本武道館で体験しているが、オープニングの<Immigrant Song>で見た間奏でのステージ・アクションに「まるでドリフだ!」という不謹慎な連想をしてしまっている。 

 さて話は志村さんに戻すが、そんなコミック・バンドとしてのドリフでのポジションはギターだったというが、私自身は彼のギタリストという印象が薄い。それはカトチャンのようにハナ肇さんとのドラムでのバトル・シーンを頻繁に拝見した記憶がないからだ。ただ、三味線や琵琶といった楽器を変えての奏者としての印象は鮮烈なものだった。そのテクニックは鮮明に焼き付いており、また真剣なプレイの最中に時折ズッコケるといった伝統的なオチで笑いを取るスタイルには、彼がコミック・バンドのメンバーであることを再確認したものだった。 

 彼がドリフでブレイクしたネタは、1976年から唄いだした日本人で知らない人はいないほど有名な「東村山音頭」だった。しかしこのヒットは荒井注さん在籍時のドリフと基本ラインは同じで「クレイジーのようなオリジナルを避け、カヴァー・ソングや民謡等で勝負」という手法だった。言い方を変えれば、この時点での彼のネタはファンや一般に向けてドリフターズの正式メンバーとして立派に認知された成果だったが、それは従来路線のドリフに同化した結果だったといえるものだった。
  また1980年前後に大反響を呼んだ「カラスの勝手でしょ~♪」は、1972年以降に登場した<タブー>をBGMにしたカトチャンの「ちょとだけよ~」のストリップ・ネタ同様に、当時のPTAから「低俗番組」として目の敵にされている。こんな事例でも、彼はドリフの伝統をしっかり引き継いでいた存在だった。

 そんな志村さんが、「ドリフの~」ではなく「志村けん」という一コメディアンとして彼らしさを前面に打ち出して頭角を現すのは、1979年に始めた「ヒゲダンス」といえるだろう。 この曲のリズムは1970年代後期に「セックス・シンボル」の称号を与えられていたアメリカのR&B.シンガー、テディ・ペンダーグラスの曲からフレーズをリフレインしたカヴァーで、1979年にリリースしたサード・アルバム『Teddy』(注1)の収録曲<Do Me>だ。ただこの曲は本国でのシングル曲ではなく、1980年に<「ヒゲ」のテーマ>(注2)が大流行となった日本でのみシングル・カット(注3)されたナンバーだった。これは彼がソウル・ミュージック等に造詣が深いレコード・コレクターという側面からの成果だったといえるだろう。 

 またドリフ名義ではあるが<ドリフの早口ことば>(注4)もソウル・ミュージックからのひらめきと言われている。それはシュガーヒル・ギャングの<Rapper’s Delight>(注5)にウィルソン・ピケット1971年のヒット<Don’t Knock My Love Pt.1>(注6)のバック・トラックをはめ込んだものと一般には伝えられている。ただそれのみならず、この曲はダイアナ・ロスとマーヴィン・ゲイの共演アルバム『Dianna & Marvin』(注7)に収録された<Don’t Knock My Love>(注8)が1974年にヒットしたことも影響していたのように思える。 

 このような彼のソウル・ミュージックに触発されたセンスは当時、音楽業界からも注目された。その評価は1980年前後に発刊されていた音楽雑誌『jam』などからオファーを受け、ソウル系アルバムのレビューを寄稿する「ソウル・ミュージック評論家」としての顔を持つことに繋がっている。 

 更に「志村けん」としての代名詞と言われる「変なおじさん」の元ネタは、沖縄を代表するバンド「喜納昌吉&チャンプルーズ」の1977年本土デビュー曲(沖縄では1972年)として知られたナンバーだ。そんなこのシングルには「赤塚不二夫イラスト版ジャケット」(注9)があり、このイラストは「変なおじさん」を連想させるものだった。個人的な見解になるが、彼はこのイラストに触発されて「変なおじさん」を考案したのではないだろうか?もしそうであったなら、こんなところにも彼の音楽にこだわったギャグ・センスのひらめきに非凡さを感じる。 

 そして、1988年からは『志村けんのだいじょうぶだぁ』で、だいじょうぶだぁファミリーが様々なコスプレをして歌い踊ったことで話題になった<ウンジャラゲ>(注10)で視聴者を虜にしている。
 この曲はいかりやさんがドリフ時代「クレイジー的な音楽にはかなわない」とばかりに避けていた「ハナ肇とザ・クレイジー・キャッツ」のオリジナル・ナンバーだ。しかも、この曲はクレイジーの大ヒットではなく、クレイジー末期の1969年にリリースされた<あんた>のB面曲だったのだ。こんなことろから引っ張り出して再構築させているところにも、彼のギャグに対する探求心の旺盛さに圧倒させられるばかりだ。しかもこのカヴァーは、オリジナル・アレンジのままという大胆なものだった。
 なお、この曲では「中森明菜」「田原俊彦」など多くのシンガーを巻き込んだパフォーマンスが評判になった。そして「志村けんとだいじょうぶだぁファミリー」として「夜のヒットスタジオ」 に出演しているが、その際には大先輩植木等さんが登場し、御大の前で本家以上のパフォーマンスを披露している。

 とはいえ彼の功績は、過去の遺産を消化して見事に自分流のものに仕上げるものばかりにあらず、オリジナル・ユニットを通じてもそのギャグ・センスを爆発させている。そんなお馴染みのコンビと言えば、1993年田代まさしさんと組んだ<婆様と爺様のセレナーデ>(注11)、そして研ナオコさんとのユニット「けん♀♂けん」の<銀座あたりでギン!ギン!ギン!>(注12)が思い浮かぶはずだ。 
 とはいえ彼の矛先は、このようにありそうなメンバーだけでなく、2002年には当時一世風靡していたモーニング娘からの派生ユニット「ミニモニ」と組むという想定外のコンビをも誕生させている。そこでは「バカ殿様とミニモニ姫」名義で<アイ~ン体操/アイ~ン!ダンスの唄>(注13)をリリースし、何と「ゴールド・ディスク」を獲得するほどのヒットにつなげた。 

 そんな志村さんだが、彼は生前ジュリーこと沢田研二さんとの交流が深かった。その交流は彼がドリフに加入する前の「マックボンボン」時代に、ジュリー・コンサートの前座を務めていた頃から続いていたようだ。 
 そんな二人は2001年には『ジュリけん』(文化放送)という1時間番組で1年半近く共にしていた。この縁からか同年10月13日には『二人のビッグショー』での共演に繋がっている。さらに、2003年7月19日~8月9日の『沢田・志村のさぁ、殺せ‼』では舞台共演も実現しているが、これらは全てジュリーからの希望だったという。 このように日本を代表するシンガーであるジュリーが共演を切望していたのは、彼のコントには音楽の息吹が脈づいていたという証だったのではないだろいうか。

 近年の音楽の楽しみ方は「観賞用」としてではなく、完全に「BGM化」している。そんな昨今の世情ではあるが、志村けんさんの愛した「音楽ネタ・コント」の伝統は、後進に末永く引き継がれていかれることを祈るばかりだ。
 最後なってしまったが、改めて志村さんが生み出した沢山の「笑い」の功績に感謝し、ご冥福をお祈りします。ありがとうございました。 


(注1)1979年6月 23日 Teddy Pendergrass 3rd『Teddy』 U.S.5位 R&B.1位 
(注2)たかしまあきひこ&エレクトリック・シェーバーズ 
    1980年2月25日発売 (SMS) SM06-52 5位 32.3万枚 
(注3)1979年 Teddy Pendergrass (Philadelphia International) 06SP-454 
(注4)いかりや長介とザ・ドリフターズ 第13作Single 
    1980年12月21日発売 (SMS) SM07-81 10位 23万枚 
(注5)1979年9月 16日 The Sugarhill Gang 1st Single U.S.36位 R&B.4位U.K.3位 
(注6)1971年4月 Willson Picket 36th Single U.S.13位 R&B.1位 
(注7)1973年10月26日『Dianna & Marvin』U.S.26位 R&B.7位 U.K.6位Japan1位 
(注8)1974年Dianna & Marvin 4th Single U.S.26位 R&B.7位 
(注9)喜納昌吉&チャンプルーズ 1977年11月5日発売 フィリップスFW-2007 
(注10)志村けんと田代まさしとだいじょうぶだぁファミリー
     1988年11月2日発売 ポニーキャニオン7A-0919 20位 10.1万枚
     ハナ肇とクレイジー・キャッツ 第20作Single<あんた/ウンジャラゲ> 
     1969年7月10日発売 東芝音楽工業 TP-2186 
(注11)1993年12月17日発売 ポニーキャニオンPCSA-00279 48位 2.9万枚 
注12)2001年10月28日発売 ポニーキャニオンPCSA-00279 41位 2.7万枚 
(注13)2002年4月24日発売 Zetima EPCE-5156 3位21.2万枚

                         2020年4月2日鈴木英之

【ガレージバンドの探索・第八回】The Enfields - Friends Of The Family

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60年代の学生ガレージバンドに関しては、ひとつのバンドを詳しく知ろうとする人は多くないと思う。わたしもWebVANDAの連載を始めるまで、曲単位で聴いていてあまり個々のバンドについて調べることがなかったのだけれど、少し詳しく調べてみるようになると、その過程で発見する関連の曲がすごく良かったり、メンバーの意外な経歴が見つかったりするのがおもしろい。今回は、「I'm For Things You Do」という曲が好きだったThe Enfieldsのことを調べた。一般的に広く知られてはいないけれど、世界中の一定数のフォークガレージやサイケガレージ、トワイライトガレージ愛好家やコレクターから愛され続けているようなバンドだと思う。 

【結成当初のラインアップ】
  Ted Munda(ボーカル、ギター)Charlie Berl(ボーカル)
John Bernard(リードギター)
Bill Gallery(ベース)
Gordon Berl(ドラム)

1964年、デラウェア州ウィルミントンでThe PlayboysとサーフロックバンドのThe Touchstonesという2つのバンドが統合する流れでThe Enfieldsが結成された。中心人物はソングライターでボーカル、ギターのTed Munda。
Ted Mundaと Gordon BerlはThe Playboysのメンバーで、John Bernard、Bill GalleryはThe Touchstonesのメンバーだった。Charlie BerlとGordon Berlは兄弟。ブリティッシュ・インヴェイジョンの影響を受けていた彼らは、ロンドン自治区エンフィールドに因んで名付けられた有名なライフルからとって、バンド名をThe Enfieldsとした。

1966年にRichie Recordsからシングルを3枚リリースする。プロデューサーはVince RagoとTony Pace。最初に「In the Eyes of the World」(Richie 669)が地元でヒット。この曲はTed Munda とCharlie Berlの共作のようだ。A面、B面とも同じ曲を収録し、DJがどちらをかけても良いようにした。次にリリースした、フォークロックの影響が強い「She Already has Somebody」(Richie 670)ではさらに大きなヒットが続いた。
B面曲の「I'm For Things You Do」はThe Zombiesの影響が反映されている。この2ndはA面、B面ともTed Munda作。


I'm For Things You Do / The Enfields


この頃までにThe Enfieldsはウィルミントンで最も人気のあるバンドになっていたそうだけれど、全国的に認知されるには至らなかった。
3rdシングルはバラード曲「You Don't Have Very Far」(Richie 671)。B面の「Face to Face」はおそらくThe Whoの影響があったようだ。

Bill Galleryが進学のためにバンドを去り、The Wrecking Crew(後にThe Blues Magoosに加わったGeoff Dakingが在籍していたローカルバンド)のJohn Rhoadsがベースで加わる。


1967年の初めにラストシングルとなる「Twelve Month Coming」 / 「Time Card」(Richie 675)をリリース。チャートには記録されなかった。
その後Charlie Berlが徴兵され、バンドは解散した。

The Enfields解散後、Ted MundaはJohn Rhoads と、地元の別のバンドThe TurfsのメンバーだったWayne Watson(ギター) 、Jimmy Crawford (ドラム)を加えてFriends Of The Familyを結成。1967年の5月にFrank Virtueプロデュースの下、フィラデルフィアのVirtue Recording Studiosで6曲のデモを録音する。Kama Sutra Recordsなど、いくつかのレーベルが興味を示したものの契約には至らなかった。


1967年のうちにJohn Rhoadsがバンドを去り、Ray Andrews(ベース/ボーカル)、Lindsay Lee(オルガン/ボーカル)が加わる。
1968年7月、新体制で5曲が録音された。プロデューサーはJoe Renzetti。

1991年にリリースされたDistortions Recordsのアルバム『The Enfields / Friends Of The Family - The Songs Of Ted Munda』(Distortions Records ‎– DB 1003)にはThe Enfieldsの全音源と、Friends Of The Familyの1967年の音源が収録された。そして1993年、Get Hip Recordingsから出たCD版(GHAS-5000CD)では、未発表だったFriends Of The Familyの1968年の音源5曲も追加されている。わたしは今回調べるまでThe EnfieldsのFriends Of The Familyというタイトルのアルバムだと思っていて、後半だいぶ雰囲気が変わるなあと思っていたら違うバンドの音源がまとまっていたらしい。


Friends Of The Familyはこの他に、アルバムには収録されていない1968年のシングル
「Can't Go Home」 / 「How You Gonna Keep Your Little Girl Home」(Smash Records ‎– S-2144)もある。これは、Cameo Parkway Recordsのスタッフ・ライターNeil Brianが録音したものだそうだ。


Can't Go Home / Friends Of The Family

Friends Of The Familyの録音はそれが最後のようだけれど、Ted Mundaはその後も様々な活動を続けている。ガレージに関連するところでは、The Blues Magoosにも在籍していたようで、1969年リリースのThe Blues Magoos 「Let Your Love Ride」(Ganim, G-100)はTed Mundaの作だった。


【文:西岡利恵】



参考・参照サイト


https://en.wikipedia.org/wiki/The_Enfields#cite_note-Jason_(Enfields)-


http://therisingstorm.net/the-enfields-friends-of-the-family/


http://musicofsixties.blogspot.com/2012/09/the-enfields-enfieldsfriends-of-family.html


http://musicofsixties.blogspot.com/2012/09/the-enfields-enfieldsfriends-of-family.html


追悼 志村けん~音楽で語るAnother Side

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  去る2020年3月29日に昭和・平成年間を通じ、日本はもとより世界中に笑いを発信し続けていた「日本の喜劇王」の一人、志村けんさんが「新型コロナ・ウィルス」感染による肺炎のために、70才の生涯を全うされた。 

 私は1954年生まれで彼とは5歳違いだ。彼が荒井注さんの脱退を受けて、正式にドリフターズのメンバーに加入した1974年4月には既に大学生になっており、当時さほど興味を持っているわけではなかった。 

 そもそも私がドリフに夢中になっていたのは1969年の中学生時代までで、その頃も『8時だよ全員集合!』よりも『コント55号の世界は笑う』に興味が移っていて、彼がドリフに加入した時期は完全に「ドリフ離れ」していた。しかも1985年9月に幕を下ろした『8時だよ!~』の末期には、『オレたちひょうきん族』に夢中になっていたので、彼を語るのはおこがましいものかもしれない。 

 ただ、私はハナ肇とクレイジー・キャッツ(以下、クレイジー)にはじまるコミック・バンドへの興味が高く、いかりや長介とザ・ドリフターズ(以下、ドリフ)はもとより、ドリフ脱退組のドンキー・カルテットやウガンダ・トラ在籍時のビジー・フォー(彼らも渡辺プロダクション)あたりまで、かなりコアなコミック・バンド・マニアだ。 特に1960年代、「シャボン玉ホリデー」等で繰り広げられた、クレイジーとドリフのジャム・セッションによるアドリブから発展するギャグの応酬には心ときめいたものだった。

 ちなみに、志村さんが1968年にいかりや長介さんへの弟子入りを目指したのは、「音楽性の面」からだったという。そこから彼も私同様にクレイジーとドリフのコミック・セッションに心惹かれていた一人だったとも推測される。補足になるが、志村さんは中学以来熱狂的な「ビートルズ・ファン」だったということで、1966年7月2日に日本武道館公演でのザ・ビートルズ日本公演に足を運んでいると聞く。その時に隠し撮りした「ジョンのサン・グラス着用」写真をパネルにして持っているとのことだ。 

 ちょっとした笑い話になるが、私は1971年9月23日にレッド・ツェッペリンの初来日公演を日本武道館で体験しているが、オープニングの<Immigrant Song>で見た間奏でのステージ・アクションに「まるでドリフだ!」という不謹慎な連想をしてしまっている。 

 さて話は志村さんに戻すが、そんなコミック・バンドとしてのドリフでのポジションはギターだったというが、私自身は彼のギタリストという印象が薄い。それはカトチャンのようにハナ肇さんとのドラムでのバトル・シーンを頻繁に拝見した記憶がないからだ。ただ、三味線や琵琶といった楽器を変えての奏者としての印象は鮮烈なものだった。そのテクニックは鮮明に焼き付いており、また真剣なプレイの最中に時折ズッコケるといった伝統的なオチで笑いを取るスタイルには、彼がコミック・バンドのメンバーであることを再確認したものだった。 

 彼がドリフでブレイクしたネタは、1976年から唄いだした日本人で知らない人はいないほど有名な「東村山音頭」だった。しかしこのヒットは荒井注さん在籍時のドリフと基本ラインは同じで「クレイジーのようなオリジナルを避け、カヴァー・ソングや民謡等で勝負」という手法だった。言い方を変えれば、この時点での彼のネタはファンや一般に向けてドリフターズの正式メンバーとして立派に認知された成果だったが、それは従来路線のドリフに同化した結果だったといえるものだった。
  また1980年前後に大反響を呼んだ「カラスの勝手でしょ~♪」は、1972年以降に登場した<タブー>をBGMにしたカトチャンの「ちょとだけよ~」のストリップ・ネタ同様に、当時のPTAから「低俗番組」として目の敵にされている。こんな事例でも、彼はドリフの伝統をしっかり引き継いでいた存在だった。

 そんな志村さんが、「ドリフの~」ではなく「志村けん」という一コメディアンとして彼らしさを前面に打ち出して頭角を現すのは、1979年に始めた「ヒゲダンス」といえるだろう。 この曲のリズムは1970年代後期に「セックス・シンボル」の称号を与えられていたアメリカのR&B.シンガー、テディ・ペンダーグラスの曲からフレーズをリフレインしたカヴァーで、1979年にリリースしたサード・アルバム『Teddy』(注1)の収録曲<Do Me>だ。ただこの曲は本国でのシングル曲ではなく、1980年に<「ヒゲ」のテーマ>(注2)が大流行となった日本でのみシングル・カット(注3)されたナンバーだった。これは彼がソウル・ミュージック等に造詣が深いレコード・コレクターという側面からの成果だったといえるだろう。 

 またドリフ名義ではあるが<ドリフの早口ことば>(注4)もソウル・ミュージックからのひらめきと言われている。それはシュガーヒル・ギャングの<Rapper’s Delight>(注5)にウィルソン・ピケット1971年のヒット<Don’t Knock My Love Pt.1>(注6)のバック・トラックをはめ込んだものと一般には伝えられている。ただそれのみならず、この曲はダイアナ・ロスとマーヴィン・ゲイの共演アルバム『Dianna & Marvin』(注7)に収録された<Don’t Knock My Love>(注8)が1974年にヒットしたことも影響していたのように思える。 

 このような彼のソウル・ミュージックに触発されたセンスは当時、音楽業界からも注目された。その評価は1980年前後に発刊されていた音楽雑誌『jam』などからオファーを受け、ソウル系アルバムのレビューを寄稿する「ソウル・ミュージック評論家」としての顔を持つことに繋がっている。 

 更に「志村けん」としての代名詞と言われる「変なおじさん」の元ネタは、沖縄を代表するバンド「喜納昌吉&チャンプルーズ」の1977年本土デビュー曲(沖縄では1972年)として知られたナンバーだ。そんなこのシングルには「赤塚不二夫イラスト版ジャケット」(注9)があり、このイラストは「変なおじさん」を連想させるものだった。個人的な見解になるが、彼はこのイラストに触発されて「変なおじさん」を考案したのではないだろうか?もしそうであったなら、こんなところにも彼の音楽にこだわったギャグ・センスのひらめきに非凡さを感じる。 

 そして、1988年からは『志村けんのだいじょうぶだぁ』で、だいじょうぶだぁファミリーが様々なコスプレをして歌い踊ったことで話題になった<ウンジャラゲ>(注10)で視聴者を虜にしている。
 この曲はいかりやさんがドリフ時代「クレイジー的な音楽にはかなわない」とばかりに避けていた「ハナ肇とザ・クレイジー・キャッツ」のオリジナル・ナンバーだ。しかも、この曲はクレイジーの大ヒットではなく、クレイジー末期の1969年にリリースされた<あんた>のB面曲だったのだ。こんなことろから引っ張り出して再構築させているところにも、彼のギャグに対する探求心の旺盛さに圧倒させられるばかりだ。しかもこのカヴァーは、オリジナル・アレンジのままという大胆なものだった。
 なお、この曲では「中森明菜」「田原俊彦」など多くのシンガーを巻き込んだパフォーマンスが評判になった。そして「志村けんとだいじょうぶだぁファミリー」として「夜のヒットスタジオ」 に出演しているが、その際には大先輩植木等さんが登場し、御大の前で本家以上のパフォーマンスを披露している。

 とはいえ彼の功績は、過去の遺産を消化して見事に自分流のものに仕上げるものばかりにあらず、オリジナル・ユニットを通じてもそのギャグ・センスを爆発させている。そんなお馴染みのコンビと言えば、1993年田代まさしさんと組んだ<婆様と爺様のセレナーデ>(注11)、そして研ナオコさんとのユニット「けん♀♂けん」の<銀座あたりでギン!ギン!ギン!>(注12)が思い浮かぶはずだ。 
 とはいえ彼の矛先は、このようにありそうなメンバーだけでなく、2002年には当時一世風靡していたモーニング娘からの派生ユニット「ミニモニ」と組むという想定外のコンビをも誕生させている。そこでは「バカ殿様とミニモニ姫」名義で<アイ~ン体操/アイ~ン!ダンスの唄>(注13)をリリースし、何と「ゴールド・ディスク」を獲得するほどのヒットにつなげた。 

 そんな志村さんだが、彼は生前ジュリーこと沢田研二さんとの交流が深かった。その交流は彼がドリフに加入する前の「マックボンボン」時代に、ジュリー・コンサートの前座を務めていた頃から続いていたようだ。 
 そんな二人は2001年には『ジュリけん』(文化放送)という1時間番組で1年半近く共にしていた。この縁からか同年10月13日には『二人のビッグショー』での共演に繋がっている。さらに、2003年7月19日~8月9日の『沢田・志村のさぁ、殺せ‼』では舞台共演も実現しているが、これらは全てジュリーからの希望だったという。 このように日本を代表するシンガーであるジュリーが共演を切望していたのは、彼のコントには音楽の息吹が脈づいていたという証だったのではないだろいうか。

 近年の音楽の楽しみ方は「観賞用」としてではなく、完全に「BGM化」している。そんな昨今の世情ではあるが、志村けんさんの愛した「音楽ネタ・コント」の伝統は、後進に末永く引き継がれていかれることを祈るばかりだ。
 最後なってしまったが、改めて志村さんが生み出した沢山の「笑い」の功績に感謝し、ご冥福をお祈りします。ありがとうございました。 


(注1)1979年6月 23日 Teddy Pendergrass 3rd『Teddy』 U.S.5位 R&B.1位 
(注2)たかしまあきひこ&エレクトリック・シェーバーズ 
    1980年2月25日発売 (SMS) SM06-52 5位 32.3万枚 
(注3)1979年 Teddy Pendergrass (Philadelphia International) 06SP-454 
(注4)いかりや長介とザ・ドリフターズ 第13作Single 
    1980年12月21日発売 (SMS) SM07-81 10位 23万枚 
(注5)1979年9月 16日 The Sugarhill Gang 1st Single U.S.36位 R&B.4位U.K.3位 
(注6)1971年4月 Willson Picket 36th Single U.S.13位 R&B.1位 
(注7)1973年10月26日『Dianna & Marvin』U.S.26位 R&B.7位 U.K.6位Japan1位 
(注8)1974年Dianna & Marvin 4th Single U.S.26位 R&B.7位 
(注9)喜納昌吉&チャンプルーズ 1977年11月5日発売 フィリップスFW-2007 
(注10)志村けんと田代まさしとだいじょうぶだぁファミリー
     1988年11月2日発売 ポニーキャニオン7A-0919 20位 10.1万枚
     ハナ肇とクレイジー・キャッツ 第20作Single<あんた/ウンジャラゲ> 
     1969年7月10日発売 東芝音楽工業 TP-2186 
(注11)1993年12月17日発売 ポニーキャニオンPCSA-00279 48位 2.9万枚 
注12)2001年10月28日発売 ポニーキャニオンPCSA-00279 41位 2.7万枚 
(注13)2002年4月24日発売 Zetima EPCE-5156 3位21.2万枚

                         2020年4月2日鈴木英之

Saigenji :『Live “Compass for the Future”』(Happiness Records / HRBR-017)

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 18年の9thアルバム『Compass』(HRBR-013)が好評だったSaigenji(以降サイゲンジ)が、全16 曲を収録した2 枚組ライヴ・アルバム『Live “Compass for the Future”』を5月13日にリリースする。
 本作のライヴ・ソースは、19 年3月29日と9月6日の2 日間で演奏された30数曲の中から厳選された16曲が収録され、『Compass』から10曲、ファーストアルバムの『SAIGENJI』(02年)をはじめ、『la puerta』(03年)『Innocencia』(04年)、『Music Eater』(06年)、『Medicine for your soul』(08年)、『One voice one guitar』(12年)から各1曲ずつ選ばれている。ライヴ・パフォーマーとして圧倒的な存在感を放っている彼の魅力を余すこと無くパッケージした内容となっている。バッキング・メンバーは、『Compass』のレコーディングと同様にドラムの斉藤良、ベース(ウッドベース)の小美濃悠太、ピアノの林正樹の3名をはじめ、女性キーボーディストのスミレディ、パーカッショニストの南條レオが参加している。

 ジャンルを超えたシンガー・ソンングライター兼ギタリストとして唯一無二の存在であるサイゲンジのプロフィールについては説明不要と思われるが、『ACALANTO』(05年)の10周年記念リマスター盤のリイシュー時に再掲載した筆者のインタビュー記事を参照して欲しい。
 また20年前から彼のライヴをチェックしている筆者としては、なにより生で体験することを強くお勧めしているのだが、本作を1ヶ月以上聴き込んでその選曲センスとヴォリュームで充分楽しめた。
 ここでは筆者が気になった主な収録曲の解説と共に、サイゲンジ本人が本作のモチーフとして選曲したプレイリストを掲載するので試聴しながら読んで欲しい。


 本作は『Compass』の冒頭曲「First song(for our tales~Magia)」から始まる。スタジオVerからアレンジ的に大きな変化は無いが、斉藤と小美濃のリズム隊のダイナミズムと林の繊細なピアノのコントラストがこの曲の世界観をよりビビッドにしており、後半のサイゲンジのヴォーカリゼーションのインタープレイにも引き込まれてしまう。
 続く「朝と摩天楼」は、ジャズ・フィールドでプレイしているリズム隊の2人の本領が発揮されており、スタジオVerにはない林によるピアノ・ソロも効果的である。極めつけは縦横矛盾なスキャットと掛け合うパートがライヴならではの醍醐味だ。『Compass』では曲順が入れ替わって本作では3曲目に「Dance of Nomad」が収録されており、同作のリード・トラックとしてライヴでも映える存在であったのは間違いなかった。特にサルソウルとサンバを融合させた斎藤のドラミングはこの曲の肝である。

 本作ディスク1のハイライトとしてジャズスタンダード・カバーの「On Green Dolphin Street」にも触れておきたい。記事後半で紹介しているプレイリストのコメントでサイゲンジ本人が語っているが、ジョン・コルトレーンのプレイにインスピレーションを受けてライヴ・レパートリーにしているという。なるほど小美濃のベース・プレイはポール・チェンバースのそれを意識しているが、林のピアノはウィントン・ケリーのそれより自由度が高く、長いソロ・パートで激しく暴れ回る。そのプレイに触発されたか、小美濃と斎藤も各々のソロで徐々に熱を帯びて、後半のサイゲンジのスキャットと激しく掛け合って大団円を迎える。正しく圧巻のプレイとはこのことだ。


 ディスク2ではセカンド・アルバム『la puerta』のリード・トラック「走り出すように」から始まる。当時からライヴで人気の高い曲で15年後もニューソウルとミナス・サウンドが溶け合った感覚は息づいている。ここではスミレディのオルガン・ソロ~サイゲンジのスキャット~南條のパーカッション・ソロの流れが聴きどころだ。
 「Heartbeat」は『Compass』収録中筆者が最も好きな曲で18年の年間ベスト・ソングにも選んだ程だが、ライヴの生演奏ではアコースティックなヒップホップ感覚が更に増していて、観客とのコールアンドレスポンスも楽しい。
 このディスク2のハイライトはやはり「Music Junkie」になるだろう。オリジナルは5thアルバム『Music Eater』収録で、08年の『LIVE! LIVE! LIVE! vol.1』でも取り上げられていたが、本作ではその倍近い16分を超える尺で収録されている。 ファンには説明不要かも知れないが、曲のタイトルはサイゲンジの音楽的姿勢を体現しているのに他ならない。ゆえにここでの林、小美濃、斎藤による巧みで長いインタープレイや観客とのコールアンドレスポンスもサイゲンジ・ワールドのエレメントとなって聴く者の心に大きく響くのだ。

 疑似ライヴ体験できるとも言える本作『Live “Compass for the Future”』に興味を持った音楽ファンは、是非入手して聴いて欲しい。
 なお来週5月12日にリリースを記念して弾き語り生配信を予定しているので、詳しくは下記の動画をチェックしよう。

【2020/5/12 弾き語り生配信のお知らせ】 


『Live “Compass for the Future”』のモチーフとなるプレイリスト
 / Saigenji 



◎プレイリスト・コメント 
 実はここのところほとんどYouTubeでフラメンコばかり観ていたいので、必ずしもこのリストは正しくないんですが、結局自分はJazzが好きなんだな、と最近痛感していて、家でCDをかける時はほとんどブルーノートなどのJazzでした。
 1と6はyoutubeのtiny desk concertのライブバージョンを聴いていました(観ていました)。生音ヒップホップはやはり好きですね。
 3,4,5は我が永遠のアイドルたち。
 みんな天に召されてしまいましたね。合掌。
 7,8はライヴ盤に収録したカバーのオリジナル音源です。二曲とも我が生涯の重要なレパートリー。特にコルトレーンのOn greenは自分の強力なインスピレーションになっています。 YouTubeにしかないかも。
 9のSo what はこの世で一番カッコいい曲だと思っています。
 10 最後に一曲だけ自分の曲を。現在進行形の自分を表現する最も端的な曲です。ライヴ盤のバージョンでは林正樹くんのソロが最高です。

1 Anderson Paak  "Come down" 

2 Wayne Shorter  "Juju" 

3 Paco de Lucia  "Rio de la miel" 

4 João Gilberto  "Eu sambo mesmo" 

5 Bill Withers  "Ain't no sunshine"

6 Common  "letter to be free"

7 Caetano Veloso  ''Tonada de luna llena"

8 John Coltrane  "On green dolphine street"

9 Miles Davis  "So what"

10 Saigenji  "Dance of nomad" 


(テキスト:ウチタカヒデ)


1970年代アイドルのライヴ・アルバム(沢田研二・ソロ編 井上バンド-1)

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 さて今回は沢田研二がソロになって発表したライヴ・アルバムについてまとめていくことにする。その前にまず彼のソロの歩みだが、正式なソロ・デビューは1969年12月にリリースされた『JULIE』だ。ただ、この時期はタイガース在籍中でシングルとなった<君を許す>はタイガース名義になっている。 

 ということで、事実上ソロのスタートとなるのはPYG在籍中の1971年11月1日に発表した<君をのせて>ということになる。この曲は「合歓ポピュラー・フェスティバル」参加曲として注目されるも、当時は23位ということでGSの頂点に立ったトップ・スターとしてはいささか物足りないものだった。当時は沢田自身あまり乗り気ではなかったナンバーだったらしいが、後にデビュー30周年作の1996年にリリースの<愛まで待てない>カップリングに<君をのせて1990version>として収録している。またASKA(元チャゲ&飛鳥)が1995年の『NEVER END』でカヴァーするほどの名曲だった。

  しかし、その翌月に発表したセカンド・アルバム『JULIE II』は、ロンドン録音に加えそれまでの活動にゆかりのメンバー作品でかためている。ここから翌1972年3月に<許されない愛>がシングルとなり、ソロ初のトップ10(4位)入りを果たす。それと同時に井上堯之バンドを従えて前年の12月に日生劇場公演を収録した『JULIEⅢSAWADA KENJI RECITAL』、年末にも10月の同会場公演の『JULIE Ⅴ』を発表し、ライヴ・アーティストとして存在感を際立たせている。

  なおこのライヴ・アルバムを挟んだ9月には全曲沢田の作詞作曲による『JULIE Ⅳ~今、僕は倖せです』をリリースしている。その後、発表の<あなただけでいい>(5位)<死んでもいい>(9位)も連続ヒットとなり、年末にはこれまで排除され続けていた「NHK紅白歌合戦」に初出場(第22回)を果たす。 このように、ソロ活動を軌道に乗せた沢田は、1973年に<あなたへの愛>もトップ10入り(6位)と完全にチャートの常連になった。

 そんな“ロック・シンガー・ジュリー”を象徴するものとなったのが、松木恒秀氏(注1)の鋭いギターが印象的な<危険なふたり>だった。この曲はソロ初の1位(65.1万枚;年間5位)を獲得し、第4回日本歌謡大賞を受賞するなど、ソロとしての人気を確固たるものとした。余談になるが、このヒットに歓喜した一人にジュリーの大ファンだった佐野邦彦氏もいた。

  そして、再びロンドン録音を敢行した『JULIEⅥ ある青春』を発表。このアルバムは作品としての評価も高く、なんといっても以後沢田のライヴでは欠く事の出来ないキラー・チューンとなっている<気になるお前>が収録されたことだった。


  翌1974年最初のシングルはバンドを意識したジャケットの<恋は邪魔もの>(4位)で、続く7月には彼にとって2曲目の1位(57.9万枚)となる<追憶>をリリース。 このように国内では向かうところ敵なしといった沢田が、その勢いで敢行したのはバンドを率いて全国をツアーすることだった。この日本初(注2)となる「Julie Rock'n Tour’74」と題されたツアー(16都市34公演)は各地で大きな反響をもって迎えられた。このジュリーの先駆的試みがあったからこそ、それまでの日本では「巡業」というスタイルだった地方公演が、本格的にツアーとして開催されるきっかっけとなった。それを即実践していたのは西城秀樹で、翌年1975年には富士の裾野からスタートしたヒデキ初の全国縦断コンサートを敢行している。

 またこの時期からスタイリストやアートディレクションに早川タケジ(注3)が参加しており、以降斬新なファッションが披露されることになった。そのお披露目となったのは7月のツアー初ステージとなった日比谷野外音楽堂の公演で、そこでのジュリーは全身インディアン風の出で立ちでファンの前に登場している。

  そしてこのツアー中には、郡山で開催された伝説のロック・イヴェント「ワン・ステップ・フェスティヴァル」(注4)にも参加している。このフェスの参加は主催者の一人内田裕也氏からの依頼を受けたものだったようだが、当時このような催しに芸能界のトップ・スターが参加するのは異例中の異例だった。普通であればこのような存在の登場には、硬派のロック・ファンから「帰れ!」コールを浴びせかけられるのが通例(注5)だった。しかしそこでは圧巻のパフォーマンスで、他を寄せ付けないほどの実力を見せつけ、来場者をうならせていたという。これ以降毎年全国ツアーを恒例行事として決行するようになっているが、この続きは「Part-2」にまわすことにする。 

(注1)1968年頃からギタリストとしてスタジオ・ミュージシャン活動を開始。その後、 自身のバンドを結成、同時期にPlayersなど数々のバンドにも参加。1977年から は山下達郎のサポート・メンバーにも参加する。彼の門下には、和田アキラ(Prism) や山下達郎などがいる。2017年6月18日惜しくも68歳にて逝去。 

(注2)初めてツアーを実行したのは1973年秋に敢行した吉田拓郎だった。それは「海外にはツアーというものがあるらしい」という情報をもとにした試行錯誤の中での見切り発車だった。 ただ、この手法はそれまで興行を仕切ってきた業者と大きな軋轢を生み、会場の 確保もままならないケースもあったという。 

(注3)1947年生まれの画家兼デザイナーで、芸能人スタイリストの草分け。ヴィジュア ルな時代を創造した鬼才で、1988年アートファッション20世紀ファッション・イラストの巨匠たち展において日本人で唯一選出されている。 

(注4)1974年8月4日~10日まで福島県郡山で開催された日本初の野外ロック・イヴェント。ここにはサディスティック・ミカ・バンドや四人囃子など39組の日本精鋭ミュージシャンと、アメリカからヨーコ・オノ&プラスティック・小野・スーパー・バンドとクリス・クリストファーソン&リタ・クーリッジ夫妻(当時)が参加。 

(注5)1970年代初頭までは、ロックやフォーク・ファンにはアーティストのメジャー化に否定的な風潮があった。“フォークのプリンス”と呼ばれていた吉田拓郎も<結婚しようよ>のヒットでメジャー入りした際に、フォーク・ファンから「帰れ!」コールを浴びている。沢田もPYG時代の1971年3月に京大西部講堂で行われた第1回MOJO WEST参加の際に、ロック・ファンからその洗礼を受けている。




『Julie Ⅲ 日生リサイタル』 1972年3月10日 / Polydor / AR-9001 
国内チャート 11位   5.5万枚
①何かが始まる(I Feel The Earth Move)(キャロル・キング:1971)、②Hello Goodbye(ザ・ビートルズ(以下B4):1968)、③Get Back (B4:1969)、④風にそよぐ葦、⑤美しい予感、⑥ 愛に死す、⑦許されない愛、⑧嘆きの人生、⑨船出の朝、⑩電話の唄、⑪Mamy Blue (ポップ・トップス:1971)、⑫GENTLE SARAH(Thomas F. Browne:1972) 、⑬鳥になった男、⑭タイガース・メドレー(スマイル・フォー・ミー~嘆き~素晴らしい旅行~シーサイド・バウンド~ラヴ・ラヴ・ラヴ~君だけに愛を~花の首飾り~銀河のロマンス~落葉の物語~僕のマリー~青い鳥 ~都会 ~モナリザの微笑み)、⑮君をのせて、⑯傷だらけのアイドル(Free Me)(ポール・ジョーンズ:1967) 、⑰TELL EVERYONE (フェイセス:1971) 、⑱ヘイ・ジュテーム(Mon Cinema)、⑲祈る 

  セカンド・アルバム『JULIE IN LONDON』を発表した直後に行われた1971年12月24日 日生劇場での公演を収録。まだ、PYGは正式に解散していない時期だっただけに、ファンとしては待望だったのかは微妙なところだ。ただ、PYG参加とともに封印したタイガース・ナンバーを歌い、アルバムの発売に合わせてリリースした⑦も披露されている。PYGナンバー⑲が収録されてはいるが、事実上ソロ活動のスタートと言えるだろう。 

参考:カヴァー収録曲について 
① 何かが始まる 
 キャロル・キングが1971年に発表した15週連続全米1位に輝くセカンド・アルバム『つづれおり(Tapestory)』の収録曲で当時の邦題は<空が落ちてくる>。彼女はこの年のグラミー賞で4部門(最優秀アルバム賞、最優秀女性ポップ・ヴォーカル、最優秀レコード賞<It’s Too Late>、最優秀楽曲賞<君の友だち(You’ve Got A Friends)>)受賞。このアルバムはその後約6年間(306週)に渡り全米チャートに留まる金字塔となり、当時のシンガー・ソングライター(以下、SSW)ブームを牽引する代表格となった。

②Hello Goodbye
 B4が1967年にリリースした19枚目のオリジナル・シングル。彼らにとって、13作目の全英1位ヒットとなり、<She Loves You>の7週間連続の記録に並んだ。 

③Get Back
 B4が1969年にリリースした19枚目オリジナル・シングル、アップル設立後のセカンド・シングル。映画『Let It Be』のハイライトとなった「ルーフ・トップ・コンサート」でのハイライト曲にもなった。

 ⑪Mamy Blue 
 シャンソンのスタンダード<パリの空の下(Sous le ciel de Paris)>の作者Hubert Giraudが書下ろしたヒット曲。複数の競作盤がリリースされるが、スペインのポップ・トップス版がヨーロッパや日本で大ヒットした。 

⑫GENTLE SARAH 
 英国のSSW、Thomas F. BrowneがVertigoからリリースした唯一のアルバム『Wednesday’s Child』収録曲。オリジナルは哀愁感の漂う英国のスワンプ・ソング風。

⑯傷だらけのアイドル 
 元マンフレッド・マンのヴォーカリスト、ポール・ジョーンズが1967年に主演した同名映画のテーマ曲。 

⑰TELL EVERYONE 
 フェイセスの1971年セカンド・アルバム『Long Player』収録曲。作者はオリジナル・メンバー、ロニー・レーン。なお彼は1974年にリリースしたファースト・ソロ『Anymore for Anymore』で、セルフ・カヴァーしている。 



『JulieⅤ 日生リサイタル』 1972年12月21日 /  Polydor /  MR-9121/2 
国内チャート14位   5.7万枚
①I Believe In Music (マック・ディヴィス:1968) 、②Clementine、③Jealous Guy (ジョン・レノン:1970)、④今、僕は倖せです、⑤青春、⑥心の友(With A Little Help From My Frirnd (B4:1967)) 、⑦The Letter (ボックス・トップス:1967) 、⑧60才の時(Sixty Years Old (エルトン・ジョン:1969))、⑨I(Who Have Nothing)(トム・ジョーンズ:1969)、⑩Traveling Band、⑪Johnny B. Good (チャック・ベリー:1958)、⑫Trouble (エルヴィス・プレスリー:1958) 、⑬湯屋ちゃん、⑭Blueberry Hill (ファッツ・ドミノ:1956) 、⑮のっぽのサリー(Long Tall Sally(リトル・リチャード:1956)、⑯Shake Rattle And Roll (ビル・ヘイリー&コメッツ:1954) 、⑰あなただけでいい、⑱死んでもいい、⑲What’d I Say、⑳Give Peace A Chance (プラスチック・オノ・バンド:1969)、㉑Song For You (レオン・ラッセル:1970)、㉒捨てないで(Ne Me Quitte Pas (ジャック・ブレル:1959)、㉓Amor Miio (ミーナ)、㉔Without You (バッドフィンガー:1971/ニルソン:1972) 
 
 1972年10月17日-21日 日生劇場でのライヴを収録。この時期は初のセルフ・プロデュース作『JULIE Ⅳ~今、僕は倖せです』をリリースした直後で、内田裕也に捧げた⑬も披露されている。PYG時期の反省か未消化の最新ロック・ナンバーをレパートリーにせず、“ジュリーらしさ”を感じさせるチョイスになっているように思える。 

参考:カヴァー収録曲について 
①I Belive In Music  
 オリジナルは1970年にマック・ディヴィスがリリースし全米117位(A.C.25位)の小ヒット。日本では沢田研二が自ら訳詞を手がけて歌い、のちに多くの歌手がカヴァーをするようになった。なお彼の代表曲は1972年に全米1位となった<愛は心に深く(Baby Don’t Get Hooked on Me)>。 

②Clementine 
 日本では<雪山讃歌>として知られる。元は1946年のジョン・フォード監督の「アメリカ映画『荒野の決闘(My Darling Clementine)』の主題歌。 

③Jealous Guy 
 ジョン・レノンが1971年にリリースした傑作セカンド・アルバム『Imagine』収録曲。、多くのシンガーによって歌い継がれるスタンダード・ナンバー。 

⑥心の友 
 今やリンゴ・スターの代名詞となっているB4世紀の傑作『S.G.P.』(1967年)収録曲。1968年にメジャー・デビューを飾った不世出のヴォーカリスト、ジョー・コッカーの初ヒット曲(全米68位、全英1位)。とくに、ウッドストックにおけるジョーのパフォーマンスは、彼の名声を一躍高めるものだった。 

⑦The Letter 
 1967年にボックス・トップスが全米1位(年間2位)に送り込んだ彼らの代表作。なおグループは翌年4月には<Cry Like a Baby>を2位に送り込んでいる。1970年にはジョー・コッカーがカヴァーし、彼初の全米トップ10ヒット(7位)となった。 

⑧60才の時 
 エルトン・ジョンが1969年に発表したセカンド・アルバム『Elton John』の収録曲。 

⑨I(Who Have Nothing) 
 1970年にトム・ジョーンズがリリースした30作シングル(全米16位、全英14位)。オリジナルは1961年にJoe Sentieriが<Uno Dei Tanti>としてイタリアでヒットさせた。1963年にジェリー・リーバーとマイク・ストーラーが英詞をつけベン・E・キングによって歌われ、全米29位を記録。 

⑪Johney B Good 
 1958年にチャック・ベリーがリリースした12作シングルで、全米8位、R&B.2位を記録。B4からプレスリーをはじめ世界中のミュージシャンにカヴァーされたスタンダード。なおローリングストーン誌の選ぶ“オール・タイム・ギター・ソング”では1位にランクされた。

⑫Trouble 
 エルヴィス・プレスリーが1958年の主演映画『King Creole』挿入歌として発表。後に1968年に全米NBCで放映された『Comeback Special』のオープニングを飾ったナンバーとして広く知られている。 

⑭Blueberry Hill  
 もともとは1940年にグレン・ミラー楽団がヒットさせたものだが、一般には1956年にファッツ・ドミノが歌って全米2位に送り込んだヒットの方が圧倒的に有名だ。 

⑮のっぽのサリー 
 ジャンピング・スタイルでパワフルにピアノを弾きまくるシャウター、リトル・リチャードが1956年にリリースした15作シングルで、ソウル・チャート初1位(全米13位、全英3位)を獲得した代表曲のひとつ。この曲はポールマッカートニーのお気に入りで、1964年にB4名義EPでカヴァーされ、さらに広く知られるところとなっている。 

⑯Shake Rattle And Roll 
 オリジナルは1954年黒人ブルース・シンガー、ジョー・ターナーの34作シングルでソウル・チャート1位(全米22位)を獲得。同年にはビル・ヘイリー&コメッツが9作シングルとしてリリースして全米9位(全英4位)のビッグ・ヒットとなった。さらに1956年にはエルヴィス・プレスリーも録音し、ロックン・ロールの定番曲となっている。 

⑳Give Peace A Chance 
 1969年7月にジョン・レノンがB4在籍中にプラスチック・オノ・バンド名義でリリースしたデビュー・シングル。全英2位でオランダでは1位を記録、全米では16位だったものの、1970年以降には反戦運動の讃歌になっている。それを決定付けたのは、1970年に「カンヌ国際映画祭」で「審査員特別賞」を受賞した映画『いちご白書(The Strawberry Statement)』のラスト・シーンがあげられる。 

㉑Song For You 
 1970年代初期“最後のスーパー・スター”と呼ばれていたレオン・ラッセルの代表曲。1970年に自身のレコード会社シェルターでのファースト・アルバムに収録。1971年にアンディ・ウィリアムのカヴァーが全米82位になり、同年には、ダニー・ハザウェイ、ヘレン・レディメリー・クレイトンがこぞってカヴァー。1972年にはカーペンターズが4作目のアルバムのタイトル曲とし、今や「アメリカン・クラッシック」のスタンダード・ナンバー。 

㉒捨てないで 
 シャンソン歌手ジャック・ブレルが1959年に発表した代表曲のひとつで、日本では<行かないで>の邦題で知られている。オリジナル・タイトルは<NE ME QUITTE PAS>、英語圏では<If You Go Away>のタイトルで、幅広い層に歌われているスタンダード。 

㉓Amor Miio 
 イタリアの人気女性シンガー、ミーナのヒット曲。作者は1960年代から活躍したイタリア出身の作詞家Mogol(本名:Giulio Rapetti)と、作曲家兼歌手Lucio Battisti、のコンビによるもの。 

㉔Without You 
 オリジナルは1972年バッドフィンガーがセカンド『No Dice』に収録。B4ナンバーと思いこんだニルソンが1972年にピアノ・アレンジでカヴァーし全米1位の大ヒットを記録。1994年にはマライヤ・キャリーがカヴァーして全米3位を記録しているスタンダード。



『Julie Ⅶ 沢田研二リサイタル』 1973年12月21日 /  Polydor /  MR-9127/9 
国内チャート 14位 / 5.3万枚 
①悲しみも歓びも、②Kansas City(リトル・リチャード:1959)、③I Feel So Good (フェイセス:1971)、④よみがえる愛、⑤忘れじのグローリア(GLORIA)(ミッシェル・ポルナレフ:1973)、⑥Cavar Of Rolling Stone(Dr.フック&ザ・メディシン・ショウ:1972)、⑦Cotton Fields、⑧I'll Never Leave You (Nicole Croisille:1968)、⑨気になるお前 、⑩メドレー:①Move Over (ジャニス・ジョプリン:1970)~②The Jean Genie(デヴィット・ボウィ:1972)~③被害妄想~④You Gatta Move(ストーンズ:1971)~⑤Honkey Tonk Woman~⑥Get Back、⑪ある青春、⑫ユア・レディ(ピーター・スケラーン:1972) 、⑬ひとりぼっちのバラード、⑭胸いっぱいの悲しみ、⑮許されない愛、⑯危険なふたり、⑰ロックンロール・メドレー:①Trouble~②君だけに愛を~③恋の大穴(エルヴィス・プレスリー:1959)~④Johney B. Good~⑤愛は?人は?~⑥やすらぎを求めて~⑦怒りの鐘を鳴らせ、⑱悲しみのアンジー(Angie)(ストーンズ:1973)、⑲あなたへの愛、⑳I Belive In Music、㉑Honkey Tonk Woman 

 名作『JULIEⅥ ある青春』発表後に1973年10月10日 中野サンプラザで開催されたライヴをなんと3枚組というヴォリュームでリリースされた。ここでは以後定番となるキラー・チューン<気になるお前>が初披露されている。なお⑥はタイガースが「Rolling Stone誌」の表紙を飾ったことがどれほどすごいことかを説明するためにセット・リストに組んだようで微笑ましく感じる。 

参考:カヴァー収録曲について 
②Kansas City 
 1952年にリトル・ウィリー・リトフィールが<K.C.ラヴィング>のタイトルで発表した。1959年に<カンタス・シティ>に改題されウィルバート・ハリソンが歌い全米1位を記録。そして同年にリトル・リチャード、1964年にはビートルズが『For Sale』に収録した事で広く知れ渡る。 

③I Feel So Good 
 20世紀のブルース音楽の発展における重要人物の一人であるブルース・シンガー、ビッグ・ビル・ブロンジーが書下ろしたブルース・ナンバー。1971年にロッド・スチュワートが在籍したフェイセスのセカンド『Long Player』で8分を超すライヴ・テイクを収録。 

⑤忘れじのグローリア 
 フランスの国民的人気シンガー、ミッシェル・ポルナレフが本国で1970年(<僕は男なんだよ(Je suis un homme)>B面)、日本では1973年<愛の休日(Holidays)>に続いてリリースされた大ヒット曲。 

⑥Cover Of Rolling Stone 
 1970年代に人気を博したポップ・グループ、Dr.フック&ザ・メディシン・ショウ(後にDr.フックに改名)が1972年の4作目のシングルで全米6位を記録。この曲は音楽雑誌「Rolling Stone誌」の表紙になりたいというミュージシャンの曲で、彼らはこの曲のヒットで見事「1973年3月29日号」の表紙に起用されている。 

⑧I'll Never Leave You 
 1966年のフランス映画『男と女(A Man and a Woman)』のサントラに参加したシャンソン歌手で女優のNicole Croisilleが1968年にリリースしたナンバー。 

⑩-①Move Over 
 優れた歌唱力と個性的な歌声で不世出の女性ヴォーカリスト、ジャニス・ジョプリンの遺作となった1971年の第4作(ソロ2作)『パール』収録曲。本国ではこのアルバムから<ミー・アンド・ボビー・マギー>がシングルとなり全米1位となっているが、日本ではこの曲が<ジャニスの祈り>のタイトルでヒットした。 

~②The Jean Genie 
 デヴィット・ボウィがグラム・ロックカーとして名をはせていた1973年に発表した第6作『Aladdin Sane』収録曲。アルバムに先駆け1972年にリリースし全英2位となり、人気を決定的にした。 

~④You Gatta Move 
 オリジナルは1940年代から伝わるゴスペル。1965年にミシシッピー出身のブルース・シンガー、フレッド・マクダウェルによってカントリー・ブルースとして録音され、ポピュラーなナンバーとなる。1971年にはストーンズが世界中で1位となった『Sticky Fingers』に収録し、その後も重要なレパートリーになっている。

⑫ユア・レディ  
 1972年に英国S.S.W.ピーター・スケラーンがリリースし、全英3位(全米50位)を記録した自身の最大ヒット。 

⑰-②恋の大穴(A Big Hunk o’ Love)
  エルヴィス・プレスリーが1959年にリリースした12曲目の全米1位曲(2週間)。曲を書いたAarlon SchroederとSyd Wychのコンビはレスリー・ゴーアの全米1位曲<It’s My Party>(1963年)の作者としても知られた存在。 

⑱悲しみのアンジー  
 ストーンズが1973年にリリースした6曲目(バラードは2曲目)の全米1位曲。この曲は同年8月に発表した『山羊の頭のスープ(Goats Head Soup)』からの先行シングルで、当時はデヴィッド・ボウィのワイフ(アンジェラ)を歌ったといった噂でも騒がれた。なお幻に終わってしまった年初の来日公演の記念盤になったかもしれなかった。 



『1974 One Step Festival ライブ』 2019年3月6日(2005.) /  UPER FUJI / FJSP-369 ①内田裕也Mc Introduction、 ②恋は邪魔もの、 ③The Letter、 ④Move Over~The Jean Genie~We Got Move、 ⑤C.C Rider(ミッチー・ライダー&デトロイト・ホイールズ:1965)、 ⑥To Love Somebody、 ⑦お前は魔法使い、 ⑧湯屋さん、 ⑨恋の大穴、 ⑩MC、 ⑪Johnny B.Good~のっぽのサリー~Whole Lotta Shakin Going on(ジェリー・リー・ルイス:1957)~Tutti-frutti(リトル・リチャード:1955)~のっぽのサリー、⑫追憶, ⑬悲しい戦い、 ⑭I Want to Take You Highter(スライ&ザ・ファミリー・ストーン:1969)、 ⑮気になるお前、⑯内田裕也Encore Introduction、 ⑰What'd I Say


  2005年リリースのワン-ステップ総集編(4枚組CD)には、<恋は邪魔もの><恋の大穴><追憶>の3曲が収録。そして、2019年の21組の単独CD発売時にジュリー盤も登場。ここには初日8月4日の大トリに出演した64分全てを収録。内田裕也が飛び入りしたロックンロール・メドレーでは、チャック・ベリーを意識した“ダック・ウォーク”を披露したというほど、ジュリー自身もフェス参加を楽しんでいる様だ。アンコールを含め予定時間をオーバーするロック魂溢れるライヴを見せつけている。    

参考:カヴァー収録曲について 
⑤C.C Rider 
 アメリカで人気の高いフォーク・ブルース・ナンバー。1960年代になってミッチー・ライダー&デトロイト・ホイールズ(1965)やアニマルズ(1966)のカヴァーが全米トップ10ヒットとなり注目される。そしてエルヴィス・プレスリーが1970年の『On Stage』(全米11位)に収録以来、一般にも広く知られるようになった。 

⑪Whole Lotta Shakin Going on 
 ジェリー・リー・ルイスが1957年にSUNレコードからリリースした代表曲のひとつで、全米3位とソウル&カントリー・チャートで1位を記録している。 

~Tutti-frutti  
 リトル・リチャードが1955年にリリースした14作シングルで、ソウル・チャート2位(全米21位、全英29位)を記録した初の大ヒット・ナンバー。後に、エルヴィスやB4もカヴァーした代表曲のひとつ。 

⑭I Want to Take You Highter  
 マイルス・ディヴィスをも虜にしたファンク・ミュージックの革命児スライ・ストーン。彼が1969年3月にスライ&ザ・ファミリー・ストーンとしてリリースした第4作で一大傑作『Stand!』収録曲。なお1969年8月に40万人が集結したウッドストック・フェスティヴァルのパフォーマンスは、早朝4時(8/17)の出番にもかかわらずオーディエンスを熱狂させ、フェスの主役のひとりになっている。

                               (鈴木英之)

名手達のベストプレイ総集編

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 昨年3月に名ドラマーのハル・ブレイン氏の逝去を追悼することで始まった「名手達のベストプレイ」は、回を重ねてアレンジャーのニック・デカロ氏の第6回まで続いた。
 名手達を敬愛する参加者によるベストプレイの選曲という試みは、個人的趣味が大きく反映される訳だが、選者は筆者と交流のあるミュージシャンばかりだったのでその拘り方は一筋縄ではいかない、興味深い企画になったと思う。

 今回ここではそれを振り返る機会として、各タイトルに記事をリンクして、選曲されたプレイリストの試聴用サブスクリプションを並べて再紹介する。是非プレイリストを聴きながらリンク先の記事を再読して楽しんで欲しい。
 また同時にこの企画を今後も継続すべく、新たな参加者を募集しています。
 昨年同様に現役ミュージシャン兼拘り派オーディエンスで興味を持った方は、本記事のコメント欄から管理人宛にどしどし応募して下さい。


   



   









  







 (企画 / 編集:ウチタカヒデ)


Stay Home

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 全世界をコロナ禍が蝕みつつある、突発的流行に絶息された方々へ深く哀悼の意を捧げる。
 感染症対策として多くの都市封鎖が行われた、"Stay Home"のスローガンも導入された今回はHomeにちなんで、The Beach Boys関連のお宅訪問してみよう。

 今時のコロナ禍からちょうど100年程遡る1918年、世界的に現代と同じく疫病の流行があった、スペイン風邪である。
 その前年Brian Wilsonの父Murry Wilsonが出生した、その50年後ヒッピー文化のカリスマであるTimothy Learyがurn On, Tune In, Drop Out!(ドラッグで意識をオンにして、その意識をチューンインして拡大し、家からドロップアウト!)を全米に説き、多くの若者が家を捨てCaliforniaを目指した。
 それから50余年後のCaliforniaは都市封鎖を行い外部の流入を拒んだ、住民は何がしかの薬を飲み、家の中で閉じこもっている。
 スペイン風邪の発生については諸説あるがその中の米国起源説によれば、Kansas州のHaskell郡(下図では3にあたる)または米国陸軍Riley基地の兵舎(下図では2にあたる)と言われている。父Murryの出生地はそれらの中間地点であるHutchinsonにあって(下図では1にあたる)多くの北ヨーロッパ出自の移民コミュニティが形成されていた。
 Hutchinsonの近隣にはWichitaが位置し、かの地を冠したヒット曲Wichita Linemanは弊誌読者にもおなじみである。シンガーGlenn Campbellは一時期Murryの息子Brianの代役としてThe Beach Boysに在籍していた。


 同曲の作曲者Jimmy Webbは隣のOklahoma州出身で、Wichita LinemanはそもそもJimmyの出身Oklahoma州をドライブ中Washita郡で見た保線夫の光景から生まれた。しかしながら、歌詞の舞台はJimmyの郷里ではなく、近隣のWichitaが選ばれた。
 実際のWichita市は大都市であり曲のイメージからは遠い、同名のWichita郡が下図の2の上あたりにあり、小さな自治体であるのでこちらのイメージが近そうだ。
 一方でWashitaの名を冠した曲は存在していて、Jesse Ed Davisによる『Washita Love Child』がある。(1970年発表のLP 『Jesse Davis!』A面3曲目 収録)


 The Beach Boysは1982 1984 2013年にライブで Kansas州を訪れている。Mike LoveにとってもWilson家は母方の実家にあたる、2018年Hutchinsonの生家を訪問している。
 Wilson家がKansas州に定着したのは19世紀後半、Brianから4代前のWilliam Henryからで現地では配管業を営んでいた。当時の配管業は急成長を遂げる社会インフラであり、上下水道・電話・ガス等様々な分野で拡張しており、現代のインターネットのめざましい伸長に匹敵するほどの技術であったのだ。
 実はこのWilliamの代で、Wilson家は一度Californiaへ進出している。
 1904年頃、現地での刑務所建設で多くの配管需要があり、一時Williamはこれで多くの富を築きSan Diego市郊外Escondidoの葡萄農園に投資するもかなわず一年でKansasへ戻った。現在Escondidoの農園近くにはSandie go Zoo Safari Parkが建っている。
 同公園はSan Diego市内のSan Diego Zooから分かれて1970年代に開園した。 本家の方は1966年発表の『Pet Sounds』のカバー撮影場所で有名だ。


 Pet Soundsは世界中で名作と賞賛されWilson家の栄誉を残した。 由縁のある土地での100年前の曽祖父の失敗を曾孫が見事に取り返したのだ、まさに『江戸の仇は長崎で』ある。
 そしてWilliamの子Buddy、Brianから3代前は父同様配管業に従事していたが、父の失敗から10年後再びCaliforniaを目指した。現地で安定した仕事に就けず何度もKansasと西海岸を行き来したのち、1920年代遂に子Murryを含む妻子をCaliforniaへ呼び寄せる。
 時は黄金の20年代であった、Buddyは運がなく困窮しており、住処も借りられなかったので、しばらくHuntington Beachの浜辺でテント暮らしを続けた。それから40年後運をつかんだBuddyの孫たちは、運命の巡り合わせか?自らをThe Beach Boysと名乗った、BrianはHuntington Beachにインスパイアされ筆をとって『Surf City』を作曲した、そして同曲のヒットにBuddyと昔テント生活をしたその子Murryは怒った。(続く)


(text by MaskedFlopper)

ポニーのヒサミツ:『Pのミューザック』(HAYABUSA LANDINGS / HYCA-8001)

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 シンガーソングライター前田卓朗のソロユニット“ポニーのヒサミツ"が4月22日にサード・アルバム『Pのミューザック』をリリースした。 少し遅くなったがここWebVANDAでも紹介したい。
  “ポニーのヒサミツ”は、インディー・ロック・バンド、“シャムキャッツ”のヴォーカル夏目のバンド“夏目知幸とポテトたち”のメンバー等として活動していた前田卓朗が、2008年から活動していたソロユニットである。これまでに3枚の7インチシングルとCDシングル1枚、2枚のフルアルバムをリリースしており、個性的なカントリーテイスト溢れる作風が各所で注目を浴びている。


 本作『Pのミューザック』は、一聴してカントリー・フレイバー漂う英国田園ポップ&ロック・サウンドで、ポール・マッカートニー及びそのフォロワー信奉者に歓迎されるだろう。そのポールのファースト・アルバム『McCartney』(70年)よろしく本作では、前田の一人多重録音を多用してレコーディングされており、VANDA読者にはお馴染みのエミット・ローズにも通じるのだ。
 ゲスト・ミュージシャンには前田も参加するバンドSpoonful of Lovinʼの現メンバーで、元“森は生きている”の谷口雄がアコーディオンで参加しており、“森は生きている”コネクションでは、ドラマーで弊サイトでもお馴染みの増村和彦がパーカッション、リーダーの岡田拓郎はミックスで関わっており、この名バンドの絆は強いということを知らしめた。 
 その他にも前出のSpoonful of Lovin'をはじめroppen、bjonsといったバンドのギタリストである渡瀬賢吾はスライドギター、サボテン楽団こと服部成也がエレキギターとバンジョー、yumboやjonathan conditionerで活躍する芦田勇人はトランペットとユーフォニウムで参加している。
 また空気公団のサポート・メンバーやザ・なつやすみバンドのフロントマンとして知られ、昨年前田の妻となった中川理沙がコーラスで参加しているのも注目に値するだろう。
 アルバムのマスタリング・エンジニアは、ゆらゆら帝国やギターウルフ、SCOOBIE DOらの諸作で知られる中村宗一郎(PEACE MUSIC)が手掛けている。

ポニーのヒサミツ 3rd ALBUM『Pのミューザック』Trailer 

 ここでは筆者が気になった主な収録曲の解説をしていく。 
 冒頭の「Love Song」はタイトルとは裏腹にアコースティック・ギターのリフの循環で展開する陽気なカントリー・ブルース調のポップスだ。2分弱の小曲ながら前田の一人多重録音による無骨なドラムや服部のエレキギターがいいアクセントになっている。
 続く「my‬ dear 霊dy」は前曲以上にポール色が強く、古くは「Martha My Dear」(『The Beatles』収録 68年)や「Uncle Albert / Admiral Halsey」(『Ram』収録 71年)の♪Hands across the waterからの後半パートを彷彿させるアレンジとサウンドを持っている。筆者的にはファースト・インプレッションでベストトラック候補に挙げる。
 「Blackbird」(『The Beatles』収録 68年)に通じる「ライカ」も印象に残る曲で、複数のアコースティック・ギターのアルペジオの有機的なタペストリーが実に味わい深く、堀込泰行にも通じる前田の美しい声質が最も活かされている。この曲では増村和彦がボンゴやシェイカーなどパーカッションで参加している。
  「mutt on」は正に「Ram On」(『Ram』収録 71年)に通じるウクレレ主体の小編成のインスト小曲で本作中盤のいいアクセントになっている。

 ただ、甘やかな日々 / ポニーのヒサミツ   

 本作のリードトラック的位置にある「ただ、甘やかな日々」は、八分刻みのピアノとチェンバロが主体となる牧歌的なポップスで、芦田のホーンと前田自身によるエレキギターがいいアクセントになっている。前出の「my‬ dear 霊dy」と同様に「Martha My Dear」からの影響が強そうだ。
 続く「ありふれた話」はアレンジ、楽器編成的にも「I Will」(『The Beatles』収録 68年)の匂いを感じるプリティーな小曲である。この曲でも増村の複数のパーカッションが曲をよく演出している。
 前出のリプライ曲「mutt on(Reprise)」からラストの「あたたかなうた」への流れは唐突なようだが、如何にもなポールイズムを感じさせて感心してしまう。この曲は2ビートのリズムを基調としたピアノ主体のフォーリズム編成にエレキのアクセントが加わり、間奏での芦田のトランペット・ソロも実に効果的である。
 コーダではバンジョーをプレイした服部、「火を放つ」に参加した谷口(アコーディオン)と渡瀬(スライドギター)に中川理沙も加わって自然発生的なコーラスを展開して大団円を迎えるのだ。
 弊サイトの読者は勿論のこと、ポール・マッカートニーやエミット・ローズの熱心なファンは是非入手して聴くことを強くお勧めする。 
(ウチタカヒデ)


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